4話 酔わば堕つ(3)
人がいない土地には、それなりの理由がある。なんとか生きていけたとしても、神の気まぐれはどうしようもないのだ。自分たちはけして選ばれたのではなく、運が良かっただけ。平原の戦が収まった頃合いに、さっさと山を降りるべきだったのかもしれない。やるせなさに肩を落としていると、突然ラケの頬をディヤがむぎゅっとつねった。
「いっ……! えっ、な、何⁉」
驚きのあまり、目を丸くするしかなかった。彼女は物言いたげに唇を尖らせて、さらにぐいと引っ張る。思わず声を上げたが、さほど痛みはなく手加減されていた。
「ディヤは始まりの現人神から、記憶を受け継いでいるんだ。我も彼女らに苦労をかけた側だから何も言えないが、血反吐を吐くような労を経て、ここまで命を繋いできたと話していた。だから怒ってるのさ。先人の思いを蔑ろにしてるのは、一体どっちなんだってな」
「それは……」
ラケは情けなくなって、再び地面に視線を落とす。自分は相当まいっているらしい。現人神様の方を見ることもできずに、唇を固く結んで押し黙る。河原の石をジャリジャリと踏む音だけが、三人の間にしばらく響いていた。またあの瞳に吸い込まれるような感覚を味わうのかと思うと、ディヤと目を合わせるのがほんの少し怖かった。
「そうやってウジウジしてると、
先ほど小さな無体を働いたのと同じ手が、ラケの頬を撫でる。おそるおそる顔を上げると、彼女は小首を傾げて何かを促した。
「……ごめん」
お咎めを解くように、彼女はゆるく目尻を下げて頷く。許されたことに安堵はしても、ラケの心が晴れることはなかった。憂鬱な気分を引きずったまま、とぼとぼと歩いていく。一体どうすれば良かったのかなんて、今さら何にもならないことを、またもぐるぐると考えてしまう。
「川の祭祀場に着いたら、まずは災い除けの旗を渡し直してほしい。水の濁りは、
「え……じゃあもしかして、俺たちが日々飲んでた水は…………」
言いながら背筋に悪寒が走った。急に胸がつかえて、喉がぎゅっと締まる。
「おいおい、心配するなって。祭祀場が正しく役割を果たしていれば、川は清らかに澄み、集落に及ぶ災いの勢いも抑えられよう。アンタたちが触れようが飲もうが、なんら害はないはずだ。ただ、今は近付かんほうがいいぞ」
「そ、そうか……」
ラケはほっと胸を撫で下ろす。水と言えば、集落を出てから一滴も口にしていない。そう思うと、急に喉が乾いてくる。ディヤがぐったりしているのも、疲れているだけでなく、潤いが足りないせいかもしれない。ふと腰に下げた小物入れの中身を思い出して、ラケは口を開いた。
「少し休んでもいいか?」
「もちろんだ。歩き詰めで疲れたろう」
二人に断りを入れて河原の手頃な岩へ腰掛けると、先ほどと同じようにディヤを膝の上へそっと座らせる。今まですっかり忘れていたが、今朝貰ったスモモを二つ、持ってきていた。包んでいた晒し布を開いてみると、まだ熟しきっていない上に隙間なくきっちり入れていたことが幸いし、あれだけ走ってもほとんど痛んでいなかった。つやつやと活力みなぎる橙色が、目に眩しいくらいだ。
「ディヤも食べる? ちょっと酸っぱいかもしれないけど。……えっと、蛇神もいるか?」
聞かないのも失礼かと思って、念のため言葉をかける。蛇神はアンタって真面目だなァ、と笑った。
「魂のみでは腹は減らないんだ。気持ちだけいただこう」
スモモの表面を軽く拭いてディヤに手渡すと、彼女は少し困ったように、手のひらの上でくるくるとそれを回し見ていた。いつもは、まるのまま出されることなどないのだろう。手本を見せるようにかじってみせると、やがてディヤも真似をして、ついばむように小さく口をつける。酸味に驚いたのか、しばらくきゅっと目を瞑って固まっていた。
あどけない姿にほっと心を和ませて、ラケもさらに一口頬張る。シャキシャキとした皮を噛むたびに、さわやかな酸味が口いっぱいに広がる。対して果肉はほんのりと甘くて、疲れた体に染み入るようだ。
これをくれたのがディヤの両親だと明かしたい気持ちを、そっと胸にしまい込む。今言えば、必要以上に心を痛めてしまうかもしれない。かわりに、ラケはずっと気になっていたことを蛇神に問うた。
「もし蛇神が体を取り戻して、集落のみんなを治すことができたら……その、ディヤは……」
「アンタの察するとおり、元の体に魂が帰れば、もちろんこの子は現人神ではなくなる。その後の話は二人でもよくするんだ。な?」
問いかけにディヤは相槌を打つ。
「全てを成し遂げたなら、集落で暮らして、みなとともに機を織りたいと。まあ、心変わりしてよそに行きたくば、我がどこへでも連れてゆこう。晴れて自由の身だ」
考えるように少女はしばし俯いていた。生まれてこの方、常に付き人に囲まれて責務を全うし続けたのだ。たとえ日々望んでいたとしても、現実味を帯びた途端、尻込みしてしまうことは得てして起こる。ディヤは上目遣いで、おずおずと意見を求めるようにこちらを伺う。不安を取り除いてやりたくて、ラケはほほえんだ。
「イェンダの民として生きるとなれば、みんなも受け入れてくれるよ。優しくてあったかい人たちだから。……そうだ、前に話しただろ? 妹のアニタ。あいつはちょっとお転婆だけど、きっとディヤのいい友達になるよ」
果汁まみれになった手を、スモモを包んでいた布で拭ってやる。
「アニタだけじゃない。会ってほしい人がいっぱいいるんだ……。多分みんなもディヤとおしゃべりしたり、笑い合ったりしたいと思う。一つの選択肢として、考えておいてくれると嬉しいな」
複雑な顔をしていたディヤは、やがてラケの言葉に眉を開く。今まで暗く感じていた行く先に、ようやく光が見えた気がした。どんな道を選ぶかは彼女次第だが、大勢の命運を背負うようなことは、もうしなくていい。助けが必要なら、喜んで手を差し伸べよう。仮にイェンダに留まらないことを選んだとしても、それを彼女が幸せとするなら、ラケはいいと思った。
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