1話 天険のまほろば(1)

 窓から見えるパスチム山の頂には、今日もうっすらと雲が掛かっていた。まだ辺りは仄暗く、西の雲間には星が見え隠れしている。山腹では赤いシャクナゲの花が咲き誇り、黒い山肌に色を添えていた。


 昨日まで降っていた季節を先取りする大雨が、嘘のように晴れ上がっていた。東の空は雲一つない。地面に残るぬかるみも、日が出ればたちまち乾くだろう。現人神様のお告げでは、今日はよく晴れるとされていた。


 ラケはうんと伸びをする。昨晩遅くまで舞の練習をしていたが、疲れは少しも残っていない。それどころか緊張と興奮で胸がざわめいて、頭はすでに冴えきっていた。


 今日は夏至。雨季迎えの祭りが行われる、イェンダ集落きってのハレの日だ。


 ラケは寝台を静かに降りた。家の外へ出ると、朝の空気がひんやりとラケの褐色の肌を包む。日中は過ごしやすくなってきたものの、朝の空気はまだ鋭く冷たい。それでも近頃、ここを吹き抜ける季節風はしっとりと湿気を含み始めていた。雨季の訪れはもうすぐそこだ。


 家の裏手に回り、かめに溜めた水で顔を洗う。ぴりりとした冷たさが、頬に浸みて心地よい。長い黒髪をさっと梳き、家から持ってきていた藍色の上着に袖を通した。


 身支度を終えると、遠く東のシャル山へ手を合わせた。胸の内で、いつもの言葉を唱える。


(――天の神様。いつも見守っていただき、ありがとうございます。今日も、天からイェンダをお守りください)


 そして西の頭上にそばだつパスチム山にも、祈りを捧げる。


(――蛇神様。どうかお心を鎮め、イェンダに恵みをお授けください)


 ラケはこうやって毎日、二座の山に向かって手を合わせていた。家族や近所の人はもちろん、先祖の頃からずっと、この祈りを欠かさず行ってきた。


 他愛もない小さな習慣。しかし、天険の地に住まうイェンダの民には、神々への感謝こそ大切だった。


 この地は世界の屋根とも称される、雄大な山脈の中にある。万年雪に閉ざされた、荘厳な神々の山嶺たち。その佇まいを望むイェンダの地もまた、充分天に近い場所だった。


 山々の中でも一際高く美しいのは、はるか東の母なる山、シャル山だった。太陽の登るこの山は、天の神様のくらであり、山を通して世界をあまねく見守っているとされていた。


 一方、イェンダ集落のあるパスチム山も、山脈を構成する一座だ。山の主は、荒れすさぶ災いの神――蛇神様だった。


 蛇神様の気性のとおり、この辺りは急峻で足場が悪い。激しく変化する天候に翻弄されて、道を見失うことも珍しくなかった。それに加え、地上より甘い空気が否応なしに肺を締め付ける。


 並みの人間であれば、足を踏み入れただけで命を脅かされてしまう、危険な土地だ。実際パスチム山には、イェンダの民以外誰も住んでいない。ラケたちがこの地で暮らせるのは、現人神様のおかげ。そして、長い年月を経て強靭な肺を手に入れることができたからだ。


 だが、地理的な危険だけでなく、災いによる病もある。罹れば体が氷のように冷え、次第に動かなくなってしまう。手足の痺れなど序の口にすぎない。肺まで侵されればイェンダの民といえど、ここの空気に耐えきれず、苦しみのすえ死に至るのだ。


 とはいえ、悪いことばかりではない。蛇神様は、悪意ある侵略者を退けてくださる。それに雨は全てを押し流す一方で、大地を豊かに潤す。だから、恵みを授ける善き神であるよう願いを込めて、大切に祀っているのだ。


 家の戸を細く開けて中をうかがうと、穏やかな寝息が聞こえる。家族はまだ寝ているようだ。


 ラケはみんなを起こさないよう、そっと家を後にした。


***

 

「よう!」


 家を出て間もなく、背後から声をかけられる。振り返ると、友人のスニルが駆け寄ってくるところだった。色濃く焼けた肌に、白い歯が眩しい。暗い色の髪は短く整えられ、見た目にも清々しかった。


「さっすが神の御脚みあしってか? 気合入ってんじゃねぇか!」


「そういうおまえもだろ。蛇神様!」


 ラケはスニルの横に並ぶと背中をバシッと叩いた。親友に手加減など無用だ。スニルは前につんのめったが、その勢いで見慣れたかたへくるりと身を翻す。スニルに合わせて、ラケも大地を蹴った。


 しばし二人は舞い踊る。太鼓の合図がなくとも、息はぴたりと合っていた。


 ラケとスニルは、幼い頃から一緒だった。同じ年、同じ月に生まれ、十六年間このイェンダ集落で生きてきた。彼は自分の片割れのようだと、ラケは常々思う。


 ともに機屋の周りを駆け、取っ組み合いの喧嘩もした。夜中に二人で、集落を抜け出したこともあった。あの夜見た満天の星々は、今思い返しても格別だ。もちろんすぐに見つかったのは、言うまでもない。


 こっ酷く叱られてなお、楽しかったと笑うスニルが、ラケには心地よかった。懲りないとも言えるが、それが彼の良いところだ。


 さっぱりとしたスニルの性格に、何度助けられたかわからない。だから、祭りで披露する宣誓の舞で、相手となる蛇神役に彼を指名したのだ。


 ひとさし終えると、ラケはなんだかおかしくなって吹き出した。


「あははは! ほんと、スニルには敵わないよ。おまえと一緒なら、俺は安心して舞える」


 スニルはわざとらしくため息をつく。


「オレの方は斬られるかもしれないんだぜ? 気が気じゃないわ」


 本番で、ラケはよく研がれたククリを振るう。内側に歪曲したこの刀は、食べ物を切り分けるのにも、木を割るのにも、草を薙ぐのにも使える実用刀だ。山へ分け入る時は必ず持って歩く、手によく馴染んだ道具だった。


 問題はスニル演じる蛇神を相手に、舞わなければならないことだ。蛇神役は木彫りの面を被る。そのため、前方はほとんど見えないのだ。動きも激しく、特に難しい役とされていた。彼に合わせ、なおかつ誤って怪我をさせることのないよう、注意を払わねばならない。それに、ラケの方もおっかなびっくり舞っていれば、すぐにわかってしまう。堂々と舞うことに意味がある宣誓の舞では、お互いを完全に信頼することが大切だった。


「まあ、舞はともかく、館勤めがラケと一緒でよかったよ。おっさんたちに囲まれるより、おまえと一緒の方が気が楽だからな」


 乱れた裾を直しながら、スニルは呟く。ラケも同じ思いだった。


 ここ数年、ラケは商人、スニルは牛飼いとしてそれぞれ勤しんでいた。そのため、昔ほど顔を合わせる機会はなくなっていた。だが、奇遇なことに館勤めが同時に回ってきたのだ。


 集落を守る現人神様の下で、彼女の館を中心にさまざまな雑務を行う。現人神様にお仕えすることから、そういった人たちは侍従、または侍女と呼ばれていた。集落の人が満遍なく祭祀に関われるよう、お役目を年ごとに回しているのだ。


 といっても、正確には館勤めが回ってきたのはスニルだけだ。ラケが侍従になったのは、それとは別に、特別なお役目を授かったからだった。

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