第3話 一色との出会い
藤野家にはお風呂がない。だから毎晩銭湯に通っている。
十二月に入ったある日の夜、私はいつものように銭湯に行って、その帰りに夜空を見上げた。北の空に北斗七星が大きく見える。
北斗七星は本当にひしゃくの形をしている。そしてひしゃくの柄の先端から二番目の星のそばに、小さい星が輝いているのが見えた。
「あ、あれは?」私の膝が震えた。あの星が見えたら死が近いと、何かの本で読んだことがあった。
私は一緒に歩いていた弟の武(小学五年生)に聞いた。「武、北斗七星が見えるでしょ?」
「見えるよ。ひしゃくの形をしている星座だろ?俺だって知ってる」
「じゃあ、柄の先端から二番目の星の近くに小さな星が見える?」
「よく見えるよ」
「そうなんだ・・・」
近いうちに武と一緒に事故に遭って・・・と嫌な想像が脳裏に浮かんだ。そんなことはないだろうと思うが、どうしても気になる。そこで翌日の放課後に私は学校の図書室に寄った。
図書室には、図書委員のほかには生徒が一人しかいなかった。その生徒はおさげ髪の小柄な子だった。別のクラスの子なので名前は知らないが、読書好きなのだろう。
私は星座や天体の本をいくつか書架から抜き取ると、テーブルの上に置いて北斗七星のあの星について何か書かれてないか探してみた。
一冊の本にあの小さな星の説明を見つけた。あの星はおおぐま座のアルコルという名の恒星で、昔は視力検査に利用されていたという。そのため、アルコルが見えなくなったら視力が落ちた、すなわち、衰弱したと判定されていたので、むしろ見えない方が良くないらしい。見えても特に問題はないようで、私はほっと胸をなで下ろした。
開いていた本を畳んで書架に戻そうとした時に、突然図書委員の子が叫んだ。
「ああっ、まただわ!なんでこうなるの?」
図書委員の叫び声に反応して、私と図書室にいた小柄な女子生徒が図書委員の方に駆け寄った。
「どうしたの、直子?」小柄な生徒が尋ねた。
「あ、一色さん。これを見て」
一色と呼ばれた子と私は、図書委員が指さした書架を見つめた。
最初は何がおかしいのかわからなかったが、よく見ると、何冊かの本が上下さかさまに書架に入れられていた。
「本がさかさまだね」と指摘する一色。
「誰かが適当に本を戻したんじゃないの?」と私は口をはさんだ。
「私も最初はそうだと思ったわ。だけど、本を直しても、次の日には同じ本が同じようにさかさまになっているの。一度や二度じゃないのよ。だから気味が悪くて」
「それは確かにミステリーだね。誰かが意図的にやってるんだ」
一色は私の方を向いた。
「君は誰かが本をさかさまに入れているところを見たことはないかい?」
妙な話し方をするやつだな、と思いつつ、私はかぶりを振った。「知らないわ」
「おっと、失礼。自己紹介がまだだったね。私は一年四組の一色千代子、探偵さ」
私は開いた口がふさがらなかった。何を言ってるんだ、このお子ちゃまは?
「一色さんは探偵小説が大好きなの。実際に頭がいい人よ。学年でいつも一位か二位の成績を取るほどだから」
ということは、喜子(山際喜子)といつも成績を競っているということか。・・・見た目は子供、頭脳は大人ってやつだな。
「私は一年二組の藤野です。私はもともとあまり本を読まないから、書架の様子は気にしたことがないの。・・・図書室に来る子はあまりいないみたいだから、誰がやったのか、あなたには見当がつくんじゃないの?」と私は図書委員に聞いた。
「図書室にいつも来る生徒は、図書委員を除くと一色さん、山際さんに、あと数人くらいだけど、誰がやったかまではわからないわ」と図書委員は答えた。
「この書架は図書委員の席からは死角になっているし、いつも注意しているわけじゃないから」
「まあ、それより、犯人がなぜこんなことを繰り返すのか、推理してみようよ」と一色が口をはさんだ。
「いたずらじゃないの?」と私は言った。
「いたずらだったら、いつも同じ本をさかさまにする必要はないじゃないか。適当な本を選べばいいんだから」
「じゃあ、何か特定の目的があるってこと?」
「そうだと思う。一種の暗号じゃないかな」
その言葉に私は息を飲んだ。そうだとすると、確かにこれはミステリーだ。
「暗号って、誰かが誰かに連絡しているってこと?」
「・・・連絡だとしたら、こんな面倒なことをする必要はないよ。あらかじめ決めておいた本にメモをはさむだけで事足りるからね」
「確かに・・・」
「それに毎回同じ本ってことが気になる。連絡なら、そのつどメッセージが変わるのが自然だからね。ある法則で本を選んでいるとしたら、メッセージが変われば選ぶ本が変わってもおかしくない」
変なやつと最初は思ったが、確かにこの一色って子は頭の回転が速いようだ。
「じゃあ、何のために?」
「それは暗号を解けば、
「いつもさかさまにされている本を、テーブルの上に並べてくれるかい?」
「わかったわ」
図書委員の子は、書架から何冊かの本を抜き出して、テーブルの上に並べた。
その本と著者は以下の通りだった。
小島政二郎『鴎外・荷風・万太郎』、チェーホフ『恐怖・くちづけ』、志賀直哉『城の崎にて・小僧の神様』、横山青娥『古典に現われた動植物』、田村魚菜『材料別料理事典』、石田一良『町人文化』、須藤克三『村の母親学級』、御手洗辰雄『山県有朋(三代宰相列伝)』、そして木島始『四つの蝕の物語』。
「全部で九冊か。本の内容に共通点はなさそうだね」
メモを取る一色。そして本を順番に手に取ると、ぱらぱらとページをめくってみた。
「中に手紙のようなものは入っていないようだ。図書カードに書かれている生徒の名前にも共通点はない。だとすると、書名のアナグラムかな?」
「アナグラム?」それは知っている。文字を並び替えて意味のある言葉を作るものだ。しかし答が一つに絞れない場合もありそうで、パズルとしては好きじゃない。
「まず、『鴎外・荷風・万太郎』の『お』、『恐怖・くちづけ』の『き』と、読みの最初の一文字を拾っていくと・・・」
一色はノートに「おききこざちむやよ」と書いた。
「これを並べ替えてみると・・・ああっ!」一色が叫んだ。「これは殺人予告だ!!」
「何ですって!?」ドラマ以外ではまず聞くことのない言葉に私は驚愕した。
「『おききこざちむやよ』を並べ替えると、『ちよこおやききざむ』となる。『お』を『何々を』の『を』とみなすと、『千代子を焼き刻む』だ。私に対する殺人予告だ!」
一色が興奮して叫んだ。どことなく喜んでいるようにも見える。
「いや、そんな!」私は反論した。「あなたを焼いて刻むなんて、あまりにも猟奇的すぎて、信じられないわ!」
「第一、誰があなたを殺すというのよ!?」図書委員も疑問を口にした。
「私がいなくなって喜ぶのは、いつも試験の成績で学年一位を競っている、二組の山際さんくらいかな」
「それこそありえないわ!」と私は叫んだ。
「喜子さんは、確かに学年一位を取ろうと試験勉強を頑張っているけれど、人を呪ったり、まして殺したりなんて、絶対にできない人よ!」
私の言葉を聞いて一色は考え込んだ。「確かに、女子生徒が殺人しようなんて、普通は考えないな。・・・山際さんが普通でないってことは?」
「ないわよ!」私はすぐに否定した。腐女子的な意味では普通ではないけれど。
「書名の最後の文字だと・・・。『うけまつんかうんり』か?『山県有朋(三代宰相列伝)』の最後の文字が、『山県有朋』の『も』だとすれば、『うけまつんかうもり』となる」
一色はしばらくメモを見つめていたが、やがて匙を投げた。
「意味をなさないな。じゃあ、著者名かな?」そう言って一色は置いてある本にもう一度目をやった。
「『小島政二郎』の『こ』、『チェーホフ』の『ち』、・・・。拾った文字は『こちしよたいすおき』か。・・・ああっ!」
一色がまた叫んだ。
「この文字を並べ替えると、『いしきちよこたおす』、つまり『一色千代子倒す』となる!これこそ犯行予告だ!」
「首席になりたいという、願かけかもしれないわ」と図書委員。
「どちらにしても犯人は、・・・やっぱり山際さん?」
「今度会ったら、問いただしてみようか」
一色と図書委員が相談している間、私は何か違和感を覚えて、一色のメモをじっとにらんだ。そしてすぐにあることに気がついた。
「待って、一色さん!」
「なんだい、藤野さん?」
「『山県有朋(三代宰相列伝)』の著者は、『おてあらい』じゃなくて『みたらい』よ!だから拾った文字は、『こちしよたいすみき』になるわよ!」
「ええっ?」と言って一色は自分のメモをにらんだ。
「だとしたら、『一色千代子たみす』?、『すみた』?、『みすた』?・・・ああっ、言葉にならない!」
愕然とする一色。まさか「御手洗」を「おてあらい」と読むとは・・・。読めるけど。
それにしても自分の名前が入ってない可能性はまったく考えないんだな。どれだけ自分が犯人のターゲットになりたいんだか。
謎を解き損ねてがっかりしている一色を見て、私はある可能性を思いついた。
「一色さん、まさか自作自演じゃないでしょうね?」
「ええっ?どういう意味?」
「探偵にあこがれているあなたが、自分の仕込んだ謎を自分で解いて、悦に入ろうとしたってことよ」
探偵が真犯人だったという推理小説がないわけじゃない。
「ま、まさか。・・・さすがにそんな面倒なことはしないよ」否定する一色。
自分で指摘したものの、私も本気でそう思っているわけじゃない。自分で仕込んだ謎を自慢げに解いたとしたら、あまりにも痛すぎる。
それに、図書委員が異変に気づいた時に、私のような観客がいるとは限らないし。
その後、一色はほかの可能性についても考えたが、はっきりした答は出せなかった。
著者名の最後の文字を拾っても意味ある文にはならなかったし、本の大きさ順とか、発行年順とか、考えれば考えるほど複雑になって、明快な答はとても出せそうになかった。
「悪かったよ、君のクラスの山際さんを疑って・・・」一色はとうとう自分の負けを認めて謝罪した。
「これからどうする?」と、一色は図書委員に聞いた。
「とりあえずこの本は、図書室の受付に積んでおくわ。それを犯人が見たら、気づかれたと思ってやめるかもしれないから」
その時、私は暗号のもう一つの解釈を思いついていた。
さかさまになっていた本の著者名の最初の文字、『こちしよたいすみき』は、『よしこみちたいすき』、すなわち『喜子、美知大好き』にも並べ替えることができる。もし、そうであれば、最近
『きすしたいよみちこ』、つまり『キスしたいよ、美知子』と並べ替えることもできるが、さすがにそれはないだろう・・・と思う。
一色には私の名前が美知子であることは言わなかった。だからそこまで考えが回らなかったのだろう。
もちろん私は自分の解釈に自信があるわけではないし、このいたずらの犯人が喜子であるとは限らない。そう思って、これ以上考えることをやめた。
翌日、教室で喜子に会った時に私は事件について話した。
「昨日、調べ物をするために図書室に行ったら、一部の本が書架にさかさまに戻されているって、図書委員が騒いでいたわ」
「そうなの?借りた人が雑に返したんじゃないの?」と答える喜子。
喜子は特に動揺した様子を見せなかったので、犯人であるとは思えなかった。
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