10 解明した事実

それからさらに一週間以上経ったある日、私は立花先生と兵頭前部長を介して島本刑事にいつもの小料理屋に呼び出された。今回は立花先生も一緒だ。


「一色さんに頼まれていた捜査の結果が出たよ」と乾杯の後で島本刑事が話し出した。


「睡眠薬やペニシリンの在庫の確認の件ですね?」


「そう。順番に説明しよう。藤田先生が在籍する総合病院の薬剤部からは、睡眠薬やペニシリンの在庫は減っていないとの回答があった。藤田先生が個人で処方箋を書いて処方薬局から睡眠薬を個人的に買ったという形跡もなさそうだ」


「仕事も忙しそうでしたね。ストレス解消に実験を、という余裕もなかったのでしょうか?」


「そのようだな。週に三日は当直があって、夜は帰って寝るだけという生活が続いていたそうだ」


「臨床医は若いうちは大変そうだ。給料も低いしね」と立花先生が人ごとのように言った。


「そして仙台薬科大学中毒学教室に問い合わせた結果だが、実験用試薬のジアゼパム二百五十ミリグラムの瓶が空になっていたそうだ」


「実験用試薬?」


「うん。一般的な医薬品ではなく、化学分析実験や動物実験などに使う試薬で、粉末状になっている。ジアゼパムなどのベンゾ・・・ベンゾジアゼピン系の睡眠薬を使う実験はここ数年しておらず、かつて実験で使用していた先生がまだ残っているはずなのにと不審がっていた。純粋な薬品だから溶液状にすれば何人も眠らせることができるほどの量らしい」


「その溶液を被害者が飲んでいたお酒にこっそり混ぜたのでしょうか?」


「その試薬瓶は取り寄せて、既に指紋を検査済みだ。新しい指紋が多く、実験で使っていた先生の指紋とは異なっていた。おそらく滝井先生のだろう。任意で取調べをしようと考えている。自宅などから変装用のかつらとサングラスが発見されれば犯人確定だな」


「滝井先生がジアゼパムの試薬を使い切ったとして、試薬がなくなったのをごまかすために買い直したりはしなかったのでしょうか?」


「ジアゼパムの試薬は調べたら一本一万円以上するんだ」と立花先生。


「そんな高価な試薬、教授に無断で講座費や研究費で購入できないよ。お金を持っていたとしても個人では購入できない代物だしね」


「ペニシリンはなくなっていましたか?」


「中毒学教室にはペニシリンの在庫は元々なかったそうだ。今まで研究で使ったことはないらしい」


「やはりペニシリンを注射したのは少なくとも滝井先生ではありませんね」


「そうだな。とにかく、ジアゼパムを酒に混ぜられて実験された日に滝井先生が埼玉県の実家に帰ってなかったか聞き込みに行ってもらっている」と島本刑事。


「該当する日に実家に寄っていればアリバイが崩れるから、滝井先生には任意での取調べをする予定なんだ。・・・そして東京都立医大法医学教室だが、こちらはジアゼパムもペニシリンも教室には昔からなかったそうだ」


「そうですか。となると、金丸先生もこれらの薬物の入手は難しそうですね。おそらくご自分では処方箋は書かないでしょうから」


「そして我が明応大学法医学教室だけど」と立花先生が口をはさんだ。


「過去の注文伝票を調べたところジアゼパムの購入履歴はなかったし、研究室内の薬品棚にも見当たらなかった。ペニシリンの注射液は十年ほど前に購入した記録があった。ただし研究室内をくまなく調べてみたけど、在庫は見つからなかったよ」


「十年前の研究で使い切ったか、あるいは上野先生が結城良平に渡したか、ですね」


「上野先生が関与していたとして、どのように証明すればいいのか?直接聞いても、しらを切られればそれまでなんだが」と島本刑事。


「それはやっぱり、結城良平から聞き出すしかないでしょうね」と私は答えた。


「結城良平を追いつめる証拠とかあるのかい?」と立花先生が聞いた。


「証拠はありませんが、上野先生に会ってペニシリンを入手したことはわかっている、天の配剤に委ねたことも、とかまをかければ自白するかもしれません」


「上野先生が供述したていを装うんだな?それに有田教授が襲われた現場にはペニシリンの容器も注射器も落ちていなかった。自宅を捜索すれば出てくるかもしれん」と島本刑事も言った。


「ついでに結城良平と奥さんの血液型を検査し直したらいかがでしょうか?」


「なぜだい?」


「意外と自分の血液型を誤って覚えている人がけっこういますから。いつも献血している人なら間違いないでしょうが」


「わかった。容疑を否認するようなら、血液型を確認させてほしいと言ってみよう。実の親子でなくても犯人とは断定できないが、揺さぶりをかけてみることができるかもしれない」と島本刑事が言った。




そして半月後、私は立花先生に法医学検査室に呼び出され、事件のその後の展開を聞いた。島本刑事も同席している。


「先日島本刑事に同行して結城良平と結城聡子の採血を行い、血液型を検査したんだ」


「それでどうでしたか?」


「結城良平はAB型、結城聡子はO型だった。亡くなった結城航平はB型だったから、この血液型では親子鑑定は否定されない」


「有田教授は結城良平の血液型がA型だと誤解していたんですね?」


「結城良平は衛生兵の見習い時代、訓練所で自分たちの血液型を調べたことがあったらしい。その時はA型と判定したので、妻にそう言っていたようだ。息子の航平の血液型は出生時に検査していたが、妻の聡子は夫に内緒にしていたようだ。しかし有田教授にはこっそり話していたのだろう」


「昔の血液型判定が間違っていたのですね?」


「そうだね。検査時のミスか、あるいは抗B血清の抗体価が落ちていて、正確な検査ができなかったんだろう。戦時中だったしね。・・・ついでに関係者のほかの血液型も検査してみたんだ」


「どうでしたか?」


「結城良平の血清蛋白型のうち、ハプトグロビン型は2-1型、トランスフェリン型はC1型、GC型は1F-1S型だった。ちなみにGC型というのはグループスペシフィックコンポーネント型の略称さ。そして結城聡子は順に2型、C2-1型、1F型だった。息子の結城航平の血液型は解剖時にABO式血液型だけを調べていたけど、今回は三種類の血清蛋白型を調べ直した。血清は凍結保存しておけるからね。その結果は2-1型、C1型、1F型だった。否定される血液型はなかったけど、父権肯定確率は89%で、これだけでは真の父子か断定できなかった」


「それだと有田教授が父親である可能性は否定されないのですね?」


「いや。僕が法医学教室に入ってまもなくの頃、血清蛋白型の検査を練習していた時に、有田教授と上野先生から血液をもらって調べたことがあるんだ。有田教授はGC型が2−1S型で結城航平の父親である可能性は否定的だ。上野先生はハプトグロビン型が2型で、同じく父親である可能性は否定的だった。一種類の血液型の食い違いだけでは突然変異の可能性があるから、父親ではないと断言できないけどね」


「完璧には証明できなかったけど、少なくとも結城良平が航平の父親ではないとは言い切れなかったんですね。・・・それでどうなりました?」


「立花先生と一緒に検査結果を結城良平に伝えたら脱力してへたり込んでいた。最初はペニシリン注射による有田教授の殺害を否認していたけど、その結果を聞いて観念したようで、赤羽の二人と有田教授にペニシリンを投与したことを認めたよ。自宅から残りのペニシリンと使用済みの注射器も押収された」と島本刑事が言った。


「上野先生は関与していなかったのですか?」


「上野先生から息子の血液型を聞いた時、結城良平は息子が自分の子じゃない、有田教授の子じゃないかと嘆いたそうだ。上野先生は最初はそんな証拠はどこにもないと言っていたけど、結城良平の興奮がなかなか治まらなかったので、一色さんが推理したように天の配剤に委ねる手段もあると教えたらしい」


「そうでしたか・・・」


「例としてペニシリン・ショックの話をし、近くの引き出しを開けてペニシリンの注射液の現物を見せてもらったと結城良平は言っている。そこで帰る時にその引き出しからペニシリンを取って帰ったそうだ」


「上野先生がそうするよう指示したのですか?」


「結城良平は明言しなかったので、上野先生に直接聞いた。上野先生は結城良平にペニシリン・ショックの話をしたことは認めたが、気を落ち着かせるための方便で、本当に実行するとは思わなかったと言っている。ペニシリンの注射液がなくなったのに気づいたのは有田教授が亡くなった後で、結城良平を疑ったけど、自分が関与していると思われたくなくて言い出せなかったと供述した」


「その話を島本刑事はどう思われましたか?」


「上野先生が結城良平に有田教授殺害をそそのかした、とまでは証明できないから、殺人教唆の罪には問えないだろうな」


「そうですか・・・」


「それから仙台薬科大の滝井先生のことだけど、緊縛性ショック、燃焼血腫、空気塞栓症の実験が行われた日のほとんどで埼玉県の実家に寄っていたことが確認できた。ところが実家に問い合わせたことが滝井先生に伝わったのか、聞き込みの翌日、六月二十六日のことだけど、滝井先生は大学を早退し、翌日は欠勤した。そして六月二十九日に遺体となって発見された」と島本刑事が衝撃の事実を教えてくれた。


「えっ!?亡くなられたのですか?」


「そう。遺体は仙台市郊外の橋の下の渓谷で発見された。渓谷から橋までの高さは七十メートルもあって、陸羽医科大学で司法解剖されたけど、死因は転落して頭部を強打したことによる脳挫滅で、死亡推定時刻は遺体発見の前日と鑑定された」


「溺死ではなかったんですね?」


「実際に見に行ったけど、川自体は水量が少なくて、小石だらけの河原が広がっているような渓谷だったよ」と島本刑事。


「自殺でしょうか?」


「遺書は残されていなかったが、遺体のそばに両足の革靴と白神のノートとかつらとサングラスが落ちていた。例の、法医学の実験計画を記したノートと変装用具だよ。ノートには白神や滝井先生が行った法医学の実験が書き連ねてあったけど、ペニシリン・ショックについては書いてなかった」


「ノートや変装用具を捨てたのは、犯行の自供と遺書のつもりだったのかな?」と立花先生が聞いた。


「それが妙なことに、遺体発見の前日にバスから橋のたもとにあるバス停に二人の乗客が降りているんだ」


「二人、ですか?」


「うん。その橋は昔から自殺の名所として知られていて、近くに人家はないので、バスから降りる乗客を運転手が横目で観察していた。ひとりは人相から滝井先生のようだったが、もうひとりは長髪でサングラスをしていた・・・」


「それは、変装していたんじゃないですか!?」


「そうだと思う。そして滝井先生は橋から転落し、長髪の男はどこかへ消えてしまった。・・・滝井先生が自殺なのか誤って転落したのか、あるいは長髪の男に突き落とされたのか、また、ノートを捨てたのが滝井先生か長髪の男か、何もわからない」


「両足の革靴が脱げていたというのは妙ですね」


「どういう意味だい?」


「自殺目的で崖などから転落する人は、よく靴を脱いで揃えてから飛び降りると聞きます。靴を脱がない人もいるかもしれませんが、その場合は靴は履いたままで死んでいるのではないでしょうか?」


「谷底に落ちた時の衝撃で脱げたかもしれないよ」と立花先生が言った。


「頭部を打撲している、つまり真っ逆さまになって頭から落ちたんですよね。その場合、靴には強い衝撃は加わりません。よほどぶかぶかの靴でも履いていない限り、足に履いたままか、せいぜい脱げかけている状態になるだけなんじゃないでしょうか?」


「じゃあ、靴が脱げていたのはどういう状況が考えられるんだい?」


「橋には当然欄干がありますよね?」


「うん。改修工事の際に自殺防止の目的で高さ一・二メートルの欄干が取り付けられている」


「こういう状況が考えられます。滝井先生は長髪の男に白神のノートを谷底に投げ捨てるように言いました。その理由として、『もし自殺者が出れば、その人に罪をなすり付けられるかもしれないぞ』とでも言ったのでしょうか?その言葉に従って滝井先生が谷底をのぞき込みながらノートを投げ捨てた時に、長髪の男が後から両腕で滝井先生の両足をつかんで持ち上げ、橋から落としたんです。両足を両腕でしっかりとつかんでいたので、革靴が長髪の男の腕か脇に引っかかり、落ちる前に脱げたんです」


「つまり他殺なのか!?・・・それもひとつの可能性かもしれないが、滝井先生が靴を脱いでから飛び降り自殺をした後に、そばにいた長髪の男が靴を投げ捨てたのかもしれないぞ。その理由は、バス通りの橋の脇に靴が脱ぎ揃えてあったなら、すぐに自殺が疑われて調べられる。遺体の発見を遅らせるための工作かもしれないぞ」と島本刑事。


「長髪の男が一連の事件の主犯か共犯かわかりませんが、滝井先生にすべての責任を負わせ、悔いて自殺したと思われる方が好都合でしょう。それに時間がかかれば遺体の腐敗が発生して、身元確認に時間がかかります。遺体の発見を遅らせるメリットはありません」と私は言った。


「そうか。・・・そうだな。宮城県警には他殺の疑いが濃厚だと言って、捜査を続けてもらおう」


「前から思っていたのですが、首都圏で起こった一連の事件は、一晩で二、三人の被害者を出しています。単独犯でも可能かもしれませんが、共犯者がいて手伝っていたと考える方が納得できます」

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