7話 魂の形(4)

 触れたのはほんの刃先だけだったが、神気が広く迸って、靄をたしかに切り裂いていた。斬撃はその勢いのまま、氷河湖さえも両断する。衝撃で足元は窪み、割れたうねりの中に一瞬、湖底が見えた気さえした。しき神の絞り出す今際の叫びと水の暴れる音が、パスチム山全体をびりびりと震わせる。舞い上がった大きな水柱は、やがてにべもなくラケたちへと降り注いだ。


「うそ!?」


 思いもよらない顛末に、肩へ座るディヤを庇うことすらできず、しばらくにわか雨を被ることになった。収まってから仰向けば、靄が斬られた断面からほどけ、ゆっくりと崩れていくところだった。ゆらゆらと力なく足掻くも、最後に勢いよくはち切れる。今度こそ最期をしかと見届けなければ。巻き起こる大風に目を細めていると、吹き抜ける残滓が耳元で囁いた。あのおぞましい声色で。


『また会おうじゃないか』


 全身ぞわりと総毛立つ。笑い声の尾を引いて去りゆくそれを、固唾を呑んで見送った。父がしっとりと水気を吸ってしまった帽子を脱いで、立ちすくんだままの息子を覗き込む。


「今の……」


「父さんにも聞こえたよ。死なないというのはまったく、厄介なものだ。私たちはこれからも、彼の神に怯えながら暮らさなければならないらしい」


 十二分にわかっている。別に綺麗さっぱり終わるとは、少しも思っていなかった。それでも、胃のあたりが気持ち悪くてたまらない。ふと、上からぽたりと垂れた雫で我に返る。そういえば、服も髪もさほど濡れていない。落ちてきた飛沫を一手に引き受けたのは、ディヤだからだ。あごから水を滴らせる彼女の姿に、たちどころに肝が潰れる。


「わー!? す、すみません!」


 当の本人は慌てふためくのを他人事のように眺めて、くすくすと肩を震わせている。そこでどっと堰を切った安心感に、ラケも釣られて苦笑いを浮かべた。囮役として分かれていた二人も無事に合流して、つかの間和やかな雰囲気に包まれる。


「あー……ちょっといいか? われ、もうむり。きえそう……」


 右手から聞こえるかすかな声に、一同があっと言って固まる。蛇神のことをすっかり忘れていた。説得力のありすぎる弱々しさで、魂自体もわなわなと小刻みに震えている。


「おい、まだ消えるな! ええっと……どうすれば良い!?」


「アレに我を刺してくれ。遠慮はいらん。はやく……」


 ディヤの指がついと示したのは、湖から溢れた大蛇おろちの尾だった。走り出した途端、湖全体から地鳴りが響き始めて、水面にもさざなみが広がっていく。次から次へと目まぐるしくいろんなことが起こって、まったく気が休まらない。


 ぐらつく足元に注意を払いながらそばまで行くと、つややかにきらめく鱗のあいだ目掛けて、形成す魂を力いっぱい突き立てた。先ほどは易々と鋼をへし折ったはずが、蛇の体は思っていたよりもずっと柔らかかった。まるで熱した刃で蝋燭を切るように、するりとククリを呑み込んでゆく。容易く根本まで埋まると、まばゆい光を放ちながら自ら沈んでいき、ラケはすんでところで柄から手を離した。


 ややあって湖が山のように持ち上がり、中から黒々とした胴をしならせて、本来の姿を取り戻したチャンカヌ・バダルが現れた。水からもたげた鎌首は、まさしく天に届かんばかり。薄い雲を纏ってそびえる凛とした佇まいに、見ていた者たちは大地の揺れをいっとき忘れ、静かに心奪われていた。同じ形なのに、しき神のものであった時とまるで違う。虹まで掛かって、本当に神様だったのだと急に畏れ多くなってしまった。こちらへ下りてくる大きな頭は、中身が蛇神とはいえ流石に身がすくむ。しかし、彼の方はなぜかきまり悪そうに細い舌をちらつかせていた。


「実は、さっきの一太刀で岸を痛めてしまったようでな。このままではウルバール湖が決壊する」


「はあ!?」


 開いた口が塞がらない。手加減が苦手にも程がある。せっかく終わったのになんてザマだ。しかも、地響きはしき神のせいではなく蛇神が大本、さらにはラケが一端を担ったということになる。


「いや、ほんっとうにすまぬ! 溢れるのはどうも止められそうにない。だが我がなんとかしてみよう」


「なんとかって」


「とにかくここは危うい。アンタたちは少しでも遠くへ!」


 そう荒っぽく吐き捨てると、うろたえる人間たちを残して水の中へどぷんと沈んでしまった。濁った湖面を透かして光り輝く長い筋が湖底を走っていくのが見える。


「お任せするしかない。さあ!」


 父たちに引きずられ、仕方無しにその場を離れた。言われたとおりほとりをぐるりと回りながら、なるべく高いところを目指す。その間にも揺れは強くなっていき、やがて歩くことすら難しくなってしまった。ディヤを横抱きに直して、倒れぬようにしゃがみ込む。


 ただならぬ轟きに振り返ると、先程まで立っていたあたりから大きな飛沫が上がっている。えぐれた大地がそのまま通り道となって、みるみる水が溢れていた。


「……大丈夫だよな?」


 あれが集落へ向かったら――――。そう思うと、とても生きた心地がしなかった。肩を撫でてなだめてくれるのが申し訳ないが、取り乱すのはいただけない。今は大人しく甘えて、事の成り行きをじっと見守った。


 突然どうどうと流れる方へ、一匹の大蛇が勢いよく躍り出て、そのまま谷から谷へうねる濁流を率いて下っていく。たしか前に、蛇は水に馴染みやすいと言っていたような。普段ままならないものが素直に従っているのは、なんとも不思議だった。湖はぐんと嵩を減らし、濁った灰色もやがていつものように青く澄み渡る。水面はすでに穏やかで、通り道には新たな川が生まれていた。


 揺れが収まってもみな動けず、残ったせせらぎを耳に、すぐそこで繰り広げられた光景を幾度も反芻している。蛇神が溜まったしきを、水とともに抜き去ったのだ。一体どれほどぼんやりしていただろう。戻ってきた蛇神に声をかけられて、やっと気持ちを切り替えた。


 湖面から覗く巨体が光を放ったかと思うと、すぐに小さく縮まる。いつの間にか目の前には、半人半蛇で面を被った見慣れた姿があった。ただし今までと違い、そのたくましい体はしっかりと大地に預けられている。


「とりあえず海まで案内した。もちろん、人の住む場所を避けてな。もう動いていいぞ」


 それを聞いて、今度こそ本当に胸を撫で下ろした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る