7話 魂の形(1)

 彼女を抱える手をゆっくりと緩めようとした時、突然帯をぐいと掴まれた。危うく釣り合いを崩しかけるも、すんでのところで踏み止まる。何事かと振り返っても誰も居ない。だがやはり思い違いではなかったらしく、ディヤを横抱きにし直したところで再び引かれる。どうやら腰に付けた小物入れが、活き魚よろしく暴れているらしい。中身といえば、マヤ様の櫛くらいだ。


しき神の仕業かもしれないぞ。ラケ、気を付けろ!」


 やにわに胸騒ぎがして、櫛を取り上げようと伸びる手を咄嗟にかわした。そのまま、じりと後ずさる。しっくりこないこの感じをうまく言葉にはできないが、割り切れない何かがあるのは確かだ。大切なことが抜け落ちているような気持ち悪さが、胸をざわつかせる。


「忘れたのか? あの神は私たちを散々苦しめた。それに完全には死なないらしいじゃないか。力を削いだとはいえ、もう襲いに来ないとは必ずしも言えないんだぞ」


 憂いはもっともだ。だからといって、わざわざマヤ様の持ち物を使ってこんな方法を取るとは考えにくい。雨に打たれ続けているせいかひどく寒くて、思考を遮るように頭が脈に合わせてズキズキと痛む。


 足りない何かを求めて視線をさまよわせた。うら寂しい灰色の空。そして荒れ果てたふるさとに織絵巻タペストリー。転がる人々も泥だらけで、誰なのかすらはっきりしない。災いの前は広場中が楽しげにさんざめき、眩しいほどの鮮やかさであったのに。


(あれ……?)


 ふと、寒々しい自分の腕が映った。大切なお守りをどこかに落としてしまったらしい。今朝、ディヤがしっかり結んでくれたはずの――。


 その途端、景色がくすんでいるわけをようやく突き止めた。普段あまりに馴染みすぎていて、欠いていたことに全く気付いていなかったのだ。広場をぐるりと見回して、己の至った考えを確かめる。ディヤにどうして首を縦にしたのか問おうとして肝を潰した。伏せた顔を覗き込んでもなぜかそこだけ焦点が合わず、目を凝らすほどに曖昧になっていく。


「どうした。阻まれる前に終わらせよう。彼女を解き放つのは、かねてよりおまえの望みだったはずだ。さあ!」


 やや熱を帯びた呼びかけは、もう胸には届かなかった。肝心な時に詰めが甘いのは、蛇神と現人神様の目論見どおり、欲に目が眩んでからに違いない。いつのまにか雨は止んでいる。明るくなり始めた雲に勇気づけられて、つとめて冷静に強い意志のもと言立ことだてた。


「嫌だ」


 相手は口をつぐむ。下瞼をぴくりと動かしたあたりに、心の乱れがよく現れていた。自分のひらめきの正しさを確たるものにしたラケは、さらに畳みかける。


「騙されかけたよ。もしかしてこれは夢や幻の類なんじゃないか? だって、片付ける暇も意味もないのに、災除けの旗が集落に一つも無いなんて。相入れない物は持ち込めなかったってところだろう。おまえは父さんなんかじゃない。手の内しかと見抜いたぞ、パスチム山のしき神よ!」


 そうであってほしいという望みも幾分か含んでいたが、反応を見る限り、おおむね当たっているらしかった。危うく心を呑まれるところだったのだ。おそらく、氷河湖で気を失った瞬間からすり替わっていたのだろう。気付くにはいささか遅かったが、何もかもを投げ打ってしまう前でよかった。あのまま現人神様を降ろしていたらと思うと、生きた心地がしない。向かいあって立つそれはため息をつくと、見知った姿のまま品のない笑みを浮かべた。


「……あーあ、もう少しだったのになァ。確かにアレを持ち込めなかったのは痛かった。だが、俺様はわずかに手を加えたに過ぎない。今見たのは、全て元からおまえが抱いていた恐れだぞ? 勘付いたとて抜け出せまい」


 見破ったは良いものの、まだ勝ちには程遠い。どうしたものかと唇を舐める。ラケは幻を打ち払うまじない師でも、全てを見通す巫女でもない。ましてや神を相手取れるほどの圧倒的な力など、到底持ち合わせていなかった。


 その時、にわかにディヤが伏せていた面を上げる。今度は顔立ちをはっきり捉えられた。光を宿した瞳がしき神を射抜いている。揺るぎない佇まいから、先ほどまではよく出来た紛い物であったのだと悟った。


 いつのまにか静かになっていた櫛を思う。きっと、もう一度ディヤをしっかり見ろと諭してくれたのだ。腕の中の少女は思い定めるように一度目蓋を閉じて、胸いっぱいに息を吸い込んだ。


「――ならば導くまで。この者はわたしの足、わたしの一部。あなたには断じて渡しません」


 薄い唇が言葉を紡ぐ。初めて耳にしたその声は柔らかく、塵ひとつ無い空をしめやかにぬくめる、清い朝焼けを思わせた。さして張り上げたわけではないのに、周りを充分に震わせる。束の間、深い余韻に浸っていると、肩に回された腕に強く引き寄せられた。


「ラケ……もっと早く来られたらよかったのだけど。ごめんなさい、巻き込んでしまって。ずっとずっと、謝りたかったの。でもそれだけじゃない。ありがとうとも伝えたくて。良かった、道を見失わないでくれて」


「え……えっ!?」


 どうして喋ってるのかとか、みんなはどうしただとか、色々と問うべきことはあるのに、驚きが優って口が聞けなくなってしまった。しどろもどろになる様で察したのか、少女は小さく笑って付け加える。


「先ほどラケが言ったとおり、これはしき神があなたの中に作ったまやかし。魂の持ち主が正しい線引きをしたことで、わたしはなんとか入ってこられた。話せるのは、ここが現人神に課せられた掟の外側だからなの。あ、でも降さないでね? まだ彼の縄張りだから」


 返事さえもままならず、こくこくと頷いた。これでは今までと逆だ。そうこうしているうちに父の姿はぐにゃりと歪み、代わりに二つの赤い目と神の印を浮かべた、黒い靄が現れる。


「良いねェ。仲睦まじくてなにより。愛しい男の元へ飛び込んでくるなんて、結構泣かせるじゃないか。だが俺様のこと、忘れたわけではあるまい。こんなところへお一人でノコノコと出向いてよろしいのかな? 現人神殿」


「まさか。あのお方がわたしを一人で行かせるものですか」


 声とともに湧いた白い雲の中から、きらりと鱗を煌めかせて長い尾が覗いた。ラケとディヤを守る垣のように、宙でとぐろを巻いたその姿。広い背中がこんなに頼もしく思えたのは、彼と出会ってから初めてかもしれなかった。ちらりと振り返った蛇神は、ほんの一瞬頬を緩めてすぐに前へ向き直る。


「我が居ながら、要らぬ苦しみを味わわせてしまった。すまない……。みんなのことは案ずるな。病で命を落とすにしても早くて数日。しかも、ここは時の流れ方が違う。アンタが捕らえられてから、外ではまだ瞬き数回ほどしか経っていないぞ。集落はまだこのような地獄にはなっていないはずだ」


 その一言でようやく肩の荷が下りた。ラケが追い詰められても折れまいとしたように、きっとみんなも耐え忍んでいる。苦しみは少ない方がいいはずだ。しかし、どんな向かい風に晒されても、ひたむきに明日を望んでいるならば。こんなに心強いものはないだろう。しき神は三人を順繰りに眺め、そして鼻で笑った。


「昨日今日で薄々思ってはいたが、やはり消えていなかったな蛇神め。おまえはとっくの昔に用済みだ。でもそうだな……また遊ぶ気になったのなら、俺様が手厚くもてなそうぞ」


 蛇神はぐっと喉を鳴らしたが、拳を固く握りしめると、いつもよりさらに声を低くして噛みつき返した。


「眼中にないなら願ったり叶ったり。だが、二人を我の代わりにはさせん。よく聞け。我が名は輝ける雲チャンカヌ・バダル! 天の神様より使わされし、この地を平らげる者なり。しき神よ、アンタの相手はこの我だ!!」

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