3話 蛇神と災い(3)

 少しずつ胸の中に安堵が広がるのに合わせて、全身の力が抜けていくのを感じた。


「ッ……まずい……!」


 このままでは、現人神様を取り落としてしまう。あたりを見渡すと、幸いにもすぐそばに人の身の丈ほどの大きな岩があった。何とかそこまで体を引きずって、ディヤを抱いたまま岩に背を預けるようにして倒れ込んだ。


 脅威が立ち去って、腰が抜けてしまったらしい。岩にもたれたためさほど衝撃はなく、ディヤを取り落とさなくて済んだ。岩の浅い出っ張りへ腰掛けるような形になっていたため、そのままディヤを自分の膝へ横向きに座らせる。


(生きてる……)


 一息ついたとき、ふと胸の熱さに気がついた。途端に喉の奥にじわりと血の味が溢れる。山道を走ったのだ。しかもディヤを抱えて。今まで息が上がっていることにすら、あまりに必死で気付けなかった。心臓が恐ろしいほど飛び跳ねるのに合わせて、徐々に体中の感覚が鮮明になってゆく。


 さっきまでしていたはずの呼吸の仕方が、なぜか思い出せない。締め付けられるような痛みに堪えきれず胸を押さえるも、一向に和らぎはしなかった。そうしているうちに、息を吸う間もなく、胸が潰れるかと思うほど立て続けに激しく咳込んだ。視界がしきりに明滅を繰り返し、意識がぐらぐらと揺らぎだす。やっとの思いで浅く呼吸を繋いだが、喉は空気を通すたび壊れた笛のような音を立てていた。さらに、脇腹にはねじ切られるような痛みが走る。吹き出る汗を拭うゆとりすらなく、体を折ってラケは必死に苦痛に抗った。


 霞む目でディヤの方を見ると、こちらを心配そうに覗き込んでいる。彼女に怪我は無さそうだった。


(よかっ……た)


 彼女さえ無事なら、ラケはそう思いかけて我に返る。良いはずなどない。集落は――どうなったのだろう。二人はここまで逃れてきたが、多くの人をあの渦中に取り残して来てしまった。最後に見たスニルの表情が瞼の裏に張り付いて離れない。先ほどとは異なる痛みと恐怖が、胸の中でこだました。


「あああっ……俺は、俺はみんなを――――ああ……!!」


 搾り出された声は震えていた。こみ上げるやり場のない虚しさに、恥も外聞もなくディヤの肩に顔をうずめる。


 あの状況ではこうするしかなかった。生き延びるために、意を決して集落を飛び出したのだ。逃げおおせれば、イェンダの心臓たる現人神様をお護りでき、ひいては集落の人々を助けることにも繋がる。たしかに理屈はそうだ。しかし恐怖に慄く人々を捨て置いて、とても心乱さずにはいられなかった。


 行商に発つときとはまるで違う。いつもなら帰れば変わらずそこに集落があり、家族や友がいると信じて疑わなかった。だが今はどうだ。ラケが目にしただけでも、すでに集落はひどい痛手を受けていた。みんなは怪我を病を、いや生きてすらいないかもしれない。


 ラケの心は幾重にも切り裂かれて、千々に乱れる。目にしてきた光景がぐるぐると頭を巡っては、胸に深々と刺さって傷を広げた。内なる叫びが、乾いた唇からうめき声となって漏れ出す。


 打ちひしがれる背中を、冷たい手が慰めるようにそっと撫でる。彼女の痛々しいほどの優しさがなお辛く、ラケはその小さな体を強くかき抱いた。


「違う……ディヤのせいじゃない。ディヤのせいじゃないんだ……!」


 ディヤは重責に押しつぶされそうになってなお、現人神として在ろうとしている。今一番心を痛めているのは、きっと彼女なのだ。


「むしろ俺たちはいつも、貴女に助けられてきた。さっきも、安心するみんなの顔を見ただろ? ……ディヤは、みんなを救ったんだ」


 ゆっくりと背をさすっていた手が、ラケの服をきゅっと握る。服越しの感覚に、ラケは彼女のことなどお構いなしに取り乱してしまった、浅はかな自分を恥じた。


「悪いのは俺たちだ。現人神様のお力に頼りきりだった、俺たちの。ディヤにこんな辛い思いをしてほしくないのに……。ごめん――いや、謝ったくらいじゃ許されないよな。……俺たちは『酔う者』だったんだ……」


 ディヤは首を横に振って、やがてラケの肩に頭を預ける。彼女たちを祭り上げて、自分達こそ神に選ばれた民だと思い込んでいた。これはそんな驕りが招いた、当然の報いなのかもしれない。それなのに、ディヤがラケにこうして心を砕くのは、健気を通り越してもはや惨めにさえ思えた。


 ごめんなともう一度詫び言を呟いて、今度はラケが、弱々しく震える肩を撫でた。


「こんなの、ディヤが背負っていいものじゃないのに」


 全てを無かったことにできたらどれだけ良いか、そんなことばかり考えてしまう。ただくじ引きで脚に選ばれただけの人間には、現人神様が抱える悲しみのほんの一端しか受け止められない。己の不甲斐なさにラケは嘆息をもらした。



***



「……なァ。取り込み中悪いが、アンタ大丈夫か?」


 突然前方から割れた声がした。先ほどの声だろうか。響きに反して調子は軽い。顔を上げると、目の前にはぎょろりと見開かれた金の目があった。黒地に緑の鱗が光る、蛇神様の面がこちらを覗き込んでいる。


「え……?」


 スニル、と言いかけて咄嗟に飲み込んだ。まだ強ばる手でククリを構える。体は依然として悲鳴を上げ続けており、笑う膝では立ち上がることができなかった。


「おまえは、何者だ」


 精一杯声を低くしてただす。見慣れた面を被っていたため、最初はスニルかと思った。しかし面を被っていること以外、その風貌はまるで違っていた。


 身なりを見ても、このあたりの者ではないことがわかる。簡素な一枚布を肩から斜めに掛けて、腰布と一緒に帯で留めている。そこからあらわになった隆々とたくましい右腕が、装いの寒々しさを跳ね飛ばしていた。ラケよりも一回りも二回りも大きな、見上げるほどの大男。彼は、身の毛がよだつようなおどろおどろしい雲を周囲に纏って、こちらをじっと眺めていた。面の下から覗く口元からは、鋭く白い牙が見え隠れしている。


 身構えながら、男の頭の先から下へ、徐々に視線を移す。腰まで差し掛かったとき、その異様な姿に思わずはっと息を飲んだ。体の下にあるはずの脚が無い。代わりに丸太のように太い一本の胴が、滑らかに波打っている。表面は黒く艶やかな鱗に覆われ、緑色の怪しい光を放っていた。極め付けに、体は煙のように地面すれすれに浮かんでいる。


 半人半蛇の異形の化け物。いつのまにかラケたちは、巨大な彼の蜷局とぐろの中にいた。


「えー? 結構わかりやすいと思うんだけどなァ。わかんない? 我、悲しい」


 男は体躯に似合わぬ子供っぽさで拗ねて、いっそう蛇の胴をゆらゆらさせた。その姿が言いようもないほどおぞましくて、ラケは強い嫌悪にたまらず眉をひそめた。


「質問に答えろ!」


 うろんな男はぴくりと反応すると、やがてゆっくりと口角を上げた。背筋の下から上へ、凍るような怖気が走って、ラケはディヤを強く抱き寄せる。あたりにはさらに重苦しい雲が立ち込めて、景色を朧げに霞ませる。ラケたちを見下ろした男は堂々と分厚い胸を張ると、牙の光る赤い口を開いた。


「我の名はチャンカヌ・バダル。パスチム山の主たる神――――蛇神なるぞ!」

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