第16話 美知子の進路

「お昼になったから昼食をいただきましょうか」


黒田先輩に促されてダイニング・ルームへと移る。同じく輸入物の家具で飾られた部屋だ。中央の長めのテーブルの上には、既にガラス製のボウルが置かれており、その中に冷水にひたされた白く細い麺が入っていた。そばにガラス製の小さい器、市販のめんつゆに、薬味を盛った小皿が並んでいた。


「え?そうめんですか?」と私は聞いた。


「正確に言うとひやむぎね」と答える黒田先輩。「私が好きで、夏だけでなく春から秋にかけてよく食事に出してもらうの」


「前から疑問に思っていたけど、ひやむぎとそうめんの違いってなんだい?」と水上先輩が聞いた。


「小麦粉を練って作った生地を、うどんと同じように包丁で細く切ったのがひやむぎ、手で伸ばして細くしたのがそうめんよ」と博識な黒田先輩が教えてくれた。


「ただ、今は機械で製麺するから、ほとんど区別がつかないけどね」


ガラスボウルの中の白い麺の中に、ピンク色の麺と緑色の麺が一、二本混ざっていた。


「その色つきの麺が中に混ざっているのがひやむぎの目印よ」


私は気を利かせて、ボウルの中のひやむぎをガラス製の小さな器によそい始めた。


「明日香ちゃんにはピンクの麺を入れてあげる。黒田先輩は緑色の方でいいですか?」


「ありがとう、お姉様」「私はそれでいいわよ」


水上先輩に白い麺だけ入れると文句を言うかなと思ったが、特に何も言わなかった。


「昔は姉さんと色つきの麺を取り合って、よくけんかをしたわ。最後はいつも私が泣かされたけど」と明日香が感慨深げに言った。


「そうだったかな?」と水上先輩。「今はこだわらないから、明日香にあげるよ」


麺つゆをかけ、薬味を少量取ると、みんなですすり始めた。


もうじき六月だ。かなり気温は上がっているので、この時期でもひやむぎはとてもおいしく感じられた。


「おいしいです、黒田先輩。今の時期でも全然いけますね」


「そうでしょ?」我が意を得たりと満足そうな黒田先輩。


「私のことは『黒田先輩』じゃなく、名前で呼んでね。『先輩』も付けなくていいわ」


「は、はい。・・・祥子先輩、じゃない、祥子さん。これでいいですか?」私の言葉ににっこり微笑む祥子さん。


「ところで美知子くん、僕たちの漫才のスタイルは考えてくれたかい?」いきなり水上先輩が言った。


「杏子、当面受験勉強に専念する約束でしょ」と苦言を呈する黒田先輩。


「今は食事中だから、楽しいことを話題にしてもいいじゃないか?」


「わかりました」と私は水上先輩の一途さに負けて、話に乗ることにした。


「杏子先輩は見た目が美人ですから」中身が残念とは言わない。「それを生かしてちょっと不細工な相方を見つけるんです」


「美知子くんが不細工だといじるのかい?」


ごほんと咳ばらいをする。誰が不細工だ、誰が!?


「不細工な相方を不細工となじるとしゃれにならないんで、逆に相方を美人だとほめるんです。で、相方もその気になったふりをして、後は観客に勝手に笑ってもらうんです」


「なるほど。ほめ合えば僕たちは性格が悪いようには見えない。でも、観客が勝手に不細工な相方を笑うということか」


「相方には逆に杏子先輩に向かって、『あなたももう少し、私のように美人だったらね』とか言わせるんです」相方の方はいい笑いものになるけどね。


「ただ、不細工ネタだけじゃ続かないので、女の子らしいネタに続けるのはいかがでしょうか?・・・例えば、自分の父親が何々だとか」


「なるほど。・・・家の中ではだらしない父親も少なくないだろうな」


水上先輩が考え込んだ。


「本当に美知子さんは付き合いがいいわね」と祥子さんが感心した。


その時、さっきのお手伝いさんが再び現れて、手際よくひやむぎの容器類をかたづけると、代わりに白玉あんみつを置いた。ひやむぎだけではあっさりしすぎかな、と思っていた私には嬉しいデザートだった。


「おいしい」あんみつを口に入れて思わず笑みがこぼれる。


「美知子くん」と、また水上先輩が口を開いた。「今度、都内の大学の落研おちけんの下見に行こうよ」


落研おちけんじゃなく、大学の下見でしょ」


「さすがは美知子くんだ、すぐにツッコンでくるね。ボケをまかすのが惜しいほどだよ」


じゃあ、水上先輩抜きで、一人でボケとツッコミをしますか、と思ったが、もちろん口には出さない。


「都内の大学だと遠いじゃないですか。丸一日かかりますよ」


「ダブルボケに、ダブルツッコミというのも斬新かもしれない」水上先輩は私の言葉を聞いていなかった。水上先輩はポケットからメモ帳を取り出すと、何やら書き込み始める。ネタ帳なのかもしれない。


「明日香にはこれを貸してあげるわ」そう言って黒田先輩が傍らに置いてあった本を渡した。


「川端康成?こんな有名な作家の本なの?」


「少し古い本もあるけど、読んでみたら?」


明日香は二冊の古本を受け取った。タイトルは『乙女の港』(初版一九三八年)と『親友』(同一九五八年)だった。エス小説らしく、明日香はすぐに本をめくり始めた。確か川端康成はBL小説も書いていたはずだ。多才な作家だな、と感心する(作者註:『乙女の港』は川端康成と女弟子との共同執筆だと後年明らかになる)。


「美知子さん、ちょっと私の部屋に来てもらえない?」突然黒田先輩から誘われた。


私は明日香の方を見たが、本に夢中になっていた。


「大丈夫よ。取って食ったりしないから」そう言って私の手を引き、ダイニング・ルームを出た。


黒田先輩の部屋は美知子の家のお茶の間よりも広く、本棚や衣装ダンスなど、意匠のこった家具が並んでいた。勉強机も、厚い木材でできた立派なもので、その上にアール・ヌーヴォー風の電気スタンドやインク壷などが置かれていた。


さらに冊子が何冊か置いてあった。見ると、何校かの大学の受験案内だった。


「進学する大学を決められたんですか?」


「まだどこを受験するか決めてないから、情報を集めているの」


そう言って黒田先輩は一冊の冊子を手に取った。


「例えばこの秋花しゅうか女子大学は短大も併設してあってね、ここに私たちが進学すれば、いつでも会えるわ」


黒田先輩が冊子を手渡してくれた。


「前に秘書になったらって言ったでしょ。でも、秘書をめざす学科はどこの大学にも、短大にもまだないの。秘書に求められるのは教養と礼儀作法、特に適切な受け答えだからどの学科でもいいんだけど、企業や商社の秘書になりたいのなら、経済関係の学科がいいかもね」


私は冊子をめくった。秋花しゅうか女子短期大学には、英文学科と家政学科があった。


「短大は、栄養士や保母や教員の資格を取るために入学する人が多いかな。でも、短大を出ると、専攻科と関係なくどこの会社でも雇ってもらいやすいみたいね」


黒田先輩はいろいろ考えているんだなと感心した。私はとりあえず短大に行きたいと思っているだけで、何をしに入学して、卒後どこへ就職するかまでは、あまり考えたことがなかった。


「参考になります・・・」私は冊子を手に取ったまま茫然としていた。


その時、黒田先輩が両手を私の両肩に置いた。


「え?」見上げると、私よりやや背が高い黒田先輩が私の顔を間近で見つめていた。


「な、なんでしょうか?」


その時突然ドアが開いて、明日香が飛び込んで来た。


「いつのまにかいなくなったと思ったら、油断も隙もないわ!」


「明日香。・・・いいじゃない。私にも美知子さんをおすそ分けしてよ」


私は分けられません、と心の中でツッコむ。


「私がお姉様の本妻だから、愛人はお断りよ!」


「じゃあ、私は美知子さんの正室ということで」


「何よ、それ!」


「美知子くん、さっきの意見を参考にちょっとネタを書いてみたけど、どうかな!?」


水上先輩までが押しかけてきた。そして、三人が口々に自分の言いたいことを言い始めて騒然となってきた。


「だめだ、こりゃ」


結局その日はそれでお開きとなった。最後はともかく進学についていろいろ教えてくれた黒田先輩に頭を下げて黒田家を後にする。


「いいこと。学校で、祥子姉さんと二人っきりになっちゃだめよ」と明日香に注意される。


「はいはい」


「『はい』は一回でいいの!」また怒られる私。明日香に怒られても嫌な気がしないのは不思議だ。


その明日香は、黒田先輩に借りた二冊の本を大事そうに抱えていた。


「本を借りられて良かったわね」


「まあね。・・・最近はジュニア小説というのがはやってるんだけど、男の子との恋愛を描いたものが多くて、いま一つ物足りないのよ」


普通の女子中学生はそれで満足してるんじゃないだろうか?


「もう少し美知子くんと漫才の話を続けたかったな」と一緒に歩いていた水上先輩がぐちを言った。


「受験、頑張ってくださいね」くどくど言っても無駄だろうから、今はこれだけ言っておく。


「そうだ、さっき言ったけど、今度大学の下見に一緒に行こうよ」


「大学って、ここから遠いんじゃないですか?電車代かかるから一人で行ってくださいよ」


「電車代くらい出すからさ」


「でも、いつ行くんですか?松葉女子高が休みの時は、大学もたいがいお休みでしょう?」


「土曜日の午後なら、まだクラブ活動をしてるんじゃないか?」


「そうでしょうか?・・・それでどこの大学を回りたいんですか?」


「え〜とね」そう言って水上先輩は四つの大学名をあげた。


その中に、さっき黒田先輩から聞いた秋花しゅうか女子大学も含まれていた。


「女子大にも落語研究会はあるんですか?」


「女子大の落研おちけんってのは珍しいね。たいした活動はしてないかもね」


大学それぞれの住所を水上先輩に聞くと、都内と言ってもそこそこ離れているようだった。


「土曜日の午後だけじゃ、回りきれませんよ」


「そうだね。どこか近いところを二つくらい回ろうか」


「私もついて行こうかしら?」と明日香が言った。


「でも、大学の部室なんて、むさい男がたむろして、掃除もろくにしてなくて、汚らしいかもしれないわよ」


特に根拠はないが、明日香が行くにはふさわしくない気がした。


「それは嫌ね」


「僕は平気さ」と水上先輩が宣言した。そりゃあんたは平気だろう。


「とりあえず計画を立てておくから、また相談するよ」


「はあ・・・」


私自身は興味はないので、明日香に肩をすくめてみせた。


「姉さんが迷惑かけるわね」明日香がすまなそうに言った。

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