2話 在り方(4)
先ほどまではラケとスニル、二人だけの舞台だった広場も、今は多くの人が思い思いに踊っている。桟敷席に戻ったラケは、現人神様の足元に控えた。彼女は静かな瞳でラケを一瞥するも、すぐに広場の方へと視線を戻す。見上げる横顔はあいかわらず人形のようで、常に完成された美を湛えていた。表情に乏しいことも、彼女の神々しさを後押ししている。けして冷たいのではない。これがいつものお姿だ。
現人神様は言葉を発することなく、お告げをする。祭祀長が現人神様へお伺いを立て、それにかすかなしぐさで答えるのだ。良しと出ればほほえみ、悪しと出れば目を伏せる。お告げの時以外でも、誤った認識をされぬよう、彼女はあまり感情を表に出さないようにしていた。
今朝ラケに見せたような笑顔は、例外中の例外だ。信頼を得ているのだと、自惚れている部分があるのは、正直否めない。しかし無表情だからといって、ラケ以外を蔑ろにしているわけではない。一見冷ややかなまなざしは、彼女が真剣に集落を守ろうとしている証でもあった。
ラケも広場の方へ目を向ける。ふと人混みの中に、楽しげに笑う家族の姿を見つけて、思わず目で追っていると、しばらくして母たちもこちらの視線に気づいた。お調子者のマニスが、手をちぎれんばかりに振って、こちらを笑わせようとしてくる。パダムとアニタの口元が、ラケに向けて頑張ってとささやいている気がして、うんと頷いてみせた。
「そっちはもう出れるか? ……よし。ラケも
戻ってきてるな。じゃあ、はじめよう」
まとめ役の侍従に肩を叩かれて、ラケはすっくと立ち上がった。楽師にも声がかかり、太鼓の音が止むと、人々の視線は再び現人神様と神の御脚へそそがれる。ラケは姿勢を低くしたまま、現人神様の御前へと進み出て深々と頭を下げた。
これより現人神様の
ラケの断りに、現人神様は首を縦に振って答える。彼女の肩と足にそっと手をまわしてうやうやしく抱きかかえると、群衆からは、おおっと声が上がった。
祭りの中心となる神事に、待つ人々はソワソワとどこか落ち着きがない。ラケが歩く後ろには、落ち着いた調子で鐘を打ちながら楽隊が、その後ろには侍従が担ぐ輿に乗って祭祀長が続く。
広場を出発すると、道の脇に並ぶ人々にまじないを施していく。家から出られない人には、家まで直に赴いて恵みを授ける。
差し出された額に現人神様が手を触れると、受ける者の前髪がふわりと揺れた。お恵みは暖かくて、柔らかな空気に守られているような、安らぎを与えてくれる。
毎年ラケも施しを受けているが、一番に思い起こすのは四年前のことだ。祭りに合わせて商都から帰る途中、不幸にも山道で災いに当てられた。なんとか父に肩を借りて帰るも、祭り前夜は寒さと心細さで満足に眠ることもできなかった。そんな時現人神様の温もりは、雲間から差す光のような、この上ない救いに思えた。ラケがこうしてお務めに励めるのも、この小さな神様のおかげというわけだ。
手を合わせて
気をいっそう引き締めて、ラケはそろりそろりと歩みを進める。厳かな空気の中、神事は滞りなく執り行われた。
***
「ふう……」
広場の東に戻った頃には、昼はとうに過ぎ去り、夏至の太陽も西へと傾き始めていた。ラケは力んだ肩を大きく回して、もう一度息をつく。なんとか無事に役目を終えることができた。
集落全ての人を訪ねて回るのは、なんとも骨が折れる。歩き慣れた道も、現人神様を抱えて歩けば、どんな些細なことも危なげに感じてしまう。いつもは館の中や、中庭を行き来するくらいで、長い道のりを歩くことは初めてだった。足を引っ掛けやしないかずっと気を張っていたようで、現人神様を下ろした瞬間どっと疲れが出てしまった。
あとは夜のお火焚きを待つばかりだ。炎を囲んでさまざまな願いや思いを胸に、この一年の希望を語らう宴が開かれる。そして、立ち昇る白い煙が雲と混ざり合って、蛇神様にイェンダの思いを届けてくれるのだ。
まだまだ祭りもたけなわ、広場の活気は衰えることを知らない。しかし、折り返しを過ぎたのかと思うと、なんだか寂しい気がした。ともあれ、神の御脚として表立った役割は終わったのだ。同時に現人神様も、少しはゆっくりできるだろう。彼女もまたラケと同じく気が抜けたのか、少し崩した姿勢で椅子に体を預けていた。
「お務めお疲れさまです、現人神様。おなかは空いていませんか?
ラケも胃に何か入れたい気分だ。現人神様の食事を侍女に頼んで、自分も持ってきたスモモでも食べようかと思ったが、なかなか腰を落ち着けることは叶わない。
「大役の後だろうと関係ねぇ。ラケもこっちに来てくれ」
かろうじて水を一口したところで、すぐに他の侍従に呼ばれて貢ぎ物の振り分けに回る。桟敷席の前に設けられた祭壇は、すでにあふれかえっていた。
貢ぎ物は、花や布をはじめ多種多様だ。その中から、食べ物をまず他と分けていく。イェンダでも細々と作られる雑穀に豆類、そして
現人神様へ献上された食べ物は、彼女の取り分を除いたあと、集落の人たちへ
ラケは腹の虫が鳴るのを抑えながら、無心で品々を振り分ける。そのうちにも、年に一度しかお目にかかれない麗しい神を近くで拝もうと、人々が貢ぎ物を手に列を成していた。現人神様もまだ、休むどころではないようだ。
突然、ぞわりと首の後ろが逆立つような悪寒がして、ラケは思わず振り返る。
「何だ……?」
周囲の人々も異変を感じたのか、あたりをきょろきょろと見回している。何かがおかしい。そう第六感が警鐘を鳴らす。しかし未だ誰一人、その正体を掴めずにいた。悪寒はやがて、臓腑を見えざる手で弄ばれているような不快感を伴って、全身を余すところなく包み込む。頭の端にじわりと浮かぶ黒い
空気が肌に張り付く。土の匂いがつんと鼻の奥を刺す。――――胸騒ぎがする。
抜けるように青かった空は、いつのまにか色を失っていた。
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