3話 蛇神と災い(1)

「――! ――!!」


 遠くで誰かがラケを呼んでいる。しかし、体は気だるく分厚い膜に包まれたようで、返事をすることすらままならない。


(何してたんだっけ)


 目は開いているはずなのに、頭が朦朧として全てがあやふやに見える。ぼんやりとまどろみの中に引き込まれようとした時、突然肩に強い衝撃が走った。


「ばッか野郎しっかりしろ!!」


「はっ……ああ!」


 スニルがラケの肩を掴んでいた。強く揺さぶられた途端、意識がはっきりと研ぎ澄まされる。


 あたりには叫び声の嵐が吹き荒れていた。大人も子供も関係なく、方々で人が逃げ惑って混沌としている。人混みの向こうには、居住地から広場へ通じる西の路地が集落を貫く。そこから大量の泥水が、こちらに向かってなだれ込んでいた。しかし、真に人々の肝を潰したのは山津波ではない。


 濁った流れに乗ってきたのは、ぬるりと黒い小蛇の群れ。緑の瘴気を纏う姿は、普通の蛇とは違う。彼らは災いの先駆け、蛇神様の眷属たちだった。


 災い――人に牙剥く神の暴虐。それがあろうことか、今日この日、集落の最深部まで入り込んでいた。


 小蛇は塊になってうぞうぞと気味悪く動いているが、さほど速くない。一見すると、落ち着いて行動すれば振り切れそうに思える。しかし、すでに一部が広場に到達して、手当たり次第に民を襲い始めていた。不幸にも祭りの賑わいは人々の動きを鈍らせ、逃げ場を奪っている。それだけでもう、彼らの正気を失わせるには十分すぎた。先ほどのラケのように茫然自失とする人が、足を地に貼り付けたまま黒い群れに飲み込まれていく。そのさまを目にした者は、さらに恐怖に震え上がった。


(旗が効いていない……!?)


 気付いた瞬間、さっと血の気が引いた。そこら中にずらりと垂れ下がる旗のすぐ下を、蛇たちはなんでもないように通り抜けていく。旗なくして、どう渡りあえばいいのだろう。


 にわかにスニルがラケのそばをぱっと離れる。彼の先には、老人がおろおろと立ち尽くしていた。


「じいさん杖はどうした!? チッ……仕方ねぇ。肩貸すからさっさと行くぞ!」


 そして振り返ってラケに吼える。


「何してる! お前も現人神様を連れて逃げろ!」


「わかってる!」


 桟敷の上、現人神様を見上げる。彼女は静かに座って、西から迫り来る災いを眺めていた。面差しは冷静に見えても、瞳からは戸惑いと焦りの色が滲み出ている。お告げが最悪の形で外れてしまったのだ。彼女にとっても、何より耐え難い光景に違いない。膝の上できゅっと握られた手が細かに震えているのを見て、ラケはいたたまれず桟敷席へ駆け上った。


「失礼します!」


 彼女の返事を待たずに、そのまますばやく横抱きにする。高いところに上がると、状況がより事細かに見てとれた。群れは一つのうねりとなって、さながら大きな蛇のように見える。前線ではなんとか留めようと、手近なもので群れを払いのける勇敢な人の姿もあった。しかし、一人また一人と瘴気に当てられて倒れ、死線はじわじわと押し下げられている。よく見れば人そのものを狙っているわけではないようで、逃げた者の後は追わず、時々蛇行しながらこちらに向かってくる。現人神様を狙っているのだと直感した。


 とにかく、彼女を安全なところまでお運びするのはもちろん、みんなを助けなければならない。ラケは桟敷の上に仁王立ちすると、肺に深く息を吸った。


「みんな!! 俺たちには現人神様が付いてる。ともに館へ、入りきらない者は機屋へ。焦らず急ぐんだ!!」


 ラケの呼びかけに、多くの目が壇上に集まる。すると、それに合わせてディヤは胸に手を当てて、イェンダの民たちに稀なる笑みを送った。可憐ながら力強いお姿を目にした群衆は、徐々に落ち着きを取り戻す。人の流れは秩序立ち、弱い者を庇いながら避難していく。現人神様がほほえんでおられるなら、きっと大丈夫。あたりからは、自分たちを励ますそんな言葉が聞こえ始める。民の心は、一人の少女によって見事にまとめられていた。


 館と機屋は、集落の中でも特に立派な建物だ。基礎も一段高く作られている。広さも申し分なく、二手に分かれれば全員入れるはずだった。


「現人神様もお早く!」


「ああ!」


 人混みを縫うように、狭いながらも館への道が開かれていた。現人神様を強く抱きしめて、ラケは走り出した。


 あと半分と思ったとき、悲鳴と共に道が崩される。はっとして顔を上げると、小蛇たちの流れが変わっていた。一本だったものが二股に別れ、四つ、そして八つと複雑に枝分かれを繰り返して押し寄せる。挙動が読めず右往左往するうちに、人々の流れは再び滞り、あらぬ方向へと惑いだす。ついにはすぐ目の前にも支流が踊り込んだ。あっという間もなく、たちまちまわりを囲まれる。


 気付けば現人神様と二人きり、黒い輪の中に囚われていた。蛇たちはいつ飛び掛かろうかと鎌首をもたげ、細い舌をちらつかせている。爛々と赤く光る数多あまたの目が、じっとりと舐めるような視線をこちらに送っていた。それを跳ね返すように、ラケは四方に睨みを利かせる。というより両手が塞がっていて、それくらいしかできなかった。


 荒ぶる神との共存など、所詮は絵空事。このまま襲われれば、織り上げてきた歴史も、誇り高き伝統も、すべてが露と消えるだろう。今まで生きながらえてきたことが、最大の奇跡だったのだ。


 自分はあまりに無力で、言い訳のしようもないほど情けない。今のラケは、焦りを悟られないよう取り繕うので精一杯だった。それを知ってか知らずか、もどかしいほど、じっくりいたぶるように、蛇たちはじわりじわりと輪の内法うちのりを狭めていく。あまりの歯痒さにラケは強く唇を噛んだ。


 突如、蛇たちの向こう側から複数の雄叫びが上がったと思うと、黒い輪がゆらりと乱れる。スニルを含む数人の侍従たちが、ククリを手に蛇に触れることをいとわず、打ち掛かっていた。彼らの働きによって、黒一色だった地面は、まだらにムラができ始める。


「みんなのことは任せとけ! こいつらはオレたちがなんとかする。だからラケ、おまえは……!」


 逃げろと叫びながら、友はガクリと膝を折る。その姿はやがて荒波の中にかき消されていった。


「――――っ!」


 手薄になったところを飛び越えて、なんとか渦を抜け出した。しかし、後ろからはもちろん、北と南からも新たな波が押し寄せる。もたつけばまた囲まれてしまう。館と機屋の窓からは、難を逃れた人たちがこちらを不安げに見ていた。すでに二つの建物の入り口は、蛇に抑えられている。これらに避難するのは、あまりに望み薄だった。


 どうする、と考えを巡らせていると、目の端で現人神様の赤い袖が揺れた。彼女は華奢な人差し指を立て、まっすぐ西の路地の方を指し示す。災いで溢れかえっていたその道も、今は泥水でぬかるむだけで、蛇はむしろまばらだ。しかし路地のさらに先には、まるで破滅へ誘うかのように、頂を分厚い雲に隠したパスチム山が、怪しく聳え立っている。彼女は紛れもなく、その黒い山を指差している。


「現人神様!?」


 蛇神様のくら、――パスチム山。この状況で西に進むなど、自ら死地へ赴くに等しい。今ここで死ぬか、後で死ぬか。そう山が意地悪く問いかけてくるようで、ラケは思わず顔を歪めた。だが、ここで二の足を踏んでいる暇はない。進むならば少しでも望みのある方へ。ラケは腕にいだく少女へ、固く言立ことだてた。


「……俺は、何があってもディヤを信じる。脚としての務め、命尽きても果たしてみせます。だから、けしてその手を離さないで。しっかり掴まっていてください!」


 現人神様は返事の代わりに、ラケの首にぎゅっと身を寄せた。広場の向こうからは、イェンダの民の憂いに満ちたまなざしが降り注ぐ。後ろ髪を引くともがらたちに背を向けて、現人神様をしかと抱き直す。悲しみと悔しさをめいっぱい足に込めて、ラケはパスチム山へと駆け出した。

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