篤き恩寵のイェンダ
三津名ぱか
序章 綴られしふること
部屋の奥には、みんなの使う織機とは違う、大きな
その特別な綴れ織りは、イェンダ集落の誇りそのもの。言い伝えや神話、時にはおとぎ話やほら話まで。集落の歩んできた物語が、豊かに織り込まれていた。
ラケは母の隣で、その手仕事を目で追うのが好きだった。
やがて糸の集まりは、下絵にはない鮮やかさを帯びて、息づき始める。その様子は夢のようで、母のことを、まるで神様みたいだと思っていた。
「ねえ、おかあさん。今、どんなお話を織っているの?」
そう尋ねると、母は手を止めて息子の頭を撫でた。職人の真剣なまなざしがふわりとほぐれ、いつもの優しげな面持ちへと変わる。母はにこりとほほえんでから、ふうと小さく息をついた。
「ちょっと疲れてきちゃったし、休憩がてらお話でもしようか」
母はラケをそっと抱えあげると、温かな膝の上に乗せた。そして縦糸の下に置かれた下絵を指し示しながら、穏やかな口調で昔話をしてくれたのだった。
***
昔々、パスチム山には、災いを起こす
蛇神様の生み出す雲に太陽は隠され、作物はなかなか実を結びません。大雨や山津波は、やっとの思いで拓いた土地を、否応なしに押し流しました。さらに、蛇神様はたくさんの小さな蛇たちを遣わし、恐ろしい病を振り撒きます。人々は次から次へと命を落としていきました。
多くの人は災いを恐れ、他の土地へ移っていきました。しかし幾たび災いに遭っても、この地に留まった者たちが居ました。そう、私たちのご先祖様、最初のイェンダの民たちです。
この頃、世には争いが絶えず、豊かだった平原も戦火に飲まれていました。イェンダの民も各地で居場所を追われ、パスチム山へ命からがら流れ着きました。たとえ厳しい土地でも、他に行く宛てなどなかったのです。
イェンダの民たちは、災いで流された家を直し、抉れた山肌を耕しますが、それでも今日を生きるので精一杯でした。しかも、その間も蛇神様の災いは止むことなく、人々を苦しめつづけます。
誰しもが、もう駄目かもしれないと思っていたある日、集落の長はとても不思議な夢を見ました。
光り輝く人影が、東の彼方から手を差し伸べるのが見えました。その人影は、優しい声で長に語りかけます。
「私は天の神。苦しむ貴方たちをずっと見てきました。私はそれが悲しくてなりません。貴方たちの助けになるよう、私の力を分け与えましょう」
目を覚ました長は周りを見回しますが、普段と何も変わりません。長はがっかりして、夢のことを他の人には話しませんでした。
程なくして、ある若い夫婦に女の子が生まれました。大きな目をして肌艶も良く、とても健やかな赤子でした。ただ不思議なことに、その子は生まれつき額に目のような模様――神の印がありました。
ある日、父親が集落の外へ出掛けようとすると、赤子は激しく泣きすがりました。何をしても、その手を固く握って離しません。翌日外へ出てみると、災いで道が大きく崩れていました。なんと、赤子は災いを予知していたのです。一度きりではなく、何度も同じことがありました。
またある日、病にふせる母親を前に人々は何もできず、ただうろたえるばかりでした。災いの病には、どんなまじないも効きません。しかし赤子が母親の頬に触れると、みるみるうちに青かった顔色が明るくなりました。次の日には何事もなかったように、病は完全に癒えたのです。
二つの奇跡は、瞬く間に集落中に広がりました。うわさを聞いた長はもしやと思い、夢のことをイェンダの民たちに話しました。
「奇跡の子だ!」
「天の神様の贈り物だ!」
「彼女はイェンダの守り神に違いない!」
「蛇神様の災いにもう怯えなくていいんだ!」
民たちは口々に赤子を称えました。そして天の神様からお力を授けられた子を
***
ラケは現実から逃れるように、昔のことをぼんやりと思い出していた。目の前の光景は、まるで現実味がない。自分の指先の感覚さえ他人事のようで、夢ならば早く覚めてくれと願って止まなかった。だが悪夢は覚めるどころか、惨状をまざまざと見せつけてくる。
天の神様から
祭りに集まった人々で広場はごった返し、耳を塞ぎたくなるような悲鳴や怒号が、絶えず飛び交っていた。その向こうには、黒い塊が怪しく蠢いている。小さな何かが何千何万と群がり、おぞましい緑色の瘴気を纏って這い寄ってきていた。家々は無惨に薙ぎ倒され、群衆が為す術もなく飲み込まれていく。
それは黒い蛇の群れ――蛇神の災いだった。
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