5話 愛おしき者(3)
パスチム山はすぐにわかった。近頃、戦を逃れた多くの落ち人が流れ着いていると聞いていたが、気配こそあれど、活気はつゆほどもない。山は寒々しく閉ざされて、凍てつく青白い頂が、天へその鋭い切先を向けている。チャンカヌ・バダルは降り立つと、見渡す限りの峰々に大きくこだまするほど声を張り上げた。
「我が名はチャンカヌ・バダル! 天の神様より使わされし、この地を平らげる者なり。
すると、どこからか気の抜けた返事が帰ってきた。
「それって俺様のことかい? いやァ参ったな」
きょろきょろとあたりを見回して、声の主を探す。こっちだ、と呼ばれて蜷局の隙間を覗き込むと、赤い双眸を浮かべた小さな
「ア、アンタが天の使いを退けたのか?」
「ああ、それなら確かに俺様だ。まあ、退けたというより勝手に帰ったワケなんだが」
少ししぼんだように見えたのは、ため息でもついたのだろうか。靄はおもむろにチャンカヌ・バダルの目の前までふわりと浮かび上がった。姿形はまったく違うのに、なぜか他人のような気がしない。まるで鏡と向き合っているようだった。
しかし身に宿した力はいささか凡庸で、神の形を保つだけで精一杯にさえ見える。彼が話に聞いた
「俺様を倒す? でも、この姿を見て拍子抜けしたろう。実際とんでもなくヤワで、ほんのちょっと神秘に近いという程度でなァ。まったく……使いの奴らときたら、俺様を見るなり、醜いとか憐れだとか言いたい放題にぬかして去っていったよ。まあ、除け者同士、仲良くしようや」
赤い目を
「し、しかし! これでは、天の神様にどう顔向けすればよい……。アンタを倒せば、みな我のことを善き神として認めてくれると、そう言って送り出してくれたのだ!」
胸の痛みが見過ごせぬほど強くなり、たまらず手で押さえる。チャンカヌ・バダルは、今までのいきさつを語った。虐げられてきた過去、救われた喜び、降りてきた目的……。聞き終えた靄は、さもおかしいというように吹き出した。
「ははァ。さてはおまえ、気づいちゃいないな? そんなの方便に決まってるだろうが」
景色がぐにゃりと曲がった。鼓動が早鐘を打って頭が熱くぼやけたと思えば、体の隅々まで痺れにゆっくりと飲み込まれていく。導き出された恐ろしい答えをありったけの力で払いのけようと、懸命に歯を食いしばった。
(やめろ……! 断じて違う!!)
「何も違わないさ。おまえは天の神に捨てられたのだ」
「あ……あああ――――!!」
溢れる叫びはあまりに御しがたく、勢いそのままに吐き散らした。もうだめだ。己の身を斬った言葉を、どうしてか――いや、どうしても否定することができなかった。だって、今までもそうであったから。なぜ忘れていたのだろう。優しさなんてあやふやで、いずれ裏切るこの世で最も信じられないもの。これまで向けられたわずかな情けは、決まって貶めるための罠だった。だから常に疑って、自分を守るために希望を切り捨ててきたのだ。
「天の神って名目上、まわりくどい手を使わにゃならんのは、ちょっとばかし同情するよ。あの女も大変だな! つまり、手元に置きたくないがために、適当な理由を付けて地に落としたってわけさ。他の神々をも焚き付けて、よっぽどだなァ。俺様を見て思わなかったか? こんなに簡単な
もう痛みを知りたくなかったのに。こうなるなら、有り余る力でさっさと己の体を引き裂いてしまえばよかった。大粒の涙が頬を伝う。その一滴を皮切りに止めどなく流れ落ち、厚く積もった雪にいくつもの穴を穿った。今までが霞むほどの内から迸る絶望に、身も世もなく
滂沱に伴うように、重苦しい雲が次々に湧き
悲しみのあまり体も崩れて、いつのまにか腕が消え、逞しい胸も太く長い胴に姿を変えていた。赤く裂けた口からは、鋭い牙がおぞましく覗く。目を見張る巨体と言えど、形はもうただの醜い蛇に成り下がっていた。その身を畜生に
「おうおう、こんなんなっちまってまァ……。だがその気持ち、痛いほどわかる。なにせ、俺様だって虐げられてきたのだから。なあ、おまえのことを本当に慰めてやれるのは誰か、よく考えてみろ。……どうだ? ともにこの地を統べようぞ。他所なんかどうせ碌でもないんだ」
意外な提案に、蛇そのものになった顔を上げた。
「パスチム山を……?」
「なに、明るすぎて目ん玉が潰れそうな天の国より、こちらの方が馴染むであろう? 易いことだ。ただ一つ、天の神から授かった名さえ捨てればいい。そうすれば、晴れて自由の身だ」
すでにあの名には、忌々しさすら覚えていた。もはや何も考えたくない。与えられた居場所に温もりはなくとも、爪弾きにされるより、幾分かましに思える。それに、どのみちこの山は貰い受けたのだ。
「我は、これより蛇神――パスチム山の蛇神だ」
その瞬間、靄が大きく膨れ上がった。一体どこに隠していたのか、あたりから神気がみるみる集まりだす。今やそこいるのは、噂に違わない恐るべき
「本当に、本当に馬鹿なヤツめ!! まこと天の神から愛されていたというのに、自らそれを捨ておった! この体、俺様が貰い受ける。深くまで堕ちていく様を、しかと見せてくれよ? これからは、絶望がおまえの友となろう!」
雷に脳天から貫かれる思いがした。さっきまで捲し立てていたあれこそが、全て嘘。言葉を交わすうちに、まんまと手中に落ちていた。天の神を信じきれなかった己を呪う。温もりをくれて、なおかつ母と呼んで良いとまで言ってくれたのに、何一つ報いることはできなかった。心の内で、大いなる母へひたすらに詫び言を呟く。
(ごめんなさい、ごめんなさい――でも、どうか赦さないで……)
これは、まごうことなくこの身で受けるべき責め苦なのだ。誰が何と言おうと、もう自分を赦しきれない。そう思うと、魂はさらに深みへと落ちていった。だが、開き直れるほど強くもない。もがき、苦しみ、そして胸が張り裂けんばかりに嘆く。助けを求める声は外へ一切届かずに、体の中で虚しく反響するばかりだった。
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