11 事件のその後

「確かにな。複数人で協力して、あるいは手分けして犯行に及んだ方が合理的だな」と島本刑事も言った。


「・・・ほかの人たちのアリバイはあるんですか?」


「ほかの人たちと言うと、藤田先生と金丸先生のことかい?」


「はい。それに上野先生の可能性も否定できません。白神のノートの存在を知っていた人、という意味で」


「それが滝井先生が転落した六月二十八日は日曜日で、はっきりしたアリバイは誰にもなさそうなんだ。尾行を付けていたわけではないから、仙台まで日帰りで行くことは可能だ。しかし、ノートや変装用具からは滝井先生以外の人物の指紋は検出されなかった」と残念そうに言う島本刑事。


「上野先生は六月二十九日の月曜日には普通に出勤していたよ」と立花先生が言った。


「今のところ滝井先生と一緒にいた長髪の男が誰なのか、手がかりがまったくないという状況なんですね?」


「そう。一色さん、何か思いつかないかな?」


「今のところは何とも・・・」


「ところで、滝井先生の遺体の近くには自殺者を慰霊する石碑が建っていたよ。表面には、『柳橋自殺者慰霊碑 昭和四十一年五月二十七日 六道四生三界萬霊有無両縁精霊』と彫られていた」


「どういう意味ですか?」と聞いたが、島本刑事にはよくわからないようだった。


そこで立花先生が国語辞典を持って来て、意味を調べてくれた。


「いずれも仏教用語で、『六道ろくどう』は人々が輪廻を繰り返す六つの迷いの世界のことで、天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道がある。『四生ししょう』は生物の生まれ方の分類で、胎生・卵生・湿生・化生の四種類がある。『三界萬霊さんがいばんれい』は欲界・色界・無色界の三つの世界に存在するすべての精霊のことで、『有無両縁精霊うむりょうえんしょうりょう』もすべての精霊のことを指すようだね。要するに、あらゆる世界にいるすべての霊を慰めるという意味なんだろう」


「成仏をお祈りします」と私は締めくくった。




滝井先生と一緒にバスを降りた長髪の男の手がかりがつかめないまま、時が過ぎていった。


九月になって有田教授の後任の教授選考が始まったが、上野先生が警察に任意で取調べを受けたこと、有田教授の死に間接的に関与していた疑いがあることが、どこから漏れたのか噂になったので、上野先生は教授選に応募しなかった。それどころか、明応大学を退職する意向を大学側に伝えたそうだ。


「先生はこれからどうされるおつもりですか?」と立花先生が聞いたら、


「この際留学して来ようと思う」とだけ上野先生が言ったそうだ。


上野先生が大学を去った後、年末に後任の教授が決まった。大方の予想通り、東京都立医大の助教授の矢島先生が選ばれた。


矢島先生は教授赴任直前に女性医師を連れて明応大学法医学教室を訪れて、立花先生たち教室員に今後の予定を話したそうだ。


「上野先生が退職され、助教授の席が空いたので、立花先生を講師に昇進させようと思う」と矢島先生は言った。


「そ、そうですか?あ、ありがとうございます」と立花先生は頭を下げたそうだ。


「それからここにいる小嶋先生だが、彼女も講師として迎え入れることにした。同じ講師でも序列的には立花先生を上にするから、教室の取りまとめをよろしく頼む」


「わ、わかりました」と答えた立花先生。


「みなさんご存知だと思うけど、私は東京都立医大の助手の小嶋麻理子です。よろしく」と小嶋先生は言って、立花先生たちににかっと笑いかけた。


小嶋先生は立花先生と同い年で、男勝りな女傑だった。彫りの深い、人によっては美人と評されるような顔だちだが、目上の人に対しても男言葉でタメ口で話すので、一部の人からは煙たがられていた。どうやら東京都立医大の近藤教授が、小嶋先生を明応大学へ連れて行くようにと矢島先生に厳命したらしい。


私が法医学検査室を訪れた時に小嶋先生に話しかけられたことがある。


「あなたが立花先生の婚約者?ちっこくてかわいいわね」と。


「よ、よろしくお願いします」私は圧倒されて小声であいさつすることしかできなかった。




年が明けて昭和四十六年になり、矢島先生と小嶋先生も着任され、明応大学法医学教室の新体制が始まった。


そして春になり、兄が芙美子さんと結婚することになった。私は立花先生と結納のことについて話し合うために法医学検査室を訪れた。その時、立花先生が目の色を変えて私に迫って来た。


「い、一色さん!この論文を見てくれ!」立花先生が医学雑誌を私に見せてくれた。・・・が、ドイツ語で書かれているのでちんぷんかんぷんだった。


「これは何ですか?」


「これはドイツの法医学雑誌、ツァイトシュリフト・フューア・レヒツメディツィーンだよ。これに上野先生の論文・・・症例報告が載っているんだ!」


「論文ですか?」すべてドイツ語で書かれているので、私にはタイトルすら読めなかった。


「どういう内容ですか?」


「『法医学実験による連続殺人事件』というタイトルで、白神が起こした事件と、滝井先生が関与した事件の詳細が綴られているんだ!」


「え?あれらの事件の?」


「論文の中には犯人アーが一連の法医学の実験を考えたと書かれている。具体的には、

 一.絞殺死体の非定型縊頸(自殺)への偽装

 二.屍蠟化死体の人為的作成

 三.頸部切創(他殺)の自殺への偽装の可否

 四.縊死死体の解剖に要する時間の計測(切り裂きジャックへの挑戦)

 五.列車による轢断四肢の止血の検討

 六.凍死時の矛盾脱衣の再現実験

 七.焼死時のマスクによる煤吸引の遮断実験

 八.襟の上からの絞頸時の頸部圧迫痕の検討

 九.緊縛性ショックの人体を用いた実験

 十.硬膜外血腫の死後放火による燃焼血腫への偽装

 十一.空気塞栓症の致死量の人体実験

 十二.ペニシリン・ショックの再現実験

 十三.漂母皮化・蟬脱した手掌表皮を用いた指紋の偽造(未遂)

 十四.一卵性双生児の遺体切断による一遺体の隠蔽(未遂)

 十五.岩塩弾丸の体内での変化の検討(未遂)

 十六.遠心力による頭蓋内出血の発症実験(未遂)

の十六種類だ」


「十六種類ですか?白神は確か十五のためしと書き残していましたが・・・」


「谷底から発見された白神のノートにペニシリン・ショックの実験は記載されていなかった。それをあたかも白神が計画していたかのように追加したんじゃないかな?」


「一から八は白神が起こした事件内容ですね」と私はいいながら首元をさすった。


「九から十一までと、十二のペニシリン・ショックは去年起こった事件だね」


「十三は松江で起こった事件(第1章第35話参照)に似ていますが、白神の犯行だとはわかっていませんから、未遂扱いになっているんですね」


「十四は一卵性双生児の二人の遺体をばらばらにしてから混ぜ、ひとり分の遺体をどこかに隠蔽した際に、残った遺体が二人のものなのか、ひとりの遺体なのか、判別できるかという実験のようだよ。適当な双子を見つけるのは難しいから実行できなかったのだろう」


「十五の岩塩弾丸というのは、探偵小説で読んだことがあります。岩塩で作った弾丸で人を射った場合、弾丸が体内で溶けてしまうと言われていますが、本当にそうなるのか実験するつもりだったのでしょうか?」


「日本では銃器の所持が規制されているから、岩塩の弾丸を作り、実際に拳銃で射ってみるのはまず無理だろうね」


「十六の遠心力による頭蓋内出血の発症とは何のことでしょう?」


「脳の動脈硬化症か脳動脈瘤がある人の足を持って体を高速で振り回したら、血液が頭部に集まって出血を起こすかどうかという実験らしいけど、相当力が強い人でないと他人を振り回すことはできないだろう」


「ハンマー投げの選手でも難しいでしょうね」


「この論文ではもうひとりの犯人ベーが九から十二までの実験を行ったことになっている。十二は結城良平の犯行だけど、自分が関わったことを知られたくないから、犯人ベーの犯行としたのかな?」


「この論文を書いた上野先生は、白神のノートの内容を知っていたんですね?」


「谷底で発見されたノートは警察で保管され、上野先生は見ていないはずだけど、白神はノートを藤田、滝井、金丸先生に見せ、上野先生にも相談していたということだから、上野先生が知っていても不思議ではない。白神の犯行は逮捕後大々的に報道され、法医学者なら詳細を知っているから、一から九までの実験内容の説明は可能だろう」と立花先生が言った。


「ただ、緊縛性ショックの実験なんだが、上野先生は三人の被害者の緊縛時間を四時間、八時間、十二時間と具体的に記載しているんだ。ノートには緊縛時間は書かれていなかったから、上野先生がどういうつもりで書いたのかわからない」


「想像で適当に書いたのか、緊縛時間を知っていたか・・・」


「燃焼血腫の実験では、『ハンマーで殴って陥没骨折を起こしたことを、患部に手で触れて確認した』と書いている。硬膜外血腫は頭蓋骨骨折が生じた時に見られることが多いから妥当な手順だけど、そのこともノートには記載されていない。また、空気塞栓症の実験では『ひとりに二十ミリリットル、もうひとりに五十ミリリットルの空気を静脈注射した』と、これまたノートにない内容が論文に書いてあるんだ」


「これらの記述は事実なのでしょうか?」


「学術論文だからね、事実しか書けない。わからないなら『不明』と記さなくてはならないんだ。だから、上野先生が適当に想像で書いたとは考えにくい」


「だとしたら、滝井先生と上野先生が共犯だったと考えざるを得ませんね」


「そうだね。島本刑事にも上野先生を徹底的に捜査するよう伝えておこう」


「でも、今は外国にいるから、証拠が見つかっても逮捕できませんよね?」


「殺人罪の公訴時効は十五年だけど(註、昭和四十六年当時)、国外にいる間は時効が停止するから、十五年経っても日本に戻ったら逮捕することができるんだ。証拠が見つかれば、だけどね」


「上野先生はなぜ犯行の自白とも取れるような論文を公開したのでしょう?」


「外国で法医学者として名を上げるためかな?」


「白神も滝井先生も上野先生も、どうして人体を使った非道な実験ができるのでしょうか?」


「医学的真実を追究したいという思いはどの医学研究者も持っているけど、まともな神経を持っていたらそんなことはできないよね」


「でも、ナチスドイツや日本軍が戦争中に非道な人体実験をしていたと言われていますよね?」


「そう。そこでそのようなことが二度と起こらないように、一九四七年のニュルンベルグ裁判で、人を被験者とする医学実験に対する制約が制定されたんだ。これをニュルンベルグ綱領と呼び、一九六四年にはこれを修正したヘルシンキ宣言が世界医師会総会で採択された。新しい医療技術や薬は最終的には人体でその効果やリスクを確認しないといけないんだけど、その際に守るべき倫理的条件が定められているんだ」


「白神のノートに始まる一連の事件は、それに反したものだったんですね」


「そうだね」


「・・・先生はそんな実験には絶対に手を染めないでくださいね」と私が言うと、立花先生は笑い出した。


「もちろんだよ。これからも道に反した行為は行うつもりはないよ。一色さんと一緒に歩んでいく人生だからね」


「・・・」


その時、法医学検査室のドアを開けながらノックして島本刑事が入って来た。


「おっと、お邪魔だったかな?」


「島本刑事、からかわないでくださいよ。今、上野先生の関与について話していたところなんです」


「上野先生?」と島本刑事が聞き返したので、立花先生が私に話した内容を説明した。


「・・・そうか、上野先生が。・・・滝井先生が自殺した日の上野先生の足取りはとうとう確認できなかった。街中をぶらぶら歩いていたと言っていたけど、知り合いには会わなかったと言うし、目撃証言も出なかった。もっと厳しく尋問すべきだったのかもしれないが、日頃お世話になっていたしなあ」と島本刑事は残念そうに言った。


「それはともかく、また二人に相談に乗ってもらいたい事件があるんだ」


「何でしょうか?」


「実はビルの屋上で腐乱死体が見つかった。死後一週間以上経った男性の死体で、隣のビルの屋上にいた人が発見して通報した」


「誰かがビルの屋上に迷い込んで亡くなったのでしょうか?」


「ところがそのビルの屋上は閉鎖されていて、誰も行けないようになっていた。俺たちはビルの外壁に長い梯子をかけて何とか屋上に出たんだが、その死体がどうやって屋上に来たのか、痕跡がまったくなくてわからないんだ」


「とりあえず、死因から教えてもらおうか」と立花先生が言って、私たちは島本刑事の話をいつものように聞き始めた。


<第6章完>

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