4話 酔わば堕つ(6)

「ラケ! 無事だったか!?」


「いや……それよりごめん。すぐに駆けつけるって言ったのに」


 力なく祭祀場の戸口にもたれかかるラケを見て、ディヤは手を差し出す。しかと蛇に触れてしまったからには、いかに神の御脚といえど、災いを受けずにはいられなかった。蛇を掴んでいた手先から、黒く冷たい障りがじわじわと広がっていく。半ば倒れるように祭壇の前に膝を折ると、額に温かな掌が触れた。


「すまん、無理をさせたな。一人で行かせるべきではなかった。間際までヤツの気配がなかったんだ」


「……眷属の体を借りたって言ってた」


 なるほど、と蛇神は合点する。


「それよりこっちは大丈夫だったか?」


 お力によって、だんだんと悪寒が和らいでいくのを感じながら、口だけ動かして尋ねた。ラケ一人が遭遇したのならまだしも、別の子蛇が祭祀場に回っていたら、ひとたまりもない。


「我もそれを恐れていたんだが、こちらには来ていない。――まるでアンタに用があったみたいな……」


 その一言であのなめらかな鱗の感触が思い起こされて、催した吐き気に口元を抑える。ほんの少し言葉を交わしたのみで、この有り様だ。奴はきっと、不安を煽るだけ煽って、氷河湖でニタニタとほくそ笑みながら牙を研いでいる。しき神の前に再び立った時、果たして正気を保っていられるのだろうか。治癒を終えた手が、気遣うようにラケの前髪を梳く。


「うん……大丈夫。ありがとう」


 心配させまいと立ち上がったラケを、ディヤは強く抱きすくめた。驚いて一瞬固まっていたが、胸に埋まる頭をそっと撫でてやる。蛇神もいるとはいえ、前へ進もうとする現人神様には今、脚がなければならない。くよくよしていれば、それこそしき神の思う壺だ。彼女の助けになりたいという思いに、またも勇気づけられる。それに集落を守る神に、そして愛らしい少女にこれだけ慕われているのが、ひとえに嬉しかった。


 突然、腕の中でディヤはハッと息を飲む。


「どうかした?」


 ラケの言葉を人差し指を立てて遮ると、耳に手を当てる仕草をする。何か音がするようだ。それに倣って、みんなでじっと耳をそばだてる。深いしじまに溶けそうなほど、しばらくの間そうしていた。手がかりを掴めずに諦めかけた時、遠くで誰かが呼びかけるような声がして、三人は顔を見合わせる。


「行こう!」


 ディヤを抱え上げると、足早に祭祀場を飛び出した。念のため、蛇神には現人神様の中へ引き下がってもらう。あたりはすでに薄暮に包まれ、動き回るのは憚られる。先ほどの声は、おそらく下手から。目を凝らすと、かすかだが小さな赤い光が、三つ四つ列を成していた。間違いない。あれは松明の灯りだ。


「おーい!」


 腹に力を入れて思い切り叫んだつもりが、喉が枯れて弱々しくかすれる。だが並んだ光はぴたりと止まったあと、こちらへ向かって次第に大きく明るくなっていった。それに伴って、呼びかけもはっきりと届き始める。


「ラケ――! おまえなのか!?」


 それを聞いた途端、目頭が熱くなった。込み上げるものを堪えて、震える声で返事をする。


「あぁ……ああ……! 現人神様もご無事だ!」


「わかった。今行くからそこで待っていなさい!」


 賑やかな牛鈴とともに、転がる岩々の向こうから現れたのは、大きな三頭のヤクと、数人の男たちだった。彼らはラケたちの姿を見るや否や、安堵した表情でお互いの肩を叩き合う。ヤクは色とりどりの旗や鈴で飾り付けられて、暗がりでもなお目に痛いほどの華やかさだった。ずらりと連なったそれは、夜の空気をはらんでゆっくりと翻る。


 一団はどんどん近づいて、いっそう鮮やかさを増していく。先頭の男が手を振りながら、何度もラケの名を呼んでいた。夢でも幻でもない。それはまごうことなく、シェカル隊――――父の率いる隊商だった。



***



 駆け寄った父は、ラケの肩をがっしりと掴んだ。無言で頷くその目には、薄く光を湛えている。そして瞬きとともに、現人神様の方へ視線を切り替えた。


「まずはご無事のようで何よりです。駆けつけるのが遅くなりましたこと、なにとぞお許しください。私は一隊商を預かる、シェカルと申します。我が倅をお導きいただき、心より感謝いたします」


 丁重に頭を下げる父に合わせて、ラケも会釈した。ディヤはゆっくり頷いて、それを受け止める。現人神様に心を配りつつも、父は耐えかねたように一歩引いて、ラケの身なりをそわそわと見回した。


「大きな怪我はないようだな。ああ、良かった。本当に……!」


「それより父さん、みんなは!? 集落は大丈夫なのか!?」


 すると父はにわかに顔を曇らせて、視線を落とした。


「残念ながら酷いものだ。傷ついた人も、病を受けた人も大勢いる。母さんたちの安否もわからなかった。……だが安心しなさい。少なくとも父さんたちが見聞きした限り、命を落とした者はいないよ。祭祀長や侍従衆がよく率いてくださったのだ」


「そうか……」


 けして喜べはしないが、様子がわかっただけでもありがたい。ふと、頭にスニルの顔が浮かんだ。集落を出る時に背を押してくれた友が、まだあそこで挫けずにいる。彼の姿を思い浮かべれば、自分も折れるわけにはいかないという気がして、心の中で小さく感謝の言葉を呟いた。


「ともあれ、本当によく頑張ってくれた。みんなもおまえたちを心配していたんだ。無事だと聞いたらきっと喜ぶだろうよ」


 息子の背をさすりながら顔を綻ばせる父に釣られて、ラケも笑みをこぼす。


「おっと……そうだ。侍女頭のイサニ殿をお連れした。身の回りのことは、ラケだけではどうにもならないと思ってな。――さて、ことのあらましを教えてくれ。疲れているところ悪いが、状況が状況だ」


 そうしているうちに、隊員たちは手際よく祭祀場の真横に天幕を張り始める。ヤクの背から降りたイサニは、疲れ切った顔をしていたが、現人神様へ労いの言葉をかけるうちに生気を取り戻していった。挨拶を終えると、いたわるようにラケの肩にそっと触れる。


「お若いのによく耐えましたね。きっと現人神様は、あなたにたいそう励まされたことでしょう。体の方は本当に大丈夫?」


「はい。疲れはもちろんありますけど……ご心配おかけしました。現人神様にいたっては、傷ひとつありませんよ。イサニさんが来てくれて、本当に助かりました。とりあえず天幕の準備が終わるまで、祭祀場で待っていましょう。さあ、足元に気をつけて」


 ラケのお役目は現人神様の脚となることであり、日々のお世話は男であればとりわけ手に余る。化粧などもおざなりにすれば、魔除けの効果は薄れてしまうのだ。差し伸べられた手の心強さに、ラケはほっと胸を撫で下ろした。

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