4話 酔わば墜つ(2)
足元の影はあいかわらず朧げで、どうも時がわかりにくい。ただ冷静になって、あたりの風景から自分が今、どこまで来ているのかはっきりした。集落から川の祭祀場の間、半分ほどしか進めていない。ゆっくり歩いて、およそ半日の道のりだ。走って距離は稼げたものの、目的地までは未だ遠く、日が落ちる前にたどり着けるか不安が残る。
夏至とはいえ、ここはパスチム山の東側だ。日が没するまで時があっても、西の
祭祀場とは、パスチム山の至る所に建つ蛇神様を祀る塚を指す。場所によって規模はさまざまで、多くは石積みだ。丹念に石を組み合わせた隙間を泥で埋めて、きれいな丸屋根に仕上げられており、その上に尖った四角錐の塔が乗るような形をしていた。塚の先から四方へ五色の旗が渡されて、災いが周囲に広がらないように守りを固めている。漆喰で白く化粧を施した外観はよく目立つことから、道を見失わないためにも大いに重宝されていた。
ウルバール湖とは逆の方角、集落と平原を繋ぐ街道にも、数多く設けられている。それらをひとつひとつ回ってしっかりと祈りを捧げれば、神の怒りに触れることなく旅ができるというわけだ。逆に一つでも飛ばせば、命の保障はない。もちろん、集落外の人間も例外ではなかった。
価値の高いイェンダの織物を狙う盗賊は、それなりにいる。しかし蛇神様を敬わない彼らは、祭祀場など目もくれず勇み足で登ったがゆえに、すべからく道半ばで体を壊して集落まで辿り着けない。災いの病と神の怒りは、似て非なるもの。病は蛇神様の眷属に触れれば誰もが症状を示すが、怒りは不信心によるものだ。
ひとたび怒りを買おうものなら、頭が割れるように痛み、激しく嘔吐を繰り返す。さらには天地の区別さえも見失って、朦朧としたまま崖下へ身を投げる者もいると聞く。そうなれば山を降りるまで永遠に、体は苛まれ続ける。だからこそイェンダの民は、篤い信仰心によって自らの身を守っていた。けれど、今しがた信ずるものを大きくひっくり返されたばかりだ。この話もどこまでが本当かわからない。
どのみちウルバール湖まで行くのなら、川の祭祀場へは寄ることになる。あの場は
しばらく歩いていると、まばらな茂みを抜けて視界がぱっと開ける。せせらぎが聞こえて崖下に目をやると、スッダ川の流れが見えていた。
「水が……濁ってる」
豊かで澄み渡っていたはずの川は、大きく様変わりしていた。雨季の中頃であれば多少濁りがあってもおかしくはないが、時期的にまだ早すぎる。それに、水かさは乾季の終わりであっても、明らかに少なかった。いつもはもっと、
「こりゃあやっぱり、川の祭祀場がやられてるな」
額に手を当てて、蛇神は遠く川上の方を眺めた。山津波は川からくるものであるし、あの勢いでは祭祀場に被害が出ていてもおかしくない。
「蛇ってのは水に馴染みやすいモンでな。
話をしながら道なりに川辺へ降りて、流れに逆らうように西へと向かう。ごろごろと大きな岩がそこかしこに転がる中でも、祭祀場に至る参道は整備されて割合歩きやすい。しかし、災いがここを通ってきたのはやはり間違いないようで、現に黒いしぶきの跡が、崖のかなり高いところにもくっきりと付いていた。
「じゃあ、二つの守りを力ずくで破ってきたって言うのか?」
「たぶんな。まったく、似合わんことをしてくれる。水に体が馴染むとはいえ、特に守りの堅かった川から攻めてくるとは。ヤツめ……我たちを嘲笑っていやがる。それに、祭りの日に重なるとは。もう運が悪いとしか言えぬ。この様子だとやはり、次の山津波を送るべく、また力を溜め込んでいるようだな」
つまり、ウルバール湖で堰き止められていたから、ここ最近スッダ川の水量が減っていたということらしい。そうなると、
どんなに危険でも、日延べしてはならなかったのだ。祭りで現人神様が館から離れてしまえば、さらに守りは手薄になり、彼女を狙うまたとない機会となってしまう。そこにもっと危機感を抱くべきだった。今朝マニスと交わした話が頭をよぎる。あれが先触れだったのかと思うと、軽く流してしまった自分が恨めしかった。
敬虔であることを自負しながらも、どこか少しくらいなら大丈夫と、油断していたのだろう。その小さな綻びが、大きな災いをもたらしてしまった。ふつふつと胸にこみ上げる悔しさに押されて、喉の奥から独り言が滑り出る。
「酔わば墜つ……」
「……? そういえば、さっきも酔う者がなんとか〜って言ってたな」
蛇神は不思議そうに首を傾げている。なんともなしに、ラケは命を拒むような荒んだ山を見上げた。
「小さい頃、父さんによく言われた。山歩きはどんなに慣れ親しんだ道でも、初めて歩く気持ちでいろ、酔う者になるなって。昔からある、イェンダのことわざなんだ。驕れば、いずれ身を滅ぼすことになる。いつでも自分の力を見定めて、それに見合った行いをしろって意味だ。
呆れ顔で蛇神は肩をすくめる。
「自分たちのせいで惨事を招いたって言うなら、それは違う。己を過信することは誰だってあることだ。ただ、いろんなことが重なってしまっただけじゃないか。むしろヤツのことを読みきれなかった我に非はある」
「……たしかに俺たちのせいじゃないかもな。でも、あまりにも現人神様のお力に頼りすぎた。現人神様がいれば、自分たちは何があっても生きられると思い込んでたんだ。この地で長く暮らすのは……間違いだったのかもしれない」
見えざる何かに押しつぶされるようで、浅く息を吐いて俯いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます