第2話 水上先輩
次は列の左側の十数人だ。そちらに指揮棒を向けると、最初の十数人の声に重なって、声量がさらに大きくなった。
そして右側の十数人にも指揮棒を向ける。さらに歌声が重なり、何とか練習の時のように歌うことができた。
一節を歌い終わると、ここで麗子の方に向いた。ピアノの前奏が始まる。伴奏に歌声が重なり、十分な出来の合唱になった、と私は確信した。
観客の評価なんてどうでもいい。きちんと歌い終わることを目指す。
合唱を無事歌い終わると私は観客の方を向き、ピアノの伴奏に合わせておじぎをする。ぱちぱちとそれなりの拍手が起こった。
水上杏子の方に目をやると、彼女もこっちを見て拍手をしていた。
幕が閉まると、クラスメイトたちが私のところに集まって来た。
「ありがとう、藤野さん!最初は声が出なかったけど、藤野さんが一緒に歌ってくれたおかげで歌えるようになったわ!」
「藤野さんを指揮者に推薦して、正解だったわ!私たちなんかより、よっぽど度胸があるのね!」
「いえ、みんなのお手柄よ」
私たちは互いにほめ合いながらカーディガンを羽織った。
しばらくして観客席に戻り、ほっとしながら床に座る。今日の仕事は終わった。そんな気がして、心地よい脱力感に包まれた。
その後は他のクラスの演し物を見続けた。合唱、合奏、演劇などがあったが、合唱でうちのクラスと曲目が同じところがなかったのでひと安心だ。
クラスの演し物がひととおり終わると、最後に合唱部が舞台に上がった。合唱部もあったんだ。
まず、校歌を歌い、そして「遠き山に日は落ちて(家路)」を合唱した。体育祭の終わりにもかかる名曲だけど、もう終わりという感じがして、切なくなる。
その後、私たちは教室に引き上げ、クラス展示(ハンカチの刺繍)の撤収を始めた。
その時、誰かが教室に入ってきた。一部の生徒が「きゃーっ」と歓声を上げる。何事かと振り返ってみたら、水上杏子が入口に立っていた。さっき体育館で一緒だった、取り巻きらしい女子生徒十人を引き連れている。
「二年の水上だけど、藤野さんって子、いる?」
「ふ、ふじのさあ〜ん」近くにいた女子生徒のうわずった声が響いた。
「はい」と答えて入口に向かい、「私が藤野ですが」と答えた。水上杏子の後で私をにらんでいる取り巻きの目が怖い。
「君が藤野さんか。さっき合唱で指揮をしてた子だね。なかなか良かったよ」
「そうですか、どうも」
水上先輩は近くで見ても美少女だったが、私は特に興味がわかなかった。
「僕は二年の
自分のことを「僕」と呼ぶのか。僕っ
「お名前は存じ上げています」・・・さっき聞いたばかりだけどね。
「そう、知ってくれてたんだ。嬉しいよ」
何だ、こいつ?私は眉間にしわを寄せていただろう。
「実は君に興味がわいてね、今度、相談に乗ってくれないかな?」
水上先輩は右手を私の肩の上に置いた。後方から「きゃー」という悲鳴が聞こえる。取り巻きの女子生徒たちの目がつり上がっている。私は無表情で水上先輩の手を肩からはらいのけた。
「相談?何でしょう?」
水上先輩は、おや、という表情を見せたが、すぐに微笑んだ。
「それはまた今度。・・・じゃあね、美知子くん」
水上先輩は私の下の名を馴れ馴れしく呼んで去って行った。取り巻きの女子生徒たちは私をにらんでから水上先輩の後を追って行く。
「藤野さん、水上先輩と知り合いだったの?」と聞くクラスメイト。
「いいえ、口をきいたのは今が初めて。何か相談があるって言ってたけど、具体的には何も言われなかったわ」
その時、喜子が真っ赤な顔をして私を見つめているのに気づいた。
「どうしたの、喜子さん?」
「まさか、水上先輩は藤野さんと『エス』になろうと考えているんじゃないでしょうね?」
「エス」とは女学校内で親密な先輩と後輩が
「ああ、自分じゃなくても、藤野さんと水上先輩が頬を寄せ合ったりしている姿を想像したら、興奮して失神しそうだわ」
喜子がBL好きなことは知っていたが、女性同性愛にも興味があったのか?
「そんなこと、絶対しないから!」と私は宣言しておいた。
水上先輩は二日後の放課後に再び教室にやって来た。今回は取り巻きを連れておらず、一人で来たようだ。
「やあ、美知子くん、久しぶり」
「二日しか経っていませんけどね。・・・今日はお一人ですか?」
「ああ、彼女らには先生に呼ばれていると言って、教室で待ってもらっている」
まあ、取り巻きがいない方が少しは気が楽だ。
「で、今日は君に相談があって来たんだ」
「先日も言われていましたね。何でしょうか?」
「来年の一月八日に僕の家で新年会をやる予定なんだが、その時に僕と一緒に漫才をしてもらえないかと思って」
「マンザイ!?」思いがけない話に私はすっとんきょうな声をあげてしまった。
「私は漫才なんてしたことありませんし、できませんよ!」
「それはこれから練習すればいいさ」
何を言ってるんだ、と私は思った。漫才をしたいなら、漫才好きの人を捜せばいいのに。
「ほかに人はいないのかって思っているのだろうが、男でも女でも、僕のそばに立つとぽーっとなっちゃって使い物にならないんだよ。その点君なら大丈夫そうだ」
「あ、ジュリエットさんはどうですか?
「あ、君はツッコミを知ってるんだね。さすがは僕が見込んだ子だ。・・・あのジュリエット役の子はあれで精一杯でね、漫才までさせるのは無理なんだよ」
「なんでそんなに漫才をしたいんですか?」
「こう見えて、僕は漫才が大好きなんだ。・・・もともと大阪生まれだしね」
「大阪?それにしては関西弁のなまりが全然ありませんけど」
「ま、まあね・・・。小さい頃に引っ越したからね。・・・とにかくっ!」
水上先輩は背中のセーラー服の内側から、原稿用紙の束を取り出し、私に押し付けた。生暖かくて気持ち悪い。
「これが台本なんだ。・・・一度読んでみてもらえないかな?」
「えっ、でも・・・」
「じゃあ、頼んだよ〜」そう言い残して、水上先輩は去っていった。
その日、家に帰ると預かってしまった漫才の台本を取り出した。
気乗りはしないが、目を通さないわけにもいかない。
原稿用紙を開くと二人の登場人物の会話が綴られていた。セリフの前に『杏』と書いてあるのは、水上先輩のボケ・パートだろう。そして『○』と書いてあるのが、ツッコミ・パートと思われた。
「○『どうもー、○でーす!』
杏『三波春夫でございます』」
私はすぐに台本を閉じた。どこかで聞いたことがある。パクリじゃないか?少なくとも私はこの台本で漫才をするのは耐えられないと思った。
しばらくして落ち着いてきたので、不本意ながらもう一度台本を開く。
「○『いやー。今朝もいい天気だねー』
杏『そうだねー』
○『あ、ニワトリが鳴いてる』
杏『コケコッコー』
○『スズメも鳴いてる』
杏『チュンチュン』
○『ツバメも鳴いてる』
杏『・・・・・・ツバツバ』
○『ツバメがそんな風に鳴くか!』杏をたたく」
・・・小学生向けの漫才かな?
「○『あ、松葉女子高の校門が見えてきたよ』
杏『美人ぞろいの女子高だね〜』
○『私に対する当てつけかー!』杏をたたく」
・・・私の自虐ネタか!
「杏『ごめん、ごめん。でも君にも人より優れているところがあるよ』
○『え、どこかなー?』
杏『足の裏』
○『見えるかー!』杏をたたく」
私は頭が痛くなった。確かにこの漫才は受けるだろう、水上先輩の取り巻きたちには。
しかし一般論としてこの漫才を聞いて笑う人は少ないだろう。相手をする私はいい笑い者になるが。その代わり、取り巻きたちの私に対する敵意は軽減するかもしれない。
我慢して続きを読んだが、最後までこんな調子だった。さっきは小学生向けの漫才かと思ったが、小学生でも笑えないような内容だ。
私は自分で漫才をする気はない。それでもこんな稚拙な台本をそのままにはしておけなかった。そこで私は新しい原稿用紙を開くと、そこに字を書き始めた。
「杏『どうもー!・・・一週間のご無沙汰でしたーっ』
○『
ちなみに
杏『ねえ○、今の総理大臣が誰か知ってるかい?』
○『え?誰でしたっけ?』
杏『佐藤B作だよ』
○『A作でしょっ!』杏をたたく」
正確には佐藤栄作だ。昭和三十九年から内閣総理大臣を務めている。
その後もしばらくしょうもない漫才台本を書いてみたが、自分にはまったく才能がないことに気づき、書くのをやめた。
翌朝、私は水上先輩がいる二年三組を訪れた。
「水上先輩、私にはこの漫才はできません」台本を突き返す。
「どうして?君なら絶対に受けるのに」
「私がいい笑い者になるだけです!」
「芸人なら、笑い者になってでも笑いを取らなくちゃ!」
「私は芸人じゃあありません!」
その時、水上先輩は自分で書いた台本以外に、原稿用紙が数枚混ざっているのに気がついた。
「これはなんだい?」
「あ、それはちが・・・」しまった。自分で書いてみた台本を一緒に通学鞄に入れていて、間違って渡してしまった。
「君が書いてくれた台本かい?・・・やっぱり僕の目に狂いはなかったよ!この台本に目を通しておくから、新年会では頼りにしているよ!」
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