7話 魂の形(2)

「英雄気取りもそこまでだ。なァ、もっと素直になれ。恐ろしいのだろう? 今すぐ尻尾巻いて逃げ出したいのだろう? 刃向かっても無駄だ。俺様は強い、あの時よりもな!」


 ニヤつくしき神だったが、蛇神はもう動じなかった。いや、今度こそ耐えられたと思うべきか。昔は自身を是とする後ろ盾を持っていなかったから、いとも簡単に屈してしまった。天の神様からの祝福も、真に受けるだけの余裕がなければ意味を成さない。でもイェンダの民と――マヤ様と出会って、少しずつ変わった。長きに渡って培われた誇りが、彼やラケを、絶望の穴に落ちぬようしかと繋ぎ止めている。力を蓄えていたのは、しき神だけではないはずだった。


 蛇神は信じるに足る。記憶を見せられたこと自体は気持ちのいいものではなかったが、身を委ねられる先をはっきりさせてくれた。黒い靄は面白くなさそうに目を眇めて、今度は吐き捨てるように言う。


「天に放った石はすべからく地に堕ちる。すべてはそもそも、汚く、卑しく、むごいもの。故にその少年は、自ら最悪の可能性に行き着いたのだぞ。絶望が何よりもよく馴染むのは、おまえが一番わかっているはずだ」


 そこでディヤが急に前のめりになる。


「いいえ、例えが相応しくありません。しきに心を奪われやすいのは、わたしたちの在るべきところが虚無だからではないのです。チャンカヌ・バダル様のお姿をご覧になっても、同じことを言えるでしょうか?」


 初めて気付いたがなかなか勝ち気なタチらしく、口を挟むのをためらってしまうほどだ。ただ、煽られて激したのではなく、話しぶりはあくまで静かだった。相対する神の方はぶつぶつと聞こえぬように悪態をついている。あちらはもう我慢ならない風だ。ディヤの言葉を受けて、黒い面が一つ頷く。


「時に、アンタは生ける者の力となる。追いつかれまいと振り切ることで、より先へ進めるからだ。そうやってラケやディヤは、イェンダの民として産声を上げた。災い巣食う、天険と恐れられたパスチム山でな」


 言いながら大きく広げた右手を、ゆっくりと前へ突き出す。


「だから我はすべてを賭して、この子らの道を開く!」


 横に打ち振るった腕が空を断つ。それを合図に雲がわんさと湧いて、ラケたち三人を包み込んだ。隔たれた向こうでは、蛇神の正気せいきに当てられたのか、苦しげな呻き声がこだまする。視界は雪嵐の只中のように真っ白で、しかし寒くはなかった。強く吹き荒ぶ風は、まるでどこかへ誘うかのよう。面食らっていると、ディヤがふうと息をついた。


「仕上げは現世うつしよに戻ってからだけど、まずはあなたの中から立ち退いてもらった。帰り道なら任せて。この流れに身を委ねていれば湖畔に達するはず。本当は……もっとゆっくりお話ししたかった。またそのうちにね」


 そのうち――しき神を倒せば、物言わぬ現人神にも安らげる日々が訪れる。ただの諦めでなく、真の意味で地に足を着けられる未来はすぐそこまで迫っていた。


「うん、きっとだ。さっきは何も喋れなくてごめん。来てくれてありがとうディヤ。あと……チャンカヌ・バダル」


 こちらを心配そうに見下ろす彼の、真の名を呼んだ。照れくさいのかそれとも恥ずかしいのか、決まり悪そうに鼻を掻いている。


「礼を言われるようなことは――違うな。アンタが我のようにならなくてよかった。こう見えて昔はかなり気が弱くて、とても一人では耐えられなかったのだ。ラケの歩みは現人神ディヤの歩み。そして、イェンダの歩みとなろう。ここからが踏ん張りどころだぞ」


 無言で相槌を打つ。今気持ちを緩めれば、まさしく『酔わば堕つ』になりかねない。あとは手筈どおり、奴を祓うことに真っ直ぐ打ち込む他ないのだが。


「何か、俺に出来ることあるか? 脚のお役目以外にも」


 助けてもらってばかりな気がして、ふと口ついて出たのがそれだった。蛇神はしばらく顎をさすっていたが、閃いたとばかりにあっと声を上げる。


「ディヤに頼もうと思っていたんだが、ラケの方が適しているかもしれん」


「ああ……わたしはあんまり慣れていないから」


 足並みがうまく揃った様子で頷きあうのを傍目に、ラケは首を捻った。自分で口火を切ったのに、置いてけぼりを食らっている。二人にじっと見つめられて、とんでもないことを口走ってしまったのではと、ほんの少し胸騒ぎがした。あたりの白さが一段と強くなり始める。


「ならば我を――アンタの手で振るってくれ」


 言葉の意図が汲み取れないまま、聞き返すことも出来ず、明るさに目を眩ませた。



***



 目蓋を開くとそこはウルバール湖だった。湖面は激しく乱れて、白波が踊っている。水の中で大蛇おろちが苦しげにもんどり打ちながら、なおも哮っている。彼が夢で負った痛手は、目覚めても和らがないようだった。


 ラケは自分の足でしっかりと大地を踏みしめて、右手にククリを持ったままだ。左の肩にはディヤを座らせ、たしかに意識を失った瞬間からそれほど時が経った感じはしない。ただ、しき神の様子の他に大きく違うのは、雲の切れ間から陽の光がいくつもの帯となって、あたりの山々へ燦々と降り注いでいることだった。


「おい、いきなり止まってどうした!?」


 背に添えられた手の温もりに振り返ると、眉尻を下げた父の顔があった。戻ってきた安心感がどっと押し寄せて、感極まりそうになるのを苦笑いで誤魔化してみせる。


「ううん、もう大丈夫」


 今はあれこれ説明する暇はないはず。怪訝そうにしているのを申し訳なく思いながら湖へ向き直ろうとしたとき、急にあたりが暗くなった。


「逃げろ!」


 後ろから隊員が放った叫びですべてを察し、反射的に横へ素早く飛び退いた。間を置かず、親子を引き裂くように蛇の尾が地面に叩きつけられる。体は避けていたものの、思わず構えたククリがそれに掠るや否や、派手な音を立てて根本から折れてしまった。手元に残った愛刀の柄を投げ捨てて、そのまま湖畔を駆け抜ける。


 隙を見て振り返って父の無事を確かめた。しかしそのさらに向こうから、黒々とした小蛇の群れが押し寄せる。暴れ回る尾も大人しくなるどころか、次々に繰り出されていた。これではいずれ潰される。加えてこんなに激しく動いていては、ディヤが触れられるはずもない。


「どうすんだこれ!?」


 混迷を極めた状況に、流石に慌てふためいた。蛇神は一体どこにと思っていると、少女の中から言葉が響く。


「夢の中とはいえ、すでに一撃喰らわせているからな。じきに体を捨てざるを得なくなる。はず……なんだが。まったく、とことん意地汚い! 頼む、もちっと逃げててくれ!」


 生き死にが掛かっているというのに、軽い物言いは相変わらず。思わずこめかみに青筋が立った。


「あーもう! とにかく、足が潰れるまで走ってやるよ!」


 魂を振るう、とは一体何なのかひとまず考えないものとして、早く打って出なければ体が保たない。仲間たちも小蛇を追いやろうとしているが、とても間に合いそうになかった。場の空気に急かされるように、現人神様の赤い手元が光を放ち始める。その途端、あたりに重々しい雲が立ち込める。


「――――我が身は猛き大蛇おろちなり。我がは清き白刃なり」


 蛇神がことばを唱え始めた。厳かな声音は、先ほどと同じ存在から発されたとはとても思えない。


「天よりかがふる我が名において、八重の祈りをここに束ねん――――!」


 鋭く目を刺すのではなく、角の取れた柔らかな輝き。ディヤが手を横へ滑らせるのに合わせて次第に長く伸び、優美な弧を描いていく。足は動かしたまま、徐々に形作られる何かを固唾を飲んで見守る。やがて臨界に達した光は弾け飛び、どこか親しみを抱くその形が顕になった。

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