4話 酔わば墜つ(5)

 川辺の空気を深く肺に取り込んで、まだ少し残る泥臭さに胸がちくりとする。ぐっと伸びをすれば、そこかしこから若者らしからぬ音がパキパキと鳴った。体が重い。外の空気を吸ってこいと言われたことをありがたく思うと同時に、腹立たしくもあった。あの調子外れな蛇神に気遣われたのだ。だがやはり、一人になりたかったのは事実で、今日起こったあれこれを嫌というほど詰め込まれた頭は、切にいとまを求めていた。


(疲れた……)


 祭祀場の外壁を背に、へたりと座りこむ。景色はすでに朧げで、晴れていたとしても、ここからではもう太陽は見えないだろう。しかし他の山々に照り返された鈍い光が、歩いてきた山道をうっすらと浮かび上がらせていた。本当によくここまで辿り着けたものだ。火事場の馬鹿力とでも言うべきか。


 長靴ちょうかを脱いで巻き脚絆を解く。足の皮は固くなっているものの靴擦れしておらず、小蛇に触れた所にもそれらしき障りはない。今日は大切な日だからと、念入りに足元を固めていたことが幸いした。いつしき神が仕掛けてくるかわからないため、確かめ終えると手早く脚絆を巻き直す。裾や靴に付く乾いた泥を払って、少しだけ自分の脚を労ってやった。


 きっとここまで保ったのは、ディヤが支えてくれたからだ。それでも現人神様――蛇神は万能ではない。取り除けるのは災いの病だけで、怪我を癒すことは範疇を超える。見た目は大したことがなくても、体の至る所が悲鳴を上げていた。明日はこれほど歩くことはできないだろう。


 疲れた時に限って目は冴える。集落のことを思うと、焦りがざわざわと胸いっぱいに広がっていく。こうしてただ座っている暇なんて本当にあるのかと、無性に駆け出したくなる自分を抑え込む。今動いてもどうにもなるまい。


 少しでも気を紛らわせようとスッダの流れを見やった。明日向かうであろう上流へ視線を遡らせたが、途中で闇にぼんやりと溶けてしまう。これだけ雲が厚ければ、星明かりはおろか、月明かりも期待できそうにない。日が落ちるにつれて空気は輪をかけて冷たく肌を刺すが、それでも一人の時間は未だ手放しがたかった。忍び寄る寒さに、膝を抱える。水の優しく流れる音だけが、ラケの心を和らげた。


 やっと気持ちが静まってきたと思った瞬間、視界の端でうろんな影が蠢いた。それが何か考えるよりも先に、ラケは矢の如く駆け出していた。闇に紛れていたのは、たった一匹の黒い蛇。旗を渡したところから上流の、川の淵からスルスルとこちらへ向かってくる。


 走りながらククリを鞘から引き抜いたところで、祭祀場の方から激しい鈴の音が鳴り響いた。ディヤに旗を預けたままだったことを後悔するも、時すでに遅し。動き出した今、戻るよりも先に蛇を押さえた方が早かった。標的は素早く地を這う。頭を狙って振り下ろした切っ先は、やや逸れて首の後ろを貫いた。手応えはあったが、それはさして苦しむ様子もなく、吐き気がするほど赤い口でにやりと笑う。


「なかなかいい動きだ」


 幾層にも人の声を重ねた中に、甲高い金属音が混じるような、ひどく耳障りな声色だった。小蛇に自我がある上、喋るなんて聞いたことがない。驚きを表に出すまいと、ラケは眉間へ皺を寄せた。


「……ただの眷属じゃないな?」


 蛇はつぶらな赤い瞳を煌めかせる。


「そのとおり。今は眷属の体を借りているが、俺様がパスチム山の主――蛇神だ! おまえの大切なものを奪ってやったのだぞ!!」


 ケタケタと気味悪い声を上げる蛇の額に、じわりと神の印が浮き出る。彼がしき神なのだと確信した瞬間、ククリを握る手に力がこもった。この言いぶりだと、こちらが真の蛇神と接触しているとは気付いていないらしい。冷静に、企てが露見することのないように心掛けなければと思う一方、目の前で憎たらしく嗤う蛇に、もはや感情は抑えきれなくなっていた。肩で呼吸をするたびに喉は震え、それに呼応するように全身が戦慄わななき始める。すぐにも飛び出さんとする怒りを、そして憎しみを、奥歯で強く噛み締めた。


「いいぞ、その目だ! それを見るために二百四十年待ったのだ」


「……ッ!」


 しき神に乗せられては駄目だ。まみえている今、本能的にわかる。身を委ねれば、瞬く間に飲み込まれてしまう。混沌とした冷たい底なし沼に、いざなわれているような感覚。そこに熱を帯びた体を浸せば、さぞ心地良いことだろう。しかし足を踏み入れれば最後、骨の髄まで凍てつく絶望から永久とわに逃れられない。相変わらず背後からは、ディヤの呼び鈴が響き渡っていた。


「なぜ俺様が今まで大人しくしていたと思う?」


 黒蛇はずいと首を伸ばしてラケの顔を覗き見る。引きつれた肉がククリの背に食い込んでも、全く気にする様子はなかった。答えを待たずして、彼はひどく上ずった調子でベラベラとまくし立てる。


「人はこれまでの努力が無意味だと知った時、深い絶望に落ちる。俺様にとって、それが何より甘美でなァ。災いとの共存? ハハハ――笑わせる! いつでも襲えたのだ。あんな小さな集落など。俺様には百年や二百年など一瞬だが、おまえたちにしてみれば数世代が水の泡だもんな? いやァ、かなり楽しませてもらったさ!」


 ラケは左手で柄をとったまま、右手でその頭をむんずと掴んだ。憎しみを腕に乗せて、力の限り握り潰さんとする。鱗の下で、生々しい音を立てて骨が砕けた。だが締め上げられても、やはり蛇は舌をチラつかせるだけだ。


「…………許さない」


 それだけ喉から絞り出す。頭が茹るように熱い。赤黒い感情がラケの中で逆巻いて、体を飛び出し暴れまわる。すべてを込めて、闇に浮かぶ赤い瞳を睨み付けた。


「あーあ。本当は、人々の面前で現人神を喰らいたかったんだが。大勢の民が顔を歪ませるさま、見たかったなァ……。だが逃げたと思えば、いじらしく旗を直しに来るとは。全く人は度し難く、それが面白い。今度はどんな一面を見せてくれる?」


 冷ややかな尾が、するりとラケの左腕に絡み付く。締め上げるでもなく、ただ添わせるだけなのがいっそう薄気味悪い。


「現人神様はおまえなんかにやらない」


 しき神はそれを聞いて、実につまらなそうにため息をついた。


「狙うのは、人間の絶望を引き出すためにすぎん。あの娘自体はこの上なく目障りだ。屠るついでに、内へ秘めた力を奪えれば上々。――それよりもおまえだ。心閉ざす現人神なんかより、おまえの方がずっとずっとうまそうだ。実直で、誇り高く、情け深い。そんなやつがかげるのを、俺様はぜひとも見たい」


 蛇の尾がラケの頬を撫でる。予想だにしなかった言葉に、自分の顔が青ざめるのがわかった。怒りに震えていたはずの体が強張って、今度は恐怖に支配されていく。


「臆するか? 畏れるか? だがもっとだ。俺様を斃さんとするなら、氷河湖ウルバールまで来るがいい。次は本当の俺様に刃を突き立ててみよ。おのが手で、行く末がないのだと裏付けることになろうとも、おまえは望みを捨てられない。待っているぞ。かわいい、かわいい哀れな人の子。俺様はその愚かさを愛そう」


 笑い声を上げたかと思うと、蛇はふっと黒いもやへ変わる。そのまま風に吹かれ、跡形もなく姿を消していった。


 脈が聞こえそうなほど波打って、全身から汗がどっと吹き出す。いつのまにか鈴の音は止んで、あたりはしんと静まり返っている。ラケはしばらく動けずに、地に刺さったままのククリをじっと眺めていた。

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