3話 蛇神と災い(4)
彼の言葉を聞いて、ラケはいっそうククリを堅く握った。目の前の男が言うことが本当ならば、ただでは済まさない。抑えきれない激しい怒りが、腹の底を瞬く間にカッと焼いた。酷使した体に、腕にはディヤを抱えている。この体たらくで勝算などありはしない。だが、そんなことはこの際どうでもいい。最期に一矢報いることができさえすれば、それでよかった。
「あ、今はパスチム山の主と言うとややこしいか。ええっと……」
独り言を呟きながらモサモサと頭を掻く男へ、ラケは胸にわだかまる思いをぶつけた。
「さっきの声はおまえか? 助けてくれたことには感謝しよう。でも、だからなんだ。おまえはみんなを……!!」
ククリを大きく振りかぶった瞬間、ディヤがラケの袖を握った。振り払おうとしても必死に縋り付いて、ラケの行いを咎めるように抵抗する。こんなにも我を貫こうとする彼女は見たことがない。それでも沸き起こる怒りの発露は、もう誰にも止められなかった。
「離してください! 全部……全部こいつに壊されたんだ!!」
相手が神だろうがなんだろうが、一つでも傷をつけてやるまでは、死んでも死にきれない。いずれにせよ、ここまで追い詰められればもう助かりはしない。天はイェンダに味方せず。ディヤを救えなかったのが心残りだ。
「待て待て、やけになるな。落ち着けよ少年。アンタは我に指一本触れられんぞ」
こちらを見下ろしていた蛇神は、おもむろにラケの握るククリへ手を伸ばした。巡って来た好機を逃すまいと、ディヤの手を振り解いて、すかさず斬りつける。差し出された右手に、鋭い刃がしかと食い込むのが見えた。しかし手応えは虚しいほど軽く、まるで雲でも斬ったかのようだった。刃に断ち切られたはずの手は、傷一つ無い。
あまりの出来事に当惑するうちに、蛇神が再びラケに触れようとする。避けようとしても、彼に気圧されて体が言うことを聞かない。反射的につむった目を恐る恐る開くと、自分の肩に彼の手首まで埋まっていた。目を疑う不気味な光景に全身がこわばって、身じろぎすらできずにいた。しばらくして、ふと痛みどころか触れられた感覚すらないことに気が付く。そっと手が引き抜かれたあとも、何事もなかったかのように服も体も綺麗なままだった。
「なっ…………」
「ほらな、触れることも触れられることもできん。我には体が無いのさ」
呆気に取られて、ものも言えなかった。刃が通らぬのなら、どうして恨みを晴らすことができよう。今のラケにはもう、何もできはしない。そう思うとラケの激しい猛りは、白い灰のようにしおしおと萎んでいった。
「たしかに我は、アンタたちが畏れを為した蛇神だった。だがな、先ほど集落を襲ったのは我ではない。案ずるな。このチャンカヌ・バダルは、むしろイェンダの味方だ」
彼の言っている意味がわからず、ラケは思わず頭を抱える。なんと言われても、男を信じることができなかった。目の前にいるのは、まごうことなき異形。しかも、蛇の体を有している。
「じゃあ、一体誰が集落を襲ったんだ!」
遣わされた小蛇たちを見ても、蛇神様の仕業であるのは火を見るより明らかだというのに。
「……ヤツはあらゆる秩序の裏返し――パスチム山の『
「そんなの……信じられるか! 大体さっきの口ぶりだと、おまえも以前は災いを起こしていたんだろ。味方だなんて、言えた口か!!」
一度消えた感情の燃えさしに、再び火が付く。こんな話では、信を取ることはできない。蛇の姿で自分の仕業ではないなど、あまりに虫が良すぎる。そも彼が蛇神であるならば、小細工などせずとも、生かすも殺すも思うままだろうに。嘘にしてはあまりにも下手なのが、妙に引っかかる。罠か、それとも奪われた体を取り戻すために、ラケたちを利用しようとしているのか。
「恨みたければ、気の済むまで恨めばよい。在りし日の過ちについては、今更申し開きのしようもないからな。だが行く当ても助かる望みもなく、このまま一生山をさまよい続けるワケにもいかんだろう? なあラケ、これも神の御脚の定めだと思って、我たちに力を貸してくれぬか?」
突然名を呼ばれて、ぎくりと肩が震えた。神にはこちらのことなど筒抜けなのかと思うと、恐ろしさがより骨まで染み入る。やはり蛇神はラケを利用する気のようだ。しかしもう一つ、男の言葉には引っかかるところがあった。
「我たち? おまえ一柱じゃないのか」
目の前の脅威に気を配りつつ、あたりにも神経を尖らせる。パスチム山はしんと静まりかえって、人はおろか、小蛇たちもいない。何の気配もないことが、むしろ不安を煽った。
「そんなに見回さなくてもいるさ。――――アンタの
なあ、と彼はディヤへ呼びかける。身を寄せる少女が、彼の言葉を
「え…………」
頭が真っ白になった。今のは聞き間違い、そして見間違いだろうか。そんなこと絶対にありえない。現人神様は天の神様から、災いを乗り越えるお力を授かっているはず。彼女が蛇神と志を同じくするなど、太陽が西から登る方がまだありえるとさえ思えた。
「……う、嘘だ……」
「まあ無理もない。今の今まで、このことは我と現人神だけの秘密だった。我が生きていることを
男は腕を組んで宙を見る。面を被っているのに、なぜか彼が遠い目をしているような気がした。
「我は昔ワケあって、体から魂のみを切り取られた。そのあたりに無様に転がされていたところを、当時の巫女が拾い上げて、己の身に封じたのだ。それから
聞き捨てならない言葉の数々に、一度手繰り寄せた意識が再び飛んでしまいそうだった。
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