2話 在り方(2)

 部屋の外から、ガヤガヤと人の話す声が聞こえ始めた。ラケは現人神様の脇へと控え、居住まいを正す。程なくして数人の侍従とともに、老齢の女性が部屋へと入ってきた。


「おはようございます、祭祀長」


 ラケは座ったまま会釈した。


「おはよう。なかなか意気込んでいるようですね」


 祭祀長は穏やかな声で答えた。腰は少し曲がっているが、しっかりとした足取りは、年齢よりも幾分か若々しく見える。しかしその落ち着いた声音と、深く刻まれた皺が、紛れもない度胸と経験を感じさせた。


「はい。きちんと務めを果たしたいと思います」


「ふふ……良い心がけです。あなたなら、きっと無事に務まるでしょう」


 祭祀長は満足げに目を細めた。


「では神の御脚、あなたに授けたい物があります。さあ、手を」


 ラケは促されるまま両の手を捧げる。付き従っていた侍従が差し出した小さな箱から、祭祀長は何かを取り出してラケの手にそっと置く。


 それは大きさの割に重く、触れたところからひんやりとラケの熱を奪い取った。何かと思って見れば、小さな金細工の飾り櫛だった。


 表面には細やかな彫金が施され、花や鳥が見事に浮かび上がっている。磨かれて一部がすり減っていることから、かなり古い物であることがうかがえた。だが、大切に保管されていたのだろう。輝きは失われずに保たれている。ラケの手のひらの上で、大きさをものともしない存在感を放っていた。


「これは……一体なんですか?」


 見るからに女物の髪飾りだった。訝しむラケの方へ祭祀長は身をかがめる。


「それは、イェンダの民を導いた巫女様が身につけていた品。神の御脚となった者へ、祭りの日に手渡すのが慣わしなのです。昔から、髪飾りには持ち主の魂が宿ると言うでしょう? 現人神様の最後の砦たるあなたを、この髪飾りがお守りくださる。今日一日、お持ちなさい。けしてその身から離してはなりませんよ」


「マヤ様の……」


 ラケはきらりと光る櫛を、まじまじと見つめた。昔話でしか知らなかった巫女様の持ち物が、今自分の手の中にある。なんとも不思議な気持ちだった。


 マヤ様は極めて力ある人物だったと伝わる。神と心を交わし、若くして惑う人々をまとめ上げた。だが、詳しく伝わっていないことも多い。この地にたどり着いたあと、パスチム山の穢れを一手に引き受けて息絶えたとも、現人神様をお支えしたともされる。伝説と矛盾するが、始まりの現人神様こそ、彼女であったと考える人もいた。なんにせよ、大いなる力を秘めた存在だったことは確かだ。巫女様の櫛とあらば、持っているだけでなんと心強いことか。


 祭りの日は、現人神様がまじないをかけられた館を出る。だからこそ有事の際は、神の御脚が降りかかる邪悪から現人神様を護らなければならなかった。幸いなことに、今までそのようなことはイェンダの歴史上一度もない。おそらく事が起こる前に、いろんな人やまじないによって、護られてきたからなのだろう。この髪飾りも、きっとその一部なのだ。


「お預かりします」


 ラケは髪飾りをそっと捧げ持ってから、腰の小物入れに大切にしまい込んだ。



***



 聞こえてくる喧騒から、広場には集落の人たちが、大勢集まっているのがわかった。彼らは現人神様が現れるのを、今か今かと待っている。


 そっと窓から外を見れば、出店でみせが広場を囲うように、丸く軒を連ねていた。そこへ、お供え物や艶やかな花などが、所狭しと並べられている。山深い集落で、これほど生き生きとした品が並ぶのは祭りの日だけだ。


 現人神様を待つ間、行き交う人々は陽気に歌い、手を取り合って踊っていた。まだ朝だというのに、酒が入った人もちらほらいる。小さな集落といえど、祭りの活気は平原の市に勝るとも劣らない。いつもは純朴な人々だからこそ、この一瞬のきらめきが何にも変えがたい幸せなのだ。


「そろそろかしらね」


 ついにその時が来た。祭祀長のお言葉によって、雨季迎えの祭りは幕を開ける。


 彼女が窓辺に現れると、騒がしかった人々がすっと静まりかえった。一人一人と向き合うように、長老はゆっくりと広場中を見渡していく。そして固唾を飲んで見守る民へ、ハリのある声で朗々と語りかけた。


「よく聴きなさい、この日を迎えしイェンダの民たちよ。我らがこの地にたどり着いて、二百と四十年あまり。長きに渡り、災いに耐えながらも、深く深く根ざしてきた。今日はおやを讃え、己を讃えよ。けして酔うことなく、誇り高き心を持ち続けよ。さすれば、かしこき神々ととこしえに在れよう」


 広場はわあっと歓喜に沸く。祭祀長を後ろから見ていたラケも、気持ちの高まりをふつふつと感じていた。


「さあ、みんな待っていますよ。行っておやりなさい」


 窓辺を離れた祭祀長に背を押され、ラケは現人神様を抱え上げた。階段を降りると、一階の扉が大きく開かれていた。明るみの中に、期待の眼差しを向ける群衆が見える。それが屋内の暗さと相まって、ラケの目をちかちかと眩ませた。


 深呼吸をしても意思に反して鼓動は高鳴り、ひとりでに走っていく。落ち着けと念じても、気持ちは焦るばかりだった。そんなラケの肩が優しく叩かれる。


「ディヤ……」


 腕の中からディヤがこちらを覗き込んでいた。彼女はラケの胸にそっと触れ、深く頷く。ぱちりと合った目は、穏やかな光を湛えていた。励ましてくれているのだとわかると、一瞬にしてふっと心が軽くなる。


「……ありがとう。本当に頼もしいや」


 先ほどの緊張が嘘のように、不思議と鼓動は落ち着きを取り戻しつつあった。現人神様のお力は、なんともあらたかだ。そんなことを思いながら、ラケはひとつ息をついて、扉の外へ足を踏み出した。


 館の外は、むせ返るほどの活気に満ち溢れていた。誰も彼もが期待の眼差しを一人の少女へと向けている。イェンダの守り神。イェンダの象徴。そして、――イェンダの希望。みんなが彼女をそう讃えていた。声に応えるように、現人神様は手を掲げる。


 人々の心を代弁するようなさわやかな風が、ラケの髪をさらい、災除けの旗をはためかせていく。鮮やかな景色が、ラケの目を燦々と射る。現人神様も遠くを見るように目を細め、しばし晴れやかな空気を味わっているようだった。

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