礫河を揺蕩う

狂フラフープ

 異教の女が仏を彫る。

 砂にまみれてたがねを叩く。無心に、夢中に、駆り立てられるように槌を振るって、そして時折神に祈る。

 目の前でなく、遥か西の偉大な神へ。


 この土地の名を私は知らない。

 生まれは陝西、乾県。山を越えればむらがあり、さらに越えれば大きなまちがあり、そのまた向こうには昔々に皇帝様のおわした西京みやこがある。

 出来の良い兄ならいざ知らず、私の認識などそんなもので、追い剥ぎに拐われ、人買いに売られ、何日も何月も連れ回され辿り着いたこの渇いた土地では、国の名も王の名もまるで耳に覚えはなかった。

 逃げ出せたのは幸運という他なく、人買いが私から目を離したのが、ここが到底生きては逃げ延びれぬ土地だからと知らなかったのは、不運という他ない。

 それでも最後に私は天運に恵まれたと言っていいだろう。こうして生きて、自分の運不運を振り返ることが出来ている。


 私を拾った女は、私とは違う神を奉じていた。

 顔を布で覆い、決して肌を見せることがない。

 若くはない。

 どうやら彼女もこの土地の生まれでなく、どこか遠い土地からの流れ者なのだと、少し経って私は理解した。彼女もまた同じように、かつて拾われたらしい。

 女を拾った者はもう居ない。ここには彼女と私だけが生きている。

 言葉は手振りを交えてどうにか通じる。

 見渡す限り渇いた大地の、岩場の陰に一家族がようやく食える程度の小さな水場があって、そこに女は麦を育てている。

 女は陽が昇るより早く起き出して、深い地下の水路から、汗を垂らして水を汲む。少量の冷たい水で喉を潤し、祈り、耕し、また祈る。また耕し、沈む陽に祈る。そして女は畑から離れた場所にある岩窟で、人の背丈の倍もある仏を彫る。

 有るか無きかの月明かりの下で、少しずつ。岩は硬く、容易には削れない。

 砂にまみれてたがねを叩く。

 生き物の気配のしないこの土地で、その音だけが夜に響く。



 彼女はいつ見ても働いている。

 痩せて渇いたこの土地では、ただ生きる道があまりに険しい。

 祈り、働き、また祈る。働き、働き、また祈る。

 こうして得たわずかな蓄えで彼女は私を救ったのだ。それを思えば、郷里では働き者とは呼べなかった私でも、身体が動けば働かずにはいられなかった。

 まだ若い私が疲れ果てて横になったその耳に、遠くからかすかに槌音が響く。

 祈り、働き、また祈る。働き、働き、また祈る。そしてわずかな時間、仏を彫る。

 繰り返し、また繰り返す。何も、何ひとつ劇的に変わりなどしない。

 祈り、働き、仏を彫る。

 それがこの土地にある営みのすべてだった。


 あなたの神は許すのかと、その背中に私は訊いたことがある。

 彼女は振り返らず、手を止めることもなく、けれど優しい声で答えた。

 罰は下っていない。

 これは墓標だ。あの人が、どうしても完成させたかったものだ。

 墓場を訪れる風習を持たぬ土地で育った彼女が、ここでは時折花を供える。花が無ければ枝を、枝が無ければ水を供える。

 彼女を拾った男の墓だ。

 男の妻は他に居て、彼女の夫もまた別に居た。

 彼女の神は夫を亡くした女が妻を持つ別の男に嫁ぐことを許していたが、日に幾度も妻の墓を訪れる男に、彼女は自分を娶れと言えなかった。

 老いて死んだ男の隣に、息子と妻が眠っている。

 老人は生前、日に幾度もこの墓に祈り、働き、そして仏を彫っていた。

 老人の亡骸は彼女が妻の隣に埋めた。

 だからこれは、わたしのためのあの人の墓だ。彼女はそう答え、また仏を彫った。

 彼女が臥せり、ひどく冷え込んだ朝に目覚めなかったのは四度目の冬のこと。



 老人の墓に少し離して、彼女を埋めた。

 私は変わらず水を汲み、麦を育て、そして時折墓を訪れるようになった。

 ひとりになって気付くことがある。

 働くこと。祈ること。この土地にある営みのすべて。

 この時間が、死ぬまで続くのだということ。

 大した言葉は交わさずとも、彼女の存在が自分の世界をどんなに大きく占めていたのか。

 陽が昇るより早く起き出し、井戸から水を汲んで畑を耕し、夜になれば眠る。彼女と過ごしていた時間は、祈りの時間になった。

 自分という人間が以前と変わったわけではない。神を信じるようになったわけでもない。ただ、神というものが身近になった気はした。

 人の集まりを介し、人の営みの外側に感じていた神様なるものは、間に挟む人間を失って、いまや自分の肌越しに感じるものになっていた。

 老人が死んでから、彼女はどれ程の歳月をひとりで過ごしたのだろう。

 彼女にとって、流れ着いた私の存在はいくらかでも救いになっただろうか。


 夢を見た。

 岩窟に響く槌音を耳にしながら、これは夢だと私は理解する。

 何故ならそれは私が見たことのない、あるはずのない光景だったからだ。槌を振るう老人と、それを見守る彼女。

 私が彼女と過ごした以上の歳月を、彼女は老人と過ごしたのだろう。

 彼女は老人を愛していたのだと思う。愛した人が死の床で完成を望んだそれを、彼女はひとり遺され跡を継いだ。

 墓標は未だ成らず、洞の奥でひっそりと佇んでいる。



 岩窟に月明かりが差し込んでいた。

 自然と足が向いたその場所は、いつかの夜と何もかも同じように見えた。

 岩は硬く、容易には削れない。重ねた歳月も跳ね返すような、冷たく硬い岩壁がものも言わず行く手を塞いでいる。

 仏を信じてはいない。

 目の前の仏は累代の父祖の祀った神でなく、その神の前でさえ、私は信心深い人間ではなかった。今でも違う。

 私が以前と変わったわけではない。

 ただ、この土地ではそれを強く感じる。この場所では自分がその一部であると理解できる。

 岩肌には彼女の刻んでいた見知らぬ紋様がある。異教の象徴であろうそれは複雑に精緻に、幾度も繰り返され、繰り返されては新たな模様を生み、また繰り返す。

 岩窟に差し込むわずかな光が、岩に刻まれた文様をほのかに浮かび上がらせる。

 紋様を辿るほどに、それは粗雑に、未熟なものへ変じていく。まるで彼女が、槌とたがねの扱いを苦労して覚えていく姿が目に浮かぶようだった。

 そして、手慣れぬたどたどしい彫跡の向こうに、彼女の刻む紋様よりかは馴染みを感じる模様が掘られている。これを彫ったのは、きっと彼女から聞いた老人だろう。

 だがそれで終わりではない。端正な鑿遣いは遡るほどに少しずつ稚拙になり、その向こうにまた美しい手筋が現れる。

 模様は繰り返され、繰り返されては新たな彫り手へと継がれ、また繰り返す。

 岩は硬く、容易には削れない。

 ここに重ねられた気の遠くなるような時間を、いくつもの生を、指で辿る。

 その岩の切り欠きが丸みを帯びる歳月を、幾代もの見知らぬ人たちが彫り続けてきた。彫り続け、生き続けてきたのだ。

 岩に刻まれる紋様と同じく、繰り返し、繰り返し。

 この土地にあるすべてのものがそうであったように、私もまた、そうやって生きて死ぬのだ。

 彼女が、老人が、見知らぬ人々が繰り返し、継いできたものを、この場所では目覚めたままに夢に見る。

 私もまた受け継いでいく。

 祈り、たがねを握る。

 生まれ育った土地のことを思う。父や母や、兄のことを思う。

 刃を岩肌に宛がい、槌を手に取る。

 老人のことを思う。老人の妻と子と、この土地で積み重ねられてきた時と命を思う。

 柄尻を叩く。

 彼女のことを思う。知らぬ土地を、知らぬ神を思う。 

 滑るたがねに力を込め、槌を振るう。

 砂粒のようなかすかな欠片が、たがねの先で跳ねてこぼれ落ちていく。

 私は何から続き、何へと続くのだろう。

 仏を彫る。

 無心に。夢中に。

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礫河を揺蕩う 狂フラフープ @berserkhoop

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