篤き恩寵のイェンダ

三津名ぱか

序章 綴られしふること

 機屋はたやの窓からは、午後の柔らかな陽が射し込んでいた。その光に包まれて、何人もの女たちがせっせと布を織っている。ラケが幼い頃の記憶をたどる時、まず頭に浮かぶ穏やかな光景。


 部屋の奥には、みんなの使う織機とは違う、大きな竪機たてばたがある。母はここで、よく織絵巻タペストリーを織っていた。


 その特別な綴れ織りは、イェンダ集落の誇りそのもの。言い伝えや神話、時にはおとぎ話やほら話まで。集落の歩んできた物語が、豊かに織り込まれていた。


 ラケは母の隣で、その手仕事を目で追うのが好きだった。


 に導かれ、横糸が縦糸に命を吹き込んでいく。糸をすくうたび、櫛で目を詰めるたび、張り詰めた糸は、弦楽器のように軽やかな音色を奏でて耳をくすぐった。


 やがて糸の集まりは、下絵にはない鮮やかさを帯びて、息づき始める。その様子は夢のようで、母のことを、まるで神様みたいだと思っていた。


「ねえ、おかあさん。今、どんなお話を織っているの?」


 そう尋ねると、母は手を止めて息子の頭を撫でた。職人の真剣なまなざしがふわりとほぐれ、いつもの優しげな面持ちへと変わる。母はにこりとほほえんでから、ふうと小さく息をついた。


「ちょっと疲れてきちゃったし、休憩がてらお話でもしようか」


 母はラケをそっと抱えあげると、温かな膝の上に乗せた。そして縦糸の下に置かれた下絵を指し示しながら、穏やかな口調で昔話をしてくれたのだった。


***


 昔々、パスチム山には、災いを起こす蛇神へびがみ様がおりました。他の神々すら、彼の姿を見とめれば逃げ出すほど、それはそれは恐ろしい神様でした。


 蛇神様の生み出す雲に太陽は隠され、作物はなかなか実を結びません。大雨や山津波は、やっとの思いで拓いた土地を、否応なしに押し流しました。さらに、蛇神様はたくさんの小さな蛇たちを遣わし、恐ろしい病を振り撒きます。人々は次から次へと命を落としていきました。


 多くの人は災いを恐れ、他の土地へ移っていきました。しかし幾たび災いに遭っても、この地に留まった者たちが居ました。そう、私たちのご先祖様、最初のイェンダの民たちです。


 この頃、世には争いが絶えず、豊かだった平原も戦火に飲まれていました。イェンダの民も各地で居場所を追われ、パスチム山へ命からがら流れ着きました。たとえ厳しい土地でも、他に行く宛てなどなかったのです。


 イェンダの民たちは、災いで流された家を直し、抉れた山肌を耕しますが、それでも今日を生きるので精一杯でした。しかも、その間も蛇神様の災いは止むことなく、人々を苦しめつづけます。


 誰しもが、もう駄目かもしれないと思っていたある日、集落の長はとても不思議な夢を見ました。


 光り輝く人影が、東の彼方から手を差し伸べるのが見えました。その人影は、優しい声で長に語りかけます。


「私は天の神。苦しむ貴方たちをずっと見てきました。私はそれが悲しくてなりません。貴方たちの助けになるよう、私の力を分け与えましょう」


 目を覚ました長は周りを見回しますが、普段と何も変わりません。長はがっかりして、夢のことを他の人には話しませんでした。


 程なくして、ある若い夫婦に女の子が生まれました。大きな目をして肌艶も良く、とても健やかな赤子でした。ただ不思議なことに、その子は生まれつき額に目のような模様――神の印がありました。


 ある日、父親が集落の外へ出掛けようとすると、赤子は激しく泣きすがりました。何をしても、その手を固く握って離しません。翌日外へ出てみると、災いで道が大きく崩れていました。なんと、赤子は災いを予知していたのです。一度きりではなく、何度も同じことがありました。


 またある日、病にふせる母親を前に人々は何もできず、ただうろたえるばかりでした。災いの病には、どんなまじないも効きません。しかし赤子が母親の頬に触れると、みるみるうちに青かった顔色が明るくなりました。次の日には何事もなかったように、病は完全に癒えたのです。


 二つの奇跡は、瞬く間に集落中に広がりました。うわさを聞いた長はもしやと思い、夢のことをイェンダの民たちに話しました。


「奇跡の子だ!」


「天の神様の贈り物だ!」


「彼女はイェンダの守り神に違いない!」


「蛇神様の災いにもう怯えなくていいんだ!」


 民たちは口々に赤子を称えました。そして天の神様からお力を授けられた子を現人神あらひとがみ様と呼び、たいそう大事にしましたとさ――。


***


 ラケは現実から逃れるように、昔のことをぼんやりと思い出していた。目の前の光景は、まるで現実味がない。自分の指先の感覚さえ他人事のようで、夢ならば早く覚めてくれと願って止まなかった。だが悪夢は覚めるどころか、惨状をまざまざと見せつけてくる。


 天の神様から言祝ことほがれたこの集落で、こんなことが起こるはずはない。そう、信じたかった。


 祭りに集まった人々で広場はごった返し、耳を塞ぎたくなるような悲鳴や怒号が、絶えず飛び交っていた。その向こうには、黒い塊が怪しく蠢いている。小さな何かが何千何万と群がり、おぞましい緑色の瘴気を纏って這い寄ってきていた。家々は無惨に薙ぎ倒され、群衆が為す術もなく飲み込まれていく。


 それは黒い蛇の群れ――蛇神の災いだった。

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