3話 蛇神と災い(2)

 足を運ぶたび、ディヤの髪飾りがしゃらんしゃらんと音を立てて跳ねる。連続して鳴るその音に集中し、頭をカラにして泥にまみれた道をただ走った。起こったことを考えても埒があかない。何より、考えれば足が止まってしまいそうだった。とにかく、まずはこの小蛇の群れをやりすごさなければならない。


 蛇たちはなぜかずっと、付かず離れずの距離を保っていた。それに、登らずに脇道へそれようと試みるたびに、わらわらと集まってきて道を塞いでくる。どこかへ案内する気なのか、それともラケの体力が消耗するのを待っているのか。いずれにしてもタチが悪い。


「くそっ……神の御脚を舐めるなよ……!」


 しかしその意思に反して、体にはみるみる疲れが溜まっていく。強がってもなんの足しにもならず、依然として重苦しい空気がラケの体に纏わりついてきていた。何度も足が攣りそうになり、ディヤを抱える腕はすでに痺れて感覚がない。


 一体どこまで登ればいいのか、ラケは途方に暮れていた。広く高い山とはいえ、行けるところには限りがある。この先スッダ川に合流し、川に沿うように道が続いていく。さらに行けば、氷河の溶け出した水が溜まる水源地、ウルバール湖へと至る。イェンダの民が行けるのはそこまでで、湖から向こうはまったくの未知。人が足を踏み入れてはならない、神の領域となる。ともかく、山を登るにしても降りるにしても、着の身着のままの装備ではいずれ進めなくなるだろう。


 頭がくらくらするのは疲れのせいなのか、それとも不安のせいなのか。もう何日も走っているような気もするし、一瞬のようにも感じる。太陽が出ていれば時間経過もわかったろうが、空は分厚い鈍色の雲に覆い隠されていた。雨が降らないのが、せめてもの救いだ。


 背後からはいつまでも、シュルシュルと不穏な音が付き纏ってくる。走りながら後ろを振り返ると、やはり大量の蛇が黒い塊となって押し寄せていた。しかし、先程よりその距離は心なしか近づいている。まるでラケのことをせせら笑うがごとく、時折驚かすように飛び出ては、綽々しゃくしゃくと元の位置まで引き戻っていく。


「ディヤ、左手側に移って。……右手を開けたい」


 ディヤはラケの首に回した腕へ力を込めると、器用に体重を移動させた。ラケもそれに合わせて足を抱き寄せて、左腕だけで彼女を支える。痺れる右手を振って、失われた感覚が戻るのを待った。


 うねり狂う小蛇たちは、じわじわと広がるシミのように山道を覆っていく。身一つ分まで迫ったところで、腰のククリを抜いた。小蛇たちは煌めく刃に怯むことなく追ってくる。このままでは追いつかれるのは明らかだ。


 不安げに身を委ねる少女に、大丈夫だよと声をかけようとしたものの、掠れて言葉にならなかった。ラケの動揺がそれに表れているようで、なんて心許ないんだと自分を冷たくあざけった。それでもみんなのために、何があっても彼女を守り通すと決めたのだ。たとえ蛇神様に無駄な足掻きと笑われても、その誓いを果たすために走り続ける。


 多大なご加護を受けたこの身なら、すぐに災いに当てられることはないだろう。しかし、蛇たちが現人神様に触れることは、なんとしても避けたかった。何が起こるか定かではない。もし神としてのお力を失うようなことがあれば、集落に残してきた人々はそのまま死を待つばかりになる。


 その時、足元がぐらりと揺らぐ。後ろに気を取られて、浮き石を踏んでしまっていた。なんとか踏ん張って転ぶことは避けるも、それを合図に蛇たちは一斉に二人目掛けて飛びかかる。ラケが走りながら後ろ手にククリで薙げば、以外にもボトボトと落ちていく。しかしこの量を捌き切るのは、どう考えても不可能だった。


 足にはラケ伝いに登ろうと、蛇たちがしきりに絡んでくる。それは長靴ちょうかの上からでもわかるほど氷のように冷たく、思わず喉からぐっと声が漏れた。現人神様に触れないよう、左腕をなるべく高く掲げるも、この姿勢を長くは保てない。苦痛に耐えながら、しばらく無我夢中で走り続けた。しかし、次第に頭には弱気な言葉がちらつき始める。もうこれ以上は心持ちだけでは乗り越えられない。重い足は、いつもつれてもおかしくなかった。


『――――旗だ。災い除けの旗を振るえ!』


 にわかにすぐそこで声が聞こえた気がした。聞き覚えのない、地を這うような低い男の声。あたりを見回しても誰もいない。


(そういえば母さんがくれた……)


 右肩を見ると、朝のまま赤い旗が結かれていた。でも集落が襲われた時、旗はまったく効いていなかった。小蛇たちを退けることが叶わなかったらと思うと、怖くてたまらない。それでも試してみる価値はある。ディヤにも声が聞こえたのか、ラケの腕から落ち着いた手付きで旗を解いていく。今度はちゃんと祓えますようにと、頭の中で強く祈った。


 どんよりとした空にふわりと広がったそれは、刹那、明るく輝いたように見えた。風がない中でも、走る勢いに乗せてゆっくりと翻る。旗を揺らした空気は、柔らかくラケとディヤを包み込んでいった。


 清らかな漣に触れた小蛇たちは、のたうち回って砂塵と化し、逃れた者も我先にと来た道へ引いていった。幸いなことに、今度は申し分なく災いを払い除けている。ラケは足を止めて、あっけなく逃げ去る群れを呆然と見送った。

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