7話 魂の形(5)

 ディヤにせがまれて、ラケはゆっくりと前へ歩み出た。そう、ついに体を取り戻したのだ。二百四十年越しの願いが行き着く先。身振りと眼差しから、握手の一つでも交わしたいのだとすぐにわかった。


 思惑を知った蛇神は、はじめ加減ができないと泣き言をこぼしていたが、意を決して恐る恐る迎え入れる。重なり合う二人の手の優しさに、こちらが緊張してしまいそうなほどだった。ディヤはしみじみとその質感を確かめて、頷きながら目を細める。実体がない今までとは違って、ちゃんとそこにいて触れられる。


「……いいんだ。何度も言ったろう。マヤはとうに居なくなったが、おまえは代わりなんかじゃない。我のことは気にするな」


 何を話していたかは定かではない。でもきっと、お互いの行く末を案じていたのだろう。ずっと一緒だった二人も、今日からはそれぞれの道をく。


「いちおう安心……ってことなのかな」


「そうだな。湖も大きく形を変えたことだし、向こう百年くらいは流石のヤツも大人しくせざるを得まい」


 小さくため息をついた。結局のところ、再び力を持たぬよう気を張りながら、末永く付き合っていかねばならない。たが災いとの共存は今に始まったのではなく、ラケが生まれる前から何気なくやってきたことでもある。これまで通りの営みを続ければいい。起きたことを、忘れさえしなければ。


「大丈夫さ。イェンダの民ほど気心が良い者たちなら、たとえ災いが降り掛かろうときっと乗り越えられる。それに、このチャンカヌ・バダルも集落を見守ろう。なんと言っても我は、アンタたちを愛しているからな!」


 得意げに胸を叩く蛇神に、乾いた笑いを送った。疑り深い自分が、なんだか馬鹿らしくなってくる。


「はは……おまえの言葉はつまり、すべて本当だったってわけか。ほんと、真っ直ぐすぎてむしろわかりにくいよ」


「信頼を得るには、時間を要するのが常ってことだろう。無理もないさ。そんなことより、怪しみながらも得体の知れない我を信じてくれた。それが一番嬉しかったぞ。……ありがとう」


 改まって身をかがめる蛇神に、途端に畏れ多くなってラケも慌てて跪いた。急な動きに驚いたディヤに小さく詫びながら、しかつめらしく頭を垂れる。


「こ、こちらこそ感謝いたします。あまたの無礼、どうかお許しください!」


「やめてくれ! いまさら困る。今まで通りがいいんだが、えっと……駄目か?」


 あまりにも申し訳なさそうにするものだから、思わず毒気を抜かれてしまった。隊員たちが、戯れに自分も友達にしてくれなどと言い出して、一気に場が和らぐ。


「まあ、それでおまえがいいのなら」


 正直そちらの方がありがたい。だって、こんなにも人懐っこい奴に対して、堅苦しくなんかしていられないから。顔を上げた蛇神は、周りに集まった全員へ語りかける。


「みんな、本当にありがとう。付き合わせてすまなかったな。ゆっくり休むといい」


 その一言で思い出した。集落には未だ、病が巣食っている。早く現人神様をお連れしなければ、まやかしがまことになってしまう。


「そうだ、こんなことしてられない。帰ろう!」


 もうあんな光景を見たくない。今から出立しても、着くのは夕方だ。果たしてそれまで保ってくれるだろうか。早々と歩き出すラケを、みんなが慌てて止めに掛かった。


「無理をするな。足元を掬われるぞ」


「だって、父さん!」


「ならば我がひとっ飛びしよう。せっかく体を取り戻したのだ」


 そっと胴をしならせて、ディヤを抱えたままのラケを背に押し上げる。ごつごつしているのかと思えば、意外と柔らかい。表面がひんやりして、騒ぐ血も不思議と鎮まった。続けて隊商の面々へ乗るように促す。顎に手を当てて考える隊長を、男たちが後押しした。


「シェカルさんも行ってください。みんなへの説明はお任せすることになってしまいますが……。ラケには父親である、あなたが一緒に付いていた方が良いでしょう。我々はイサニさんと落ち合って、後からゆっくり下山します。ヤクたちは運べないでしょうからね」


「わかった。そうさせてもらおう」


 父が乗ったのを確かめて、蛇神が声を掛けた。


「我の上ならディヤを下ろしても大丈夫だ。髪を掴んでてもいい。よし、では行くぞー!」


 はつらつとした合図とともに、蛇神が宙を滑り出す。慣れない浮遊感に、慌てて鱗に指を掛け直した。低く、シャクナゲの木立ちをぎりぎり掠めながら飛んでゆく。夢見心地で、頬を撫でる風を味わった。胃が縮こまるような少しの息苦しさと、意思と関係なく進む視界。そして何より、さみしい靴底の感覚。


(地に足がつかないって、こんなに心細いのか)


 自分と世界がふっと切り離された気がする。だからこそ、身を預けている黒い胴が一層頼もしく思えた。ディヤを後ろから支えて、眼下に広がる世界を眺める。気遣ってくれているのか、上体を起こしていても吹き飛ばされるほどではない。濡れた髪や服が空気をはらんで、たちまち乾いていった。


「父さん! 飛んでるよね、これ」


「そう……みたいだ」


 そんな中身のない言葉を、何度も交わしてしまう。しばらくすると、色とりどりの旗に縁取られた筋が現れた。集落へ続く道だ。蛇神はゆるりと高度を落とすと、念入りすぎるくらいそっと地面に降り立った。


「我を見たら、人々は驚いてしまうからな。ここから歩けるか?」


「うん。ありがとう」


 降りた父は蛇神に歩み寄った。


「みんなは、あなたのことをきっと受け入れてくれる。いろいろ片付いた頃合いに、ぜひイェンダにいらしてください。集落をあげて丁重にもてなしますので」


「頼んだぞ隊長殿。こんな我でも、怖がられるのは結構堪えるのだ。な、ラケ?」


「はいはい、悪かったって」


 からりと笑いながら肩をすくめる姿に、夢で見たあの顔がちらついた。なんだか二人はよく似ている。そう思うと、自然に小物入れの中を探っていた。太陽の下に晒されたあの櫛に蛇神は息を呑む。


しき神が旗を持ち込めなかったのに、これは変わらず手元にあった。あの時たぶん、マヤ様が引き止めてくれたんだ。おまえにとっても大切な物なんだろ? 俺の一存で渡すわけにはいかないけど、祭司長に話をつけておくよ」


 昨晩、夢を介して一度意識に溶け合っていたから、まやかしの中でも傍にいてくれたのだ。櫛に人格は移らないが、彼女の願いはずっと色褪せることなくここにある。だから、もう生きて触れ合うことはできなくとも、形見を持つのは彼が最もふさわしい。


 震える指が愛おしげに淵をなぞった。いつもと変わり映えないはずの蛇の面も、どこか柔らかい。手を引っ込めた後にも、名残惜しそうに見つめていた。


「どうしてそれを……」


「今は教えてやらない。でも、俺が言わなくてもディヤが言い出してたかもな」


 ディヤは目を丸くしつつ首を縦にする。ラケが記憶を見たと知らないのだから、驚くのも無理はない。だが、たとえこれが父であれ祭祀長であれ、身の上を解すれば誰だってこうするはずだ。今は集落へ少しでも早く帰らねばならない。だから、種明かしはまたいずれ。蛇神はため息をついて、澄んだ青空を仰いだ。


「まぁなんにせよ、ありがとうな。我は一度、天の神様のもとへ参る。……申し開きをしなきゃならないことが山積みだ。ではな!」


 軽く別れを済ませると、蛇神はするりと跳び上がり、一直線に天へ登って行った。それを三人で手を振って見送る。彼の言葉尻が湿っていたのには、気付かないふりをした。

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