7話 魂の形(6)

 ラケたちが門の前に姿を表すと、人々が一斉に駆け寄ってきた。


「現人神様! ご無事で何よりです!」


「シェカルにラケも。ずっと気掛かりだったんだ。他の奴らは?」


 わらわらとみんなが集まって、安堵や気遣いの言葉を投げかける。


「後から追いつくはずだ。そっちはどうだった?」


「それが夜になったら群れが引き始めてな。日が出てからは、ぱたりと途絶えたんだ。家や土地はひどい有り様だけど、なんとか全員生き残ったよ」


 胸のつかえがすっと下りた気がした。昨晩からということは、川の祭祀場で旗を直したのが効いたということだろう。燦々と降り注ぐ日差しに、自分たちの影がくっきりと地面に落ちている。


「これ夢じゃないよな?」


 ディヤはラケの頬を、軽くもにもにとつねった。ちゃんと痛みは感じるが、あのまやかしにも感覚はしっかりあったため、この方法は決め手になり得ない。けれど、災い除けの旗が里帰りを祝うように、ひらひらと風になびいている。あどけない戯れに、ただ微笑んだ。


「うんありがとう。大丈夫みたいだ」


 しばしの間、懐かしいさざめきに耳を傾けていた。しかし賑わっていても、人々の顔には疲れが色濃く浮かんでいる。ここにいるのは、もとから若さと体力のある者だけだ。それでも服はぼろぼろで肌は傷だらけ。災いの爪痕は凄まじかった。


「みんな、通してちょうだいな」


 人波をかき分けて、ゆっくりとした足取りで進み出るのは老婦人――祭祀長だ。侍女の手を借りながらやって来る彼女もまた、他と同じように泥に塗れていた。


「よくぞ帰ってきてくれましたね」


 そう言って深々と頭を下げると、周りにいた人もそれに倣う。ラケも礼を返して、それぞれの無事を噛み締めた。一呼吸ほど静まった後、彼女は父へと向き直る。


「シェカル。あなたたちの働きによって集落は望みを繋ぐことができました。イェンダの長として、心より感謝いたします」


「すぐに戻れず、申し訳ありません。むしろ、貴女のお指図のお陰で我々は迷わずにいられました。こちらこそ、ありがとうございます」


「ええ、お互い頑張りましたね」


 柔らかな笑顔が父を労う。


「それから神の御脚、ラケ。決して諦めず、よくぞ現人神様を守り通しましたね。あなたにはつらいことをさせてしまいました。どうか私たちを赦しておくれ」


「いえ……みんなが生きててくれるなら、それでいいんです。俺のできることなんてたかが知れていますし、現人神様の支えあってこそですから。……それよりも祭祀長。みんなを集めてくださいませんか? 早く病を癒やさないと」


 広場へ全員を呼び寄せてもらうよう傍付きに頼み、ラケたちは祭祀長へことよしを急ぎ伝える。蛇神のことはもちろん、もうディヤが現人神でいなくて良いことも。降って湧いた話にも関わらず、流石の貫禄と言うべきか、すぐに理解を示してくれた。


「もしや貴女は、このことを知っておられたのですか?」


 侍女の代わりに、父が祭祀長をお連れして歩いていく。


「まさか。初めて聞きましたよ。でも、現人神様の成り立ちに、少しだけ違和感を覚えてはいました。祭祀を司る者として見ても、この子が持つ天の神様の気配が薄いのはなぜなのかと。いえまあ、集落を末々すえずえと守るまじないだなんて。巫女様はとても聡いお方だったのですね」


 程なくして、広場を丸く囲うように集落中の人々が集まった。宣誓の舞の時とはまた違った緊張感があたりに漂っている。多くの瞳が、真ん中に佇む幼き神とその足をじっと捉えて、やがて来る最後の奇跡を待っていた。


 やはり、体の至る所が病の黒痣に覆われた人が多い。命を落とさなかったものの、けして無事ではなかった。かすかに聞こえるうめき声や苦しげな咳、子どものすすり泣き。家族や友の姿を探したくなるのをぐっと堪え、今はお役目に徹しようと心を固めた。


 柔らかな風が、木の葉をさやさやと揺らす。集落を渡るそれは、ディヤの髪飾りを弄んで軽やかな音色を奏でた。


「――いい?」


 ただ地に下ろせばいいのだと、帰る道すがら蛇神が言っていた。そうすれば彼女に残された力が広がって、あたり一帯を丸ごと癒やせるらしい。現人神様はしかと頷いた。これまで十一年生きて、初めて降り立つ。生まれ直すに等しい瞬間へ、すでに肝を据えていた。


 膝裏を支えていた右腕を、ゆっくりと低くする。上体は左腕でしっかりと抱きしめたまま、赤く塗られた小さな足を、そっと地面に触れさせた。


 つま先が地に接すると同時に、足元からまばゆい漣が現れた。ディヤを中心にラケへ、そして広場中に、波打つ光は広がっていく。巻き起こる風は体を暖かく包み込み、しきもの全てを拭い去って吹き抜ける。


 視線の向こうでは人々が自分たちの手足を見つめて、喜びに打ち震えていた。黒い病の痕が、洗い流されるように和らいでいく。苦しみから解き放たれた者たちは、顔色もみるみるうちに明るくなった。


 集落を潤した力は、染み渡ると同時に徐々に薄くなり、しばらくすると緩やかに消えていった。清らかな残光を、広場にいた誰もが名残惜しんでいる。ある二人は幸せを分かち合い、老人は宙を眺めたまま呆気からんとしている。押し寄せる想いのままに、涙をこぼす人も。あたりは安らぎと喜びに満ち満ちていた。


「――……、……!」


 息が抜けるようなかすれ声に、腕の中を見下ろした。彼女は両の足でしっかりと大地を踏み締め、そこにいる。抱えていた時より目線が低いからか、ほんの少し遠くにいるような気がした。ディヤはすっきりした雰囲気で、ラケに微笑みかけている。顔つきだけではない。額に浮かんでいた神の印が、綺麗さっぱり消えていたのだ。現人神はもういない。ここに居るのは、紛れもなく人の子だ。


 何かを伝えようと懸命に口をぱくぱくと動かしているが、ほとんど音になっていない。初めて喉を使うのだから止む無しだ。本人はひどくもどかしいのか、晴れ晴れとしていた顔が急に曇ってしまう。


「ゆっくりでいいよ。これから少しずつ、いろんなことができるようになる。それまで待ってるから。本当にお疲れ様」


 彼女の広い額をするりと撫でると、くすぐったそうに肩をすくめて笑ってくれた。いつもより少しだけ表情を崩して。


 にわかに人々がざわつく。視線を上げると一組の男女が、こちらへ歩み寄って来ていた。ラケは少女の肩を持って、体をそちらへ向けてあげる。


「あの人たちはね、ゴダさんとハティラさん。ディヤのお父さんとお母さんだ」


 後ろからそう呟くと、彼女は戸惑いの色を浮かべて一度ラケを振り返ってから、両親の方をおずおずと窺った。縮こまる背を勇気づけるように、そっと送り出す。


「ディヤ!」


 夫婦は、我が子を抱き留めると同時に泣き崩れた。しきりに名を呼びながら、頭を撫で、頬を寄せ、とめどなく涙を流している。ディヤもはじめはどこか決まり悪そうにしていたが、やがて二人へ手を回してぬくもりを体中で確かめていた。


 再び巡り合った親子を後ろからしみじみと見入っていると、突然右手から現れた小さな人影が、勢いそのままにラケの胸へ飛び込んだ。思いの外疲れていたらしく、受け止めきれずへなへなと後ずさる。父がすかさず支えてくれなければ、諸共地面に倒れていたに違いない。


「お兄ちゃん!」


 しがみついた妹は頭をぐっと押し付けて、しばらく口をつぐんでいた。


「……アニタ」


 それ以上なんと声をかけたらいいのかわからず、ひとまず背をさする。向こうから遅れてやってくるのは弟たち。マニスが、むずかるパダムの手を引いて駆けてくる。それを追う母も大事なさそうで、目が合うと顔をくしゃっとさせて笑っていた。


「こら、少しは加減してあげなさい。お兄ちゃんは大仕事を終えて疲れてるんだぞ」


「あたしたちを置いてったんだから、これくらいいいでしょ。お父さんも全然帰ってこなかったんだし!」


 いつもはもっとしっかりしているのに、よほど怖かったのだろうか。でも、年相応にわがままを言うのがひどく懐かしくて、嬉しくて、鼻の奥がつんとする。


「――――ごめん」


「ううん。本当はね、そんなことどうだっていいの。ただ少し、ほんのすこーし心配だっただけ」


「えぇ? なんだよ。おまえって、そんなに冷たい奴だっけ?」


 茶化されたアニタは、違うもんと頬を膨らませた。その瞳は澄んだ水面のように黒く穏やかで、生き生きとした光を湛えている。


「もう逆! だってお兄ちゃんなら、絶対に帰ってくるって信じてたんだから」

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