1話 天険のまほろば(2)

 スニルとともに急坂の路地を下っていくと、広場にたどり着いた。この集落はすり鉢状の谷間に張り付くように、家々が連なっている。中心の一番開けたところは、みんなが憩う広場になっていた。


 早朝にもかかわらず、すでに十人ほどが集まっている。みなどこか浮かれた様子で、いそいそと祭りの飾り付けをしていた。昨日まで雨が降っていたのだ。祭りを迎えるには、朝のうちに準備を終わらせなければならなかった。


 広場をぐるりと囲うように竿から竿へ、人々が真新しい災い除けの旗を渡していた。


 青、白、赤、緑、黄。この小さな五色の旗を揺らした風は、災いを祓う。イェンダの織物の中でも、特に強く祈りが込められていた。


 もとより高山のため、風は絶え間なく吹いている。旗があれば、集落まで災いが及ぶことはまずなかった。普段からそこかしこに飾られているが、今日はまだまだ増えそうだ。


 手近な人に手伝いを申し出ると、広場の東側で手が足りていないとのことだった。スニルと一緒にそちらへ向かい、作業をしている壮年の男女に声をかける。


「おはよう。ゴダさん、ハティラさん」


「祭りの肩慣らしがてら、手伝いにきたぜ」


 下を向いて作業をしていた夫婦は、二人を見るとぱっと笑顔を見せた。


「おう! おはようさん」


「助かるわねぇ。若い人の手はいくらあってもいいから」


 二人はイェンダの民の例に漏れず、おっとりとして人当たりがいい。今日は特に、晴れやかな顔をしていた。


「そんじゃスニルは真ん中を、ラケはこっちを持ってくんな」


 ゴダはそう言って、大きな布の端をラケたちに手渡した。踏み台へ上がり、ハティラの指揮のもと、三人は壁の鉤へ布をかける。


 布の縦幅はラケの頭から膝あたりまである。横幅は三人が手を広げてもまだ足りない。上辺がぴんと張れば、鮮やかな織絵巻タペストリーが目の前に現れた。


 巨大な蛇神様がひき起こす災いと、逃げ惑う人々が描かれている。小さい頃によく聞かされた、昔話の一場面だ。


「何度見ても素敵な仕事ぶり。……たしか、これの制作にはウラも携わっていたわよね? ほんと、昔から腕がいいわぁ」


 ハティラは織絵巻タペストリーを眺め、感嘆の声を上げる。ラケは少し照れくさくなって頬を掻いた。


「そう伝えておくよ。母さんも聞いたらきっと喜ぶ」


 ウラというのは、ラケの母のことだ。母は誰もが認める、イェンダ随一の織物師だった。


 織絵巻タペストリーは、複数人で一つの作品を織り上げる。ラケが幼かった頃、母は制作を担う一員として選ばれた。今も売り物となる布を織りながら、制作を続けている。


 祭りで飾る工芸品として、織絵巻タペストリーは大切にされてきた。元々は寒さをしのぐために屋内に設置する、ただの壁掛けだったという。それが、月日が経つうちに、より緻密で華やかなものへと変わっていった。祭りの日には家の外に飾り、天の神様へ技術の向上と、集落の繁栄をご報告するのだ。


 この集落は、織物産業を中心に回っている。パスチム山はガレ場ばかりで、土と呼べるものに乏しい。拓いた畑も、災いによっていとも簡単に岩場に戻ってしまう。それに、いくら現人神様が災いを予知できても、畑を担いで避難させるわけにはいかない。農耕だけでは、とても成り立たなかった。かわりに、家の中でも行える手仕事が大きく発展したのだ。


 イェンダの織物は、繊細でたおやかでありながら、普段使いにも耐えうる丈夫さを持っている。丁寧に手をかける分、出回る数は限られ、おのずとその価値を高めていた。なにより、見る者を虜にする、内なる輝きを帯びている。そのため、今や王族すらこぞって求める、人気の交易品となっていた。


 ここから目と鼻の先、広場の南には大きな機屋が建っていた。ここはで職人たちが、毎日熱心に仕事をしている。


 世の戦は平らかになって久しく、今は賑やかな市が立つ。商人は山を下りて商都で布を売り、新たな材料や食料などを仕入れるのだ。商人の父も忙しく各地を飛びまわっている。


 ラケも十歳から館に勤めるまで、父の隊商に属していた。商都に至る山道は険しい。商売も物の良さだけで押し切れるほど、やさしくはない。それでも、イェンダの織物が人々の手に渡っていくのを見るのは、他では得がたい喜びと誇らしさがあった。


「見ろよ。あれきっと新作だぜ?」


 スニルが指さした広場の北側に、ひときわ大きな二階建ての建物が見えた。現人神様の館だ。木彫りの装飾が美しい建物だが、今日は他の建物と同様に壁面は覆われている。入り口上の一番目立つところには、この地へたどり着いたイェンダの民と、彼らを導いた巫女様の姿がたなびいていた。古い題材も織り直され、色褪せることなく継承されていく。


 ふと、ハティラが小さくため息をつくのが聞こえた。館の方を眺めるゴダの表情も、少し悲しげに見える。


「……現人神様は元気だよ」


 ラケは夫婦の心中を思って声をかけた。


 代を重ねて八代目。今の現人神ディヤは、この夫婦の一人娘だった。彼女は神の印を額に持って生まれた。そのため臍の緒も付いたまま、親元を離れて館に入ってしまったのだ。


 現人神様に、肉親が直接会うことは難しい。親族は、侍従や侍女の勤めも免じられている。だから、時々窓から顔を出すのを眺めるか、祭りの時にお目にかかるしかなかった。


 災いの病を患えば直に癒やしてもらえるが、あまりに危険すぎる。それに、現人神様のお手を煩わせることを、この夫婦は望まないだろう。

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