1話 天険のまほろば(4)

 ただいまと家の戸をくぐると、母が朝食の支度をしていた。


「おはよう。準備終わったの?」


「うん、なんとかね。みんなは?」


「アニタとマニスは水汲みに行ってる。パダムがまだ起きてないみたいなの。ちょっと見てくれない? ……それにしても、お父さん心配ね」


「まあ、そのうち帰ってくるよ。きっと」


 父のシェカル率いる隊商は、一昨日のうちに帰る予定だった。遅れること自体は、さほど珍しくない。先日のお告げでも、東の街道で災いありと出ていた。ならば、南の迂回路を使っているはずだ。そうなると、予定より数日ほどかかるだろう。


 雨季の訪れを跳ねのけ、今日から数日はさわやかな晴れが続くとされていた。明日になれば救援隊も出る。心配するだけ心の毒だ。


 ここ数年、現人神様がお告げを違えることはない。以前は稀に外れることもあったらしいが、当時はきっと現人神様が幼すぎたのだろう。


 奥でのんきに寝ている末の弟を起こし、ラケも母を手伝う。


「ああ、そうだ母さん。ゴダさんとハティラさんからこれをもらったよ。家族で食べてくれって」


 母はあら、と口元を押さえて籠を覗き込んだ。


「こんなにたくさん。今度お礼しなきゃ」


「うん。それと、母さんの織絵巻タペストリーを褒めてたよ」


 今度はラケの方を見て、照れくさそうにはにかんだ。


「何度言われても嬉しいよ。私も好きでやってることだから、みんなに認めてもらえると、さらに腕が鳴るね!」


 そう得意げにふふんと鼻を鳴らした。


「ほーんと、あたしもお母さんみたいにできたらいいのに」


 水汲みから帰ってきた妹のアニタが、戸口からおさげ髪をのぞかせた。続いて二男のパダムも顔を出す。


「姉ちゃんはまず、集中力をどうにかした方がいいね。途中でほっぽり出したら、できる物もできないじゃないか」


「ちょっと、あんたは黙ってなさいよ!」


 アニタはむくれて、マニスを小突こうとする。しかしマニスは、その手をするりと掻い潜って逃げてしまった。母は呆れてため息をつきながら、アニタに言った。


「綺麗に作るのも大事だけど、ちゃんと祈りを込めなくちゃ。イェンダの織物としてよそにお出しできないからね。……まあ、アニタは始めたばっかりじゃない。これからだよ」


「でも……」


「大丈夫。きっとうまくなるよ。アニタが作った織物を売りに行くのが、今から楽しみだ」


 ラケはしょぼくれる妹の肩を叩いた。



***



 家族五人で向かい合って床に座り、あらためて神々に祈りを捧げた。それを終えると、みんな待ってましたとばかりに、朝食に手を付けはじめる。


 食卓に並ぶのは、香ばしく焼きあがった麺麭ロティに、ヤクの乳から作られた発酵乳ダヒ。豆の汁物には、珍しく干し肉が入っていた。心なしか、量もいつもより多めだ。


「朝から豪勢だ」


「だって息子の晴れ舞台だもの。張り切らないわけにはいかないじゃない」


「俺はただの脚だって」


「舞じゃ主役でしょ。さ、食べなさい。冷めるよ」


 促されて、ラケは汁物を浸してロティを口へ運ぶ。まろやかな塩気に、肉の旨味が滲む。胸までじわりと温かくなる、母の味だ。


 そういえば、と汁物をすすりながらマニスが切り出す。


「最近スッダ川の水かさが減ってるよね。姉ちゃんもそう思うでしょ?」


 会話に耳を傾けながら、今度はダヒをすくってロティを頬張る。館でもその話は出ていた。祭祀長は、山の上ではこのあたりほど雨が降らなかったのだろう、と言っていた。


「枯れたわけじゃないんだし、もう乾季も終わりだからきっとすぐ元に戻るわよ」


「蛇神様が風邪ひいたのかも」


 おどけたマニスの一言で、食事の席は和やかな笑いに包まれた。ラケも笑いながら付け加える。


「昨日は前祭さきまつりができなかったしね。案外マニスの話もあり得るかもしれないよ」


 水源である氷河湖で、蛇神様を讃え鎮める祭礼が行われるはずだった。しかしそれは雨によって阻まれ、日延べされていた。


「風邪ならまだしも、蛇神様が怒ってたらどうしようか」


 ラケはまだ眠い目を擦っているパダムを、ワッと言って驚かす。虚をつかれたパダムは、肩を大きく跳ねさせた。


「こ、怖くないし! 蛇神様なんかやっつけちゃうから!」


 言っていることは勇ましい。しかし、ぎゅっと眉根を寄せた表情で、逆に子供っぽさが強調されてしまっていた。思わずこみ上げる笑いを、彼の尊厳を傷つけまいと、すんでのところで飲み込む。そこへ母が代わりに追い討ちをかけた。


「あら、このあいだ蛇神様が怖い、ってべそかいてたのはどこの誰だっけ?」


「泣いてないもん!」

「じゃあ、おまえ夜中厠に一人で行けよ」

「ああっマニス兄ちゃんひどいよ」

「ふふ。大丈夫だよパダム。お姉ちゃんが守ってあげるからね〜」


 末弟の頭をアニタが愛おしそうに、よしよしと撫でた。


「そういえば、ラケも小さい頃『アニタは俺が守る!』ってよく言ってたっけ。なんだか懐かしいね」


「あたしも覚えてる!」


 ラケは苦笑した。当時は使命感に燃えていたが、今となっては気恥ずかしい。


「覚えてなくてもいいのに」


「ええ〜っ。あたしは凄く嬉しかったんだけどな。おとぎ話に出てくるお姫様みたいってずっと思ってた」


 アニタは胸の前で手を合わせて、夢見るように目を輝かせた。


「あの時は本当に助かってたんだよ」


「近所の人もたくさん助けてくれてたじゃないか」


「それもあるけどね。ラケのことを心強く思ったのは、本当なんだから」


 たしかに、父と母の助けになりたいとは思っていた。面倒を見ることで、大人たちが手放しに褒めてくれたことも大きい。でも、何より妹がかわいくて仕方なかったのだ。


 初めて顔を合わせた時のことは、今でもはっきり覚えている。とても小さくて、弱々しい。目を離したらいなくなりそうな存在。そんな第一印象だった。それでも温かくて、頬を寄せると甘い香りがした。幼いアニタが、ぷくぷくした手でラケの指をぎゅっと握った時、同時に心も鷲掴みにされたのだ。


 妹が生まれる前は、お世辞にもいい子とは言えなかった。悪戯はするし、言うことも聞かない。だがこの日を境に、ラケは妹のためになんでもやろうと、心を入れ替えたのだ。


 それからというもの、毎日、甲斐甲斐しく妹の世話を焼いた。歩けるようになれば手を引いて、どこに行くのも一緒だった。そんなラケをアニタはよく慕ってくれた。それが嬉しくて、ラケはいっそう妹をかわいがったものだ。


 マニスが生まれてからは、アニタもラケと一緒になって面倒を見た。パダムは三人が付きっきりだったせいか、少々甘えん坊に育ってしまった。それでもラケたちは、かわいい末弟に構わずにはいられない。パダムの口の端に付いた食べかすを、ラケはそっと拭ってやった。


「さて、そろそろお勤めの時間じゃない? 早く行きなさいな」


 母はおもむろに立ち上がる。みんなちょうど食べ終わった頃合いだった。


「そうだね」


 ラケも立ち上がって、戸口に掛けてあったククリを帯に挿した。せっかくなので、スモモを二つ籠から取り、帯に付けた小物入れにしまう。熟れる前の、あふれる酸味もまた乙なものだ。疲れた時に食べるには、ちょうどいいだろう。


「あっ、ちょっと待って」


 母はなにかを思い出したかのようにラケを呼び止めた。小さな肩掛けかばんから取り出したのは、赤い災い除けの旗だった。


「ラケに降りかかる災いを、祓ってくれますように」


 そう願いを込め、ラケの上腕に旗を結ぶ。


「……ありがとう。行ってきます」


「いってらっしゃい」


 母はラケを笑顔で見送った。

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