5話 愛おしき者(4)

 自由はことごとく奪われた。魂さえも固く縛り付けられて、どこにも逃げること叶わない。


 この体は蛇ゆえに、水を操る力を有していた。それがなお追い打ちをかける。勝ちさび酔いしれるしき神は、力を使ってほしいままに悪行を働いた。大雨を呼んで地を切り崩し、病を振り撒いては命を気まぐれに刈り取っていく。山へ立ち入る者は手も足も出ぬまま、ほとんど餌食となっていった。しかし依然として人足が絶えないのは、戦がそれほどまでに激しく広くまで及んでいるということだろう。しかもしき神ときたら、人間が抱く負の思いを吸い上げて、より強く大きく膨らませていた。これでは収まるものも収まらない。


 元から豊かとは言い難かった山は、いっそう惨たらしく荒れ果てていく。忌々しくも、五感は切り離されず鮮明に残されていた。自分の牙が人の肉を引き裂く感触に、何度気が遠くなったことか。


 見ろよ、と促されてはたと意識が戻る。目の前にはおびただしい屍が、まるで使い古されたぼろ布のように折り重なっていた。山津波に押し流されてみな傷だらけで、さっきまで生きていたのがにわかには信じ難いほど、力なく手足を放り投げている。昨日種を蒔いたばかりの畑は、すでに跡形もない。秩序の及ばぬ破滅の一端が、パスチム山に広がっていた。


 冷たくなった幼子を前に、泣き崩れる親たち。病に侵されて、死の淵を歩く恐怖。たとえ命を繋ぎ止めても、目にした凄惨な景色を繰り返し夢に見て、次第に体は蝕まれていく。彼らの苦しみや痛みまでもが、向けられた揺れる瞳から、ありありと胸へ伝わってくる。


(やめろ……やめてくれ……! 我はどうなろうと、この際構わない。だから、何の咎もない人たちを、これ以上傷つけないでくれ!!)


 蛇神の悲鳴に、しき神はさらにえげつなく悦に入るばかりだった。それでも、叫ばずにはいられない。


 運良く生き延びたとしても、多くはたまらずに逃げ出した。他所で生きられるとも限らないが、なにせここは不毛の地。命惜しくば、無理からぬことだ。それなのに、何度打たれても立ち退かず、どうにかしがみついている客人まれびとたちがいた。嵩高かさだかな神も唯一手を焼く、奇しき民。彼らの振るう五色の旗は、いとも簡単に災いを払ってみせた。しかし、然もありなん。毎日のように蹂躙されて、少しずつだが確実にその数を減らしていく。旗がいかに優れていようと、か弱い人の手では、到底太刀打ちなどできようはずもないのに。


(――――なんて、なんて憐れな!)


 しき神は、むしろ抗う彼らを良しとした。こういう者こそ、打ちのめしがいがあるのだと歓喜の声を上げる。とてもじゃないが、痛ましすぎて見るに堪えない。だからといって今の蛇神には、他人を救う余裕など欠片ほどもなかった。ただ、逃げろとひとえに念じることしかできない。


 やがて踏みにじられた精神は、燃え尽きた灰のごとく、ぼろぼろと崩れ去った。もはやどれだけ人を殺めても、心はぴくりとも動かなくなってしまった。全てに疲れてしまい、死にゆく者たちに思いを重ねることも、あえなく散った命を悼むこともできずにいる。涙も叫びも、とうに枯れ果てた。何も、何もわからない。生きているのかどうかさえも曖昧なまま、いたずらに時だけが過ぎていく。


「なァんだ、もう駄目になったか。見かけによらず骨のない奴よ。……まあ良かろう。代わりならいる」


 その言葉は夢か現か。朦朧とする中で、蛇神は吸い寄せられるように意識を手放した。



***



 ふと目覚めると、見知らぬ場所にいた。夜明けなのか宵の口なのか、あたりは仄明るい。紺色の空はまばらな雲に覆われて、その向こう側に星々が瞬いている。白い雪を被って連なる山々の形は、パスチム山からの景色に似ているもののどこか違う。そのため、どちらが東かもよくわからない。地面には岩間を縫って、風を受ける青い草地が広がっていた。葉の触れ合う音が、さやさやと耳に心地良い。どうやらここは、岩がちな山腹のようだ。空気は蛇神を優しく包み込むようで、久方ぶりの穏やかさに身を任せていた。この温もりを、なぜか知っている気がする。


 大蛇おろちになってしまった身なりは、気付かぬうちに半蛇の姿に戻っていた。倦怠感がひどいながらも体は不思議と軽く、見れば本当にふわふわと浮いてしまっている。体を下ろそうと思ったが、だるさ故に諦めた。力の入らない無骨な手の平を、何の気なしにぼんやり眺める。


「お目覚めになりましたか?」


 凛とした声がすぐ傍でした。いつの間にか目の前には、うっすらとした光を纏って、一人の女がしゃんと佇んでいる。小柄でうら若い、匂い立つようなくわが。


 彼女が一瞬顔を逸らした時に、きらりと光るものが見えた。豊かな黒髪の上半分をすくってまとめたところへ、金の飾り櫛が挿してある。残した下半分の髪は幾房もの三つ編みにして、腰まで長く垂らしていた。たおやかな姿とは裏腹に、視線を戻した女は蛇神に少しも臆することなく、真っ直ぐな眼差しを投げかける。赤い衣に赤い手足。そして目を黒く縁取る化粧は、穢れを忌むまじないだ。巫女か何かだろうか。


「……ここは」


 女はそうですねえと言って、顎に手を当てた。


「わたくしの心の中とでも申しましょうか。ご安心ください。ここにしき神はいませんよ」


 たしかに気配はどこか遠く、何重にも張られた膜を隔てたその向こうに、かすかに感じられるだけだ。しかし、本当だろうか。あんなにも強く絡みついて、けして離れなかったというのに。


「我は、死ねたのか?」


「いいえ、生きておられますよ。かろうじて。でも、体はすでに奪われてしまった」


「……」


 さして驚きはせず、やはりそうだったのかと冷たく思っただけだった。女は一言断りを入れると、蛇神にそっと手を伸ばして、触れることができずにすり抜けるばかりであることを示した。これは、生きていると言えるのだろうか。


「あなたは魂だけの状態で、谷間に打ち捨てられていたのです。消えかかっていたところを民が見つけて、巫女であったわたくしがお預かりしました。ここにいれば、誰も手出しできないはずです。……ああ、失礼いたしました。まだ名乗っておりませんでしたね。わたくしは、平原より参りましたイェンダの民。名をマヤと申します」


 にこりと愛想よくほほえむ巫女を一瞥して、目蓋を閉じようとした間際、はっと気が付く。その聡明そうな広い額には、第三の目が浮かび上がっていた。


「おまえ……それは――――」


 これですか、とマヤは神の印を指でなぞって、へらりと笑った。


「神の魂を持つには、神であらねば理りが通らないということです。わたくしは人として生まれ落ちましたが、あなたを身の内に封じることで、仮初の神――現人神になったのです。もっとも、あまり例のないことではありますが」


 そんなに軽々しく片付けて良いものではない。一体どのような手筈を踏んだのかは計り知れずとも、身に余る行いであることは確かだ。自分のせいで、枷をはめてしまった。だが、今はため息をつくだけで精一杯。嘆くことすら億劫だ。


「どうかご無理なさらないで。しばらくはゆっくりお休みください」


 言われずとも、とうに頭ははっきりしない。言葉尻まで聞き終える前に、再び眠りについていた。

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