第6章 法医学実験連続殺人事件の再開

1 縛られた浮浪者

昭和四十五年五月十四日の木曜日に、いつものように明応大学文学部の講義を終えた私、一色千代子はミステリ研究会の部室に寄った。すると兵頭前部長が来ていて、私の顔を見るなり、


「今日も一樹兄さんが法医学検査室に来てくれないかってさ」と言ってきた。


「わかりました。すぐに行きます。・・・兵頭先輩はそれを伝えるためにわざわざ部室まで来てくれたのですか?」と私は聞き返した。


三月までミステリ研の部長だった兵頭先輩は、四年生になった今は卒論や就職活動の準備で忙しいはずだ。最近は部室に顔を出す頻度が少しずつ減ってきている。わざわざ来てくれたのは嬉しいが、ご足労をかけて恐縮する。


「一樹兄さんって、先日法医学教室を見学させてくれた立花先生のことですね?」と部室にいた久米須磨子くめすまこさんが聞き返した。


久米さんはこの四月に明応大学文学部に入学し、ミステリ研に入部してくれた後輩だ。


「そして一色先輩の婚約者なんですね?」と、同じく新入部員の北田典子きただのりこさんが聞いてきた。


「そうだよ」と答える兵頭先輩。


「一樹兄さんは僕の従兄だから、そのよしみでミステリ研部員の見学を頼んでいるんだ。来年は僕はいないから、一色さんに見学の引率を頼むよ」


「はい。わかりました」と私は答えた。典子さんが言ったように私は医学部法医学教室の助手の立花一樹先生の婚約者だ。いつのまにかそういうことになってしまった。


「僕は今度、司法解剖を見せてもらおうかな」と、同じく新入部員の北田教雄きただのりお君が言った。


北田典子きただのりこさんと北田教雄きただのりお君は双子の姉弟で、二人とも医学部に入学している。いずれ医学部で解剖実習を受けるから、私と違って司法解剖を平気で見れるようになるんだろうな、と私は思った。


「しかし典子のりこ教雄のりおか。漢字は違うけど、耳で聞くとよく似ているから混乱しそうだな」と兵頭先輩。


「そうなんです。だから山城部長たちと相談して、典子のりこさんときょう君って呼ぶことになったんです」と久米さんが言った。


「僕は小さい頃からきょうと親に呼ばれてきたので、そっちの方が馴染みがあります」ときょう君こと教雄のりお君が言った。


「今年も新入部員が三人入ってよかったよ」と兵頭先輩。


ちなみに現在の部員は、四年生の兵頭 崇ひょうどうたかし先輩と美波凪子みなみなぎこ先輩(文学部)、三年生の山城 譲やましろゆずる部長(理学部)と田辺凛子たなべりんこ副部長(法学部)、二年生の私と神田一郎かんだいちろう君(商学部)と仲野蝶子なかのちょうこさん(文学部)、そして一年生の久米さん(文学部)と北田姉弟(医学部)だ。


「ねえ、森村誠一の『高層の死角』を読んだ?」と久米さんが北田姉弟に聞いた。


「私はまだよ」と典子さん。


「僕は今、大藪春彦の『蘇える金狼』を読んでるんだ」と教君。


「ハードボイルド小説ね?じゃあ、『マルタの鷹』なんかも読んだの?」と久米さんが教君に聞いた。


「もちろんだよ」と答える教君。「興味があるなら今度貸すよ」


三人の話を聞いて私も探偵小説談義に加わりたかったが、立花先生が待っているということなので、みんなにあいさつをして部室を出た。


その足で医学部の基礎研究棟の中の法医学検査室を訪れると、中で立花先生と警視庁の島本刑事が待っていた。


「お、来たな、一色さん。今日も相談に乗ってくれ」と私に言う島本刑事。最近はたびたび捜査中の事件について説明してくれる。


私と立花先生はその話の中の疑問点に対して見解を述べるが、素人探偵である私の話でも捜査の参考となるらしく、よくこうして会いに来てくれた。


「じゃあ、いつもの小料理屋に行こう」と私たちを誘う島本刑事。


三人で医学部棟を出て、いつも行っている小料理屋に入る。そして狭い個室に案内されると、島本刑事がさっそく飲み物と料理を注文し始めた。


「一色さんは二十歳になったんだろ?今夜はビールを飲むかい?」と聞く島本刑事。


「いえ、お酒はまだ飲んだことがないので、いつものジュースでお願いします」と私は断った。


「一色さんが酔っぱらうと、いつもの推理が聞けなくなるぞ」と島本刑事を諭す立花先生。


「そうか。じゃあ、事件の相談をしない日にお酒を勧めるよ」と島本刑事は引き下がった。


仲居さんが飲み物と突き出しを持って来る。さっそく乾杯をして島本刑事が一気にコップのビールをのどに流し込むと、すぐに本題に入ってきた。


「実は五月十二日火曜日の朝に浮浪者が公園内で意識を失って倒れているのを巡邏じゅんら中の警官が発見した。息絶え絶えだったのですぐに救急車を呼んだ」


「助かったのですか?」と私は聞いた。


「ああ。命に別条ない。その浮浪者の症状は顔面蒼白、脈拍減弱、呼吸減弱で、下肢がむくんでいて、血液検査をすると腎不全の所見が得られたそうだ。とりあえずカンフル注射と輸液をして様子を見たところ、徐々に回復して退院できるようになった」


「それはよかったですね」


「ただ、妙なことに、その浮浪者の左の太ももに荒縄で強く絞められた痕があった」


「両足の太ももを縛って拘束されていたということですか?」


「いや、左の太ももだけだった。絞め痕を中心に太ももが腫れていたから、相当強く縛られていたらしい」


「左の太ももだけを縛られていたのなら、歩けないということはありませんね?手も縛られていたのですか?」


「いや、手にも体にも縛った痕はなかった。左の太ももだけなんだ」


「太ももを縄のようなもので強く縛るとどうなりますか?」と私は立花先生に聞いた。


「血管が閉塞するほど強く縛られたら足先に血が行かなくなる。その状態が続くと足先の組織が壊死を起こして、放置すると腐ってくるから、足を切断しなくてはならなくなるだろうね」


「その浮浪者の足は壊死までは起こしてなかったそうだ」と島本刑事が言った。


「問題は、警官がその浮浪者を発見した時には足に何も巻かれていなかったということなんだ」


「腫れるほど強く縛っておいてから、それをはずしたの?何のためでしょうか?」


「警官が回復した浮浪者に話を聞いたところ、倒れていた日の前夜かその前の日だったか、公園内のその浮浪者のねぐらに日本酒の一升瓶が置かれていたそうだ。中には日本酒がたくさん残っていて、仲間の浮浪者二人とともに飲み始めた。そのうち酔いが回ったのか三人とも寝てしまい、気づいたら既に昼頃になっていた。妙なことに、三人が寝ていたのは酒盛りをしていた場所ではなく、公園の公衆便所の裏手だった」


「場所が変わっていたのは妙ですね。第三者の介入が疑われます」


「そうだな。・・・その浮浪者は二人を起こして、それぞれのねぐらに帰ったそうだ。その浮浪者は左足に違和感を感じていたが、二日酔いの影響だろうと思って特に気にはしなかった。しかし帰る途中で息苦しくなって意識を失った。・・・本人は左の太ももを縛られた記憶はないと言っている」


「ほかにはけがはなかったんですね?倒れたのは、持病が悪化したからでしょうか?」


「その浮浪者は五十代だったけど、持病はないと言っていた。もっとも健康診断など受けていなかったから、あてにならないけどね」


「立花先生はどう考えますか?」と考え込んでいる風の立花先生に尋ねた。


「話を聞いただけじゃ確かなことは言えないけど、緊縛性ショックを起こしていたんじゃないかな?」と立花先生は言った。


「緊縛性ショック?それは何なんですか?」と私は聞き返した。


「体や手足を何時間かきつく縛られると、その縛めを解いた時点では何の異常もないんだけど、数時間以上経つと具合が悪くなって、ひどい時には二日以内に死亡してしまうことがある。この現象を緊縛性ショックと呼ぶんだ。全身を強く打撲した後にも同じように急変することがあって、これらを外傷性ショック、または二次性ショックと呼んでいる。緊縛性ショックは二次性ショックの一種だと言える」


「解放された時には異常がないのに、その後具合が悪くなるのはなぜですか?」


「打撲や緊縛で筋肉細胞が潰れると、細胞内のカリウムやミオグロビンという蛋白質が血液中に出てくる。ミオグロビンは腎臓を障害して急性腎不全、つまり尿毒症を起こすし、血中のカリウム濃度が高くなると、急性心不全を起こしてしまうんだ」


「一定時間強く縛られただけで死んでしまうことがあるんですね?」


「そう。ショックの程度が軽ければ回復する。ただ妙なのは、なぜ左の太ももだけを縛ったかなんだ。まるで緊縛性ショックの再現実験をしているようだ」


「再現実験?」


「うん。緊縛性ショックが起こるメカニズムはまだよくわかっていないから、実験動物の片足を縛ってショックが起こるかどうか、起こった場合は体内でどのような変化が起こっているかを調べる実験を行った研究者がいるんだ。その実験と同じようだな、と考えていたんだ」


「島本刑事、ほかの二人の浮浪者は無事なんですか?」


「それは確認していないが、なぜ気になるんだい?」と島本刑事が私に聞いた。


「立花先生の説明を聞いて、また誰かが他人を使って法医学の実験をしているんじゃないかと考えたんです。ひょっとしたらその二人も太ももを縛られていたのかもしれません」


「な、なるほど。すぐにその二人のねぐらを聞いて、安否を確認させよう!」


「島本刑事、白神柏人しらかみはくとは逃げ出したりしてませんよね?」


去年、全国を股にかけた連続殺人・死体損壊事件があった。その犯人の白神は他大学の法医学教室の解剖技師だった男で、十五種類の法医学の人体実験をしようと画策していた。その途中で私たちが犯行を暴いたのだけど、私も殺されそうになった(第3章参照)。


「白神の裁判はまだ結審していないが、逃げ出したという報告は聞いていない」と答える島本刑事。


「白神のようなやつがまだいると言うのかい?」と立花先生が私に聞いた。


「それはわかりません」としか私は答えられなかった。


翌日、夕方になると私はまたミステリ研に寄った。今日は兵頭部長はいなかったが、久米さんと北田姉弟と神田君が来ていた。


「やあ、一色さん」と神田君が私の顔を見るなり話しかけてきた。


「昨日、また立花先生に呼ばれたんだってね。事件かい?それともただのデートだったのかな?」


「・・・デートじゃなかったけど」と私は答えた。顔が赤くなっていたかもしれない。


その時、部室のドアが開いて立花先生が顔を出した。


「た、立花先生?」私は驚いた。立花先生がミステリ研の部室にやって来ることは滅多になかったからだ。


「立花先生、こんにちは!」とあいさつする新入部員たち。


「やあ、みんな、久しぶりだね」と立花先生は三人+神田君にあいさつすると、すぐに私の方を向いた。


「島本刑事が来て、話があるって言ってるよ」


「刑事さんが一色先輩に会いに来たんですか?」と驚く久米さん。


「一色先輩はほんとうに女子大生探偵なんですね」と典子さんが感心して言った。


「おもしろそうだな。僕もついて行こうかな」と教君。


「本物の事件なら、私たちは邪魔になるだけよ」と典子さんが弟に注意した。


「僕も将来法医学者になろうかな?・・・『刺青殺人事件』の探偵役の神津恭介も確か法医学者だったよね?」


「法医学に興味があるならいつでも来てくれ」と立花先生。


「残念ながら今日は用があるけどね」


立花先生に連れられていつもの小料理屋に行くと、既に島本刑事が来ていた。


「昨日の件で、浮浪者の友人二人の行方を捜したんだ」ビールをすすりながら話し始める島本刑事。


「どうでしたか?」


「ひとりは自分のねぐらに帰って普通に過ごしていた。体に異常はなかったそうだけど、あの浮浪者と同じように左足の太ももに縛られた痕があった。かさぶたになっていたよ。身柄を確保して、今日、有田教授にてもらった」


「縛られた時の記憶はあったのですか?」


「いや、最初の浮浪者と同様、酒を飲んで眠ってしまっていて、なぜこんな痕がついているのかまったく心当たりがないそうだ」


「もうひとりは?」


「ねぐらで死亡しているのが発見された。左足がぱんぱんに腫れていて、同じように太ももに絞めた痕があった。明日司法解剖を行う予定だ」


「亡くなっていたのですか!?」と私は驚いた。


「ああ。執刀は有田教授だ。さらに最初の浮浪者の太もももてもらって、三人の絞め痕を比較してもらう予定なんだ。もう少し何かがわかるかも知れない」


「誰かが白神のように法医学の実験をしたんじゃないかという可能性もね」と立花先生が言って、私は息を飲んだ。

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