4話 酔わば墜つ(4)
「我はどこで生まれたかも定かではないから、ふるさとってモンに憧れる。ラケは集落と、そこに住む人々が好きなんだな」
改めて言われると、少しこそばゆかった。でも集落を誇りに思っているのは、誰に何を言われようと、今この状況でも変わらない。
「商い人として、今までいろんな土地を見てきたんだろう? ディヤに各地で見聞きしたものを話す時、アンタはすこぶる楽しそうだった。……平原での暮らしのほうが安泰だろうに、それでもなお、イェンダに留まるんだな」
彼が疑問に思うのも頷ける。ラケも初めて山を下りた時、平原の豊かさに心底驚いたものだ。むせかえるほどの濃い空気に、むしろ頭がくらくらした。ラケを待ち受けていたのは、緑豊かで災いとはまったく無縁の、見渡す限りの大平原。崩れることを知らない大地は、どこまでも駆けていけそうに思えた。
世界中に張り巡らされた街道は、商都でしばし交わる。街に入れば、見たこともない衣装を身に纏った一団や、変わった顔立ちの異邦人が、せかせかと忙しなく行き交っていた。あらゆる人、知恵、物が一堂に会する商都では、持ち合わせさえ十分にあれば、いかなる物も欲するまま手に入る。
「大人になったら、平原で暮らしたいと思ったこともあったよ。でも……」
下界がいかに輝かしくとも、イェンダが培ってきた文化や精神はけして霞まない。そして集落に帰った時、心がこんなにも穏やかでいられる場所は他にないと悟った。自分が身を置きたいのは、やはり
「住みやすいから良い土地なんじゃない。……俺が生まれて、俺を形作ったところだから。帰りを待ってくれる人がいて、帰る場所だって心から思えるから。それにパスチム山でなきゃ、きっと織物はここまで発展しなかった。細かい織り目のひとつひとつに、イェンダの民が必死に生きた証が織り込まれてる。俺はそれを、どんな物よりきれいだって思った。妥協なんかじゃなくて、たとえ天険の地であっても、満ち足りた人はちゃんといるんだって。商うことで、いろんな人に知ってもらいたい。だから――俺はこれからも、イェンダの民でありたいんだ」
言葉にすることで、なんとなく抱いていた思いの輪郭を、初めて捉えられた気がした。他でもない蛇神に気付かされるなんて、ひどく皮肉めいている。ふと頭の中に、幼い頃に聞かされたとある言葉がこだました。永く語り継がれてきたその教えが、自分の中にすとんと落ちて、体中に温かに染み込んでいく。
「ああ、そうだ……。おかげであのことわざに続きがあるのを思い出したよ。酔わば墜つ、されど――――誇り高きは導かれん。驕りと誇りは表裏一体だけど……自分を、そしてこれまでの積み重ねを信じられる人こそ、力強く生きられるんだ」
終わりのほうは、半ば自分に言い聞かせるように言の葉を紡いでいた。なのに、聞いていた蛇神はなぜか得意げだ。
「それでこそ、我の愛するイェンダの民だ」
その一言がおかしくて、ディヤと顔を見合わせてくすりと笑った。我は真剣だぞ、と拗ねる蛇神をよそに、ラケは目蓋を閉じる。スモモを取るとき手に触れた、金色の櫛を頭に思い描いた。
(巫女様、俺はきっとまだ頑張れる。……だからどうか導いてください。最初のイェンダの民にしたように)
***
喉が潤うと、心は驚くほど穏やかになっていた。軽やかな足取りとまでは言えずとも、この調子ならなんとか歩いて行けそうだ。しばらくすると、やがてあたりは薄暗く色を落とし始める。厚く垂れ込める雲もさらに暗さを増していき、日の入りが近いことを物語っていた。息を整えながらおもむろに顔を上げれば、視界の先にぽつりと白い三角形が佇んでいた。
「着いた……」
迫り来る夕闇の中に浮かび上がる白壁は、紛れもなく川の祭祀場だ。遠目にはいつもと変わらずそこに聳え立っているように見える。しかしいざ近くまで寄ってみると、川上側が一部崩れていた。旗を掲げるいくつかの柱も無惨に砕かれて、あたりに細かな木端を撒き散らしている。それに混じって、水に濡れた何百もの旗の残骸が、雑然と河原の岩にへばりついていた。
「全壊は免れたようだな。ラケ、着いて早々悪いが、災い除けの旗を直してくれ」
作業を始めるには、まずディヤを下ろさねばならない。あたりに散らばる残骸を避けながら、用心深く祭祀場へと近付いた。
建物の中は薄暗く、目が慣れるのをしばし待ってから、そろりと中へ足を踏み入れる。正面には、貢ぎ物を捧げる立派な祭壇が設けられていた。この時分であれば花や反物が山となっているはずだが、
ラケは無意識に祭壇の前で頭を垂れて、いつものように祈りを捧げる。はっとして目を開けると、蛇神がこちらを覗き込みながら、ニヤニヤと含み笑いを浮かべていた。
「我ならここにいるぞ? ははは、正しくはこっちか」
ディヤの頭を撫でるようなしぐさをする。もちろん触れられないので、ただのフリだ。
「べっ、別にいいだろ。体に染み付いてるんだ」
決まり悪さに声を荒げてしまい、咳払いで仕切り直す。祭壇の塵を丁寧に払うと、そこにディヤをそっと座らせた。先だって安全が約束された祭祀場の中であっても、なるべく地から離れていたほうが好ましいだろう。しかしこの状況とはいえ、不敬極まりなくて心が痛む。ただ蛇神も良しとしているし、彼女もまた神なのだ。天の神様が見守っていたとしても、このくらいはお目溢しいただきたい。恐る恐る手を離して様子を見ていたが、蛇神の言うとおり問題なさそうに見えた。
「居心地は悪いかもしれないけど、今はこれで我慢してほしい。体調はどう? 辛いところはない?」
大丈夫と言うように、ディヤはぽんと胸を叩いて応じた。
「我はディヤから離れられぬから、ここで一緒に待っていよう。アンタもちゃんと休めよ。終わったら、しばらく外の空気でも吸ってくるといい。なに、少しくらいなら心配いらんさ。日が完全に没するまでには戻るんだぞ」
「……じゃあ行ってくる。何かあったら音を立てて。すぐ駆けつけるから」
ディヤは自分の懐を探ると、鈴を取り出してりんと振ってみせる。いつも人を呼ぶ時に使う物で、小さいながら祭祀場の中でよく響いていた。二人、いや二柱を残して、ラケは再び外へ向かう。
塔の上から伸びた縄は、途中で無惨にちぎれていた。その様から、いかに山津波の勢いが凄まじかったかが伺い知れてぞっとする。
まずは切れた先を落ちていた別の縄で補って、少しずつ長さを稼いでいく。祭祀場の中に予備はあるが、旗をひとつひとつ取り付ける余裕はない。十分な長さになったところで、仕上げに一番端へ手頃な石を結く。幸いにも対岸の柱は倒れておらず、縄を掛ける鉤もそのまま残っていた。重りを付けて縄を投げれば、届かない距離ではない。
旗をたくさん付けた縄は、石につられてきれいな弧を描きながら川向こうへ飛んだ。どうにか鉤へ巻き付いたそれをぐいと引いて、しっかり留まったことを確かめる。たった一列では心許ないが、無いよりはいいだろう。かすかな風に旗がそよぐと、川の水はみるみるうちに青く
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