2話 在り方(1)

 入口の護衛に軽く挨拶をして、ラケは館の中へ入った。今日は織絵巻タペストリーが掛けられているのもあって、いつにも増して屋内は暗くしんみりとしている。ろうそくの灯りがゆらめく階段を、静かに二階へと上がった。廊下を抜け、突き当たりの部屋の前で膝を折る。ラケは声を低くして、中へと声をかけた。


「失礼いたします。脚が参りました」


「少しお待ちください」


 中から侍女のものであろう返事があった。まだ支度中のようだ。そのまま待機していると、しばらくしてチリンと涼やかな鈴の音が響く。入って良いという合図だ。軽く一礼し、ラケは部屋へと足を踏み入れた。


 小さな部屋の中は、魔除けので満ちていた。赤で統一された内装が、立ち入る者を威嚇する。常人ならば、この部屋でくつろぐことなどできそうにない。だがここは寝所だった。その証拠に、赤い夜具の敷かれた寝台が、部屋の中央に据えられている。そこに一人の少女が腰掛けて、窓の外を眺めていた。


「おはようございます」


 ラケの挨拶に、少女はゆっくりと振り向く。頭を動かすのに合わせて、豪奢な髪飾りがしゃらんと音を立てた。逆光の中でも、金色の瞳が凛と輝いている。彼女はラケを見ると、かすかにほほえみを浮かべた。


 目の前の少女こそ、他ならぬ現人神様その人だった。


 そのお姿は、何度見ても思わず息を飲む。身に纏うのは、目の醒めるような赤い衣。首元には蛇を模した首飾りが鈍く光っている。掌や足は毒々しいほどに赤く塗られ、人ならざる雰囲気を醸し出していた。


 何より印象的なのは、黒く鋭く縁取られたまなじりと、額にいただく目の模様――神の印だった。三つの目に射抜かれれば、誰しもが畏怖の念を抱く。身の内から光差すような、底知れぬ力にあふれていた。


 雰囲気とは裏腹に、その背格好は小さく幼い。年はアニタと同じ、十一歳だ。頬の丸みにも、幼さが垣間見える。しかし、整った顔立ちは愛らしいというより、美しいという方がふさわしかった。


 現人神様のお側には、三人の侍女が控えている。その中の一人、侍女頭のイサニが口を開いた。


「今、化粧が終わったところです。移動をお願いできますか?」


「かしこまりました。……現人神様、お運びいたします」


 ラケは現人神様の前へと進み出る。彼女が頷くのを見届け、ラケは肩と足を支えて横向きに抱え上げた。現人神様はなんでもないようにラケの首に腕を回し、ぴたりと胸に体を預ける。彼女の衣からは、焚き染められた麝香じゃこうがふわりと漂った。


 現人神様は人の重さをしていない。感覚としては赤子と同じ程度に思える。服や装飾品の重さを抜けば、もっと軽いかもしれなかった。最初は重さを見誤り、放り投げてしまいそうになったほどだ。今も、こうする度に只人ではないことを実感する。


 ふと現人神様の腕に、いつもより力が込められている気がした。彼女の顔をうかがえば、目は伏せられている。


(現人神様も緊張するのかな)


 少しほほえましく思いながら、軽くゆすって体勢を整えた。


 寝室の隣は、祭祀の合間にお休みになる控えの部屋となっている。今日も祭りが始まるまでのしばらくの間、ここで待機することになっていた。寝室ほどではないにしろ、ここも至る所に魔除けのまじないが施されている。集落を守っているのか、守られているのか。時々不思議になる。


 部屋の中央には、現人神様専用の椅子が置かれている。お御脚が足置きにしっかりと据えられていることを確認しながら、現人神様を椅子へそっと下ろした。身を引いたラケへ、イサニが声をかける。


「それでは、私たちは下で準備がありますので。部屋の外に侍従も控えておりますし、あなたも少しここでお休みください。今日はきっと忙しいでしょうから」


「お気遣いありがとうございます」


 侍女たちが出ていき、部屋の中にはラケと現人神様の二人だけが残された。



***

 


 ラケは現人神様の正面に膝をついて座る。


「おはようディヤ。よく眠れた?」


 ディヤは天井に視線を投げ、しばらくしてから首をふるふると横に振った。やはり、いつもより肩をこわばらせている。彼女の緊張をほぐすように、ラケは優しい声で語りかけた。


「あはは、俺もだ。今も少しそわそわしてる。でも大丈夫だよ。舞はたくさん練習したし、ディヤを運ぶのはいつものことだろ? それに、俺は神の御脚として初めての祭りだけど、ディヤはもう何年も役目を成し遂げてるじゃないか。ディヤが一緒にいてくれれば心強いよ」


 そう笑いかけると、ディヤも頬を緩めてゆっくりと頷いた。彼女の緊張が少し和らいだように見え、ラケはほっと胸を撫で下ろす。


 集落の守り神とはいえ、まだ幼気な少女なのだ。小さな肩に、どれほどの重責がかかっているのか、想像するだけで胸が詰まる。妹と同い年だと思うと、なおさら不憫でならなかった。この年頃など、まだ親兄弟に甘えても良いだろうに、彼女がそのような素振りを見せることは、ほとんどない。


 本当ならば、ゴダとハティラから直に愛情を注がれて、穏やかに暮らしているはずなのだ。友達と遊び、思いっきり泣いたり笑ったりして良いはずだ。ディヤが人として生きられるのなら、諸手を挙げて賛成しよう。だが、そう簡単に事は運ばない。集落の仕組みが崩れ去れば、イェンダの民、三百人あまりの命を脅かすことになる。


 人として生まれ、神として生き、神のまま死ぬ。その定められた道を、ディヤがどう思っているのかは分からない。しかし生を受けた以上、たとえ一瞬であっても、人として生きて欲しかった。


 この願いが独りよがりなのは、重々承知している。その上で、人目のない時は人間として接しようと心に決めていた。砕けた口調で話しかけ、『ディヤ』と名を呼んだ。そして時間のある時は、彼女に様々な話を語り聞かせた。


 他愛のない世間話、家族の話、行商で行った他の土地の話――。外界を知ることで、より彼女の孤独を深めてしまう懸念はあった。しかし彼女は、興味深げに椅子から身を乗り出し、長いまつ毛をしばたかせながら耳を傾けてくれた。時には話をせがむように、ラケの袖を控えめに引くことすらある。その様子は何より、ラケの心を穏やかにした。


 一方で、とんでもない不敬を働いている恐怖もあった。イェンダの民はけして裕福ではない。厳しい環境で、つましく暮らしている。だがその中でも、限りなく豊かな心を持っていた。現人神様のおかげで災いを逃れ、産業を発展させてきたからだ。だから、この均衡を崩すことをみな恐れている。


 それでも、ラケがディヤに親しみを持って接しているのを、咎める者は誰もいない。今も部屋の戸は開け放たれ、すぐ外には人がいる。おそらく気付いていないのではなく、見逃されている。本当は集落の人々も、祭祀の歪さを憂いているのだろう。


 もちろんラケも節度を守り、忠実な侍従として仕えている。秩序を乱すことを望んでいるわけではない。ただこの小さなわがままが、ずっと許されれば良いのにと、願うばかりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る