第27話 横浜の妖怪(打越橋の怪)(2)

翌朝、昨日と同じ朝食を食べ終わると、坂田さんと三谷さんとの三人でホテルを出た。行き先は山下公園のそばにある横浜マリンタワーだ。


またぶらぶらと山下公園まで歩いたが、今日は素通りしてマリンタワーに行った。下から見上げるとかなり高く感じる。まだ十時前だが、既に開館していた。


入口前の出札口で入場券を買う。百円だった。これで展望台まで上がれるし、三階にある海洋科学博物館も見学できるらしい。もらったパンフレットを見ると、マリンタワーの地上からの高さは百六メートルで、ビルの三十三階に相当する高さ(百一・二メートル)に灯台があり、二十九階と三十階が展望台、四階が食堂、三階が海洋科学博物館、二階が売店、一階が無料休憩室だそうだ。


展望台には二階からエレベーターで上がるが、階段でも登れるそうだ。階段からの眺めもいいらしいが遠慮する。


一階の無料休憩室に入ると奥の方にトイレが並んでいた。念のため用をすませて、外階段から二階に上がる。二階の売店には横浜港見学記念のおみやげが並んでいたが、とりあえずスルーして展望台に上がるエレベーターを待つ行列に並んだ。


エレベーターに乗る前に入場券から半券をもぎ取られる。観光客が多いのでエレベーターも満員だ。展望エレベーターになっているようだが、窓側には近づけなかった。


エレベーターは展望台二階(三十階)まで上がり、外に出ると周囲の三百六十度がガラス張りになっていた。窓ガラスに沿って有料の観光望遠鏡が何台も並んでいる。


観光客が多いので人と人の間から港の方を眺める。眼下には山下公園が広がり、その向こうに海、つまり港が広がっていた。氷川丸も見える。


しばらく見てから山側に回る。今日は天気が良いせいか、西の方に富士山が見えた。しかし三谷さんは富士山にはかまわず、「私の家は多分あの辺」と言って北西方向を指さした。どこなのかまったく見当がつかなかったが。


三谷さんは自宅方面を向いている観光望遠鏡に十円を入れ、のぞき込んで自宅を探し始めた。私と坂田さんも望遠鏡をのぞこうと探したが、港側は観光客が多く、望遠鏡の順番は回ってきそうになかった。


しばらくすると望遠鏡を見終わった三谷さんが私たちの方に戻って来た。眺望はそれなりに満足したので、階段で展望台一階(二十九階)に下りる。ここは展望台二階とほぼ同じ作りだった。


「どうする?」と二人に聞く。


「景色は堪能したから下に降りようか」と坂田さん。三谷さんもうなずいたので、下りエレベーターの入口に行った。こちらも行列ができている。


しばらくしてようやくエレベーターに乗れ、四階の食堂階で降ろされた。昼食にはまだ早いので食堂はスルーし(開いてなかったかもしれない)、三階の海洋科学博物館に下りた。


入口で入場券の半券をまた取られ、博物館の中に入る。中には、外壁沿いに時計回りに展示室が並んでいた。


まず第一室が「海洋・気象」をテーマに気象測定機や南極の石などを展示していた。隣の第二室は「水産・漁業」をテーマに養殖や製塩法などを、第三室には「水産・漁業」として捕鯨船や蟹工船などを、第四室は「海運」として練習船の大成丸や客船の鎌倉丸の模型を、それぞれ展示していた。


内壁側(エレベーターの周囲)にはロンドンや香港など、世界の港のパノラマ模型などが展示されている。


第四室の隣の第五室には「航海」をテーマに実物大の船橋(ブリッジ)が設置されていた。続く第六室には「造船・船舶」をテーマに造船所の全景模型や貨物船の模型などが展示されている。


階段の裏手に当たる第七室は「港湾」をテーマに、パナマ運河や横浜港、港湾施設の電動模型が並べてあった。


これらの模型を興味なさそうに眺める坂田さんと三谷さん。どの展示もよくできてはいるが、私にとってもあまり興味がない内容だった。


一通り見終わると、出口から出て階段を下りる。二階は売店だ。いろいろなおみやげを売っていて目移りする。最終的に私は絵葉書だけ買うことにした。坂田さんも一緒に買ったが、三谷さんは地元なので何も買わなかった。


マリンタワーを制覇したというちょっとした満足感を覚えてタワーを出る。もうそろそろお昼で、日は高く昇っていた。


「これからどうする?お昼を食べに行く?」と二人に聞く。


「そうねえ。また中華街の方に行く?」と坂田さん。


「また中華料理?今度は洋食でも食べましょうよ」と三谷さんが言った。


「どこかいいお店があるの?」と聞く坂田さん。


「昨日、中華街から帰る途中に大衆的な洋食屋があって、目をつけておいたの」


「じゃあ、そこへ行きましょうか。案内よろしくね」と私は三谷さんに頼んだ。


山下公園から少し歩いた路地にその店があった。表に出されているメニューを見ると、カレーライスやチキンライスなどがリーズナブルな値段で提供されていた。


入口のドアを開けて中に入る。テーブルが開いていたので三人で座った。水が入ったコップがすぐに私たちの前に出された。


「何にする?」メニューを開いて二人に聞く。


「私はランチのエビフライセット」「じゃあ私はミックスフライセット」と二人がメニューを決めた。


「私はハヤシライスにするわ」と私は言ってウエイトレスに注文した。


料理が来るのを待つ間に三谷さんが私たちに話しかけた。


「今日はマリンタワーを見るのが最初の目的だったけど、この後はどうするの?」


「また山下公園に戻って外国人を捜すの?」と坂田さんが私を見て聞いた。


「特に考えはないけど」と私が言うと、


「だったらちょっと行ってみたいところがあるの」と三谷さんが身を乗り出した。


「どこなの?」


「昨日、坂田さんから藤野さんが不思議な現象を解き明かしたって話を聞いたから、以前聞いたことのある噂を確かめたくて・・・」


「それでどこなのよ?」と促す坂田さん。


「打越橋よ」


「打越橋?・・・どこにあるの?」


「ここから南へ二・五キロくらい行ったところよ。戦前に丘を切り通して市電が通る道を作った際に、その上をまたがるように作った橋なの。とても眺めがいいわよ」


「眺めがいい?マリンタワーみたいに?」


「そこまでじゃないけどね」


「で、その橋に何があるの?」


「そこは自殺の名所で、幽霊が出るって言われているの」


「幽霊?」私を見る坂田さん。


「二つ質問があるんだけど」と私は三谷さんに言った。


「自殺の名所って言うけど、市電が通る道でほんとうに自殺が多発しているの?それから、昼間に行っても幽霊は出て来ないんじゃないの?」


「落ち着いているわね、藤野さん」と坂田さんが感心していた。以前は怖い話が苦手だったけど、なぜか短大に進学してからあまり怖いとは思わなくなっていた。柴崎さんに一寸法師の話を聞いたときもそうだったが、いつの間にか神経が図太くなったのかな?


「実際に自殺があったというニュースを聞いたことはないわ。でも、高校の同級生がそう噂していたの。・・・それに幽霊を見たいわけじゃないの。と言うか、見たくないし。ただ噂の場所を見ておきたいって思っただけよ」


「三谷さんもミーハーね」と坂田さんがあきれた。「でも、一見の価値はありそう」


「いいわよ。そこへ行きましょう」と私も同意した。会話相手になるような外国人とは出会えないかもしれないが。


食事が終わると洋食屋を出て南に進み、牌楼パイロウ門の前を通り過ぎて西の橋というところに到着した。地図を見ながら川に沿って西に歩き、車橋を渡って市電が走っている緩い坂道を登り始めた。


しばらく歩くと前方の道の上に赤く塗られた立派なアーチ橋が見えてきた。高さは十五メートル近くありそうだ。


「あれが打越橋よ」と三谷さん。


「なかなか立派な橋ね。あそこまで登ってみましょう」


地図で確認すると今いる道の右端に打越の霊泉と呼ばれている湧き水がある。その位置から打越橋のたもとまで細い登り道が続いていた。


「上がってみましょう」と二人を誘い、坂道を登る。最初は余裕だったが、段々息が切れてきた。


もうすぐ頂上、というところで道が右に曲がり、橋に通じる道路までもう少し歩かなければならなかった。


ようやく登り切って打越橋の上に進む。確かに眺めがいい。マリンタワーほどではないが、まっすぐ北の方角が見える。あのあたりに桜木町駅がありそうだ。・・・あんな遠くまで歩いて帰らなくてはならないのか?考えただけでげんなりする。


橋の両脇には高さ約一メートルの手すりがある。手すりの上から下を走る道路を見下ろすと、吸い込まれそうな感覚に襲われた。


「あ、見て!」と三谷さんが叫んだ.指さす方を見ると、橋の中央あたりの、北側の手すりの中程に銅板が接着されている。その銅板に次の文字が刻まれていた。


『すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのもとにきなさい.あなたがたを休ませてあげよう イエス.キリストは云われた 横浜市中區山手町・・・共立聖書學院』


「何なの、この碑文!?」と眉間にしわを寄せる坂田さん。


「この『わたし』ってキリスト、つまり神様のことね?(註一参照)まるで苦しんでいる人は私のいる天国に来なさい、つまり死になさいって言ってるみたい。自殺を誘っているのかしら?」と三谷さんも言った。


「そんなことあるわけないわ。キリスト教は自殺を禁じているのよ」と私は反論した。


「じゃあ、どういう意味?」と聞き返す坂田さん。


「聖書学院の人が作った碑文なら、聖書の言葉を引用してるんじゃないかしら?私は聖書に詳しくないからはっきり言えないけど」


「ホテルによく聖書が置いてあるじゃない?(註二参照)桜木町グランドホテルにもあるかもよ」


「そうね。誰かメモできる?」と聞いたら三谷さんが手帳を出して書き写した。


地図を見ると打越橋から東へ少し歩いたところに共立聖書学院がある。二人を誘って校門前まで行ったが、夏休みなので学院には人がいないようだった.


その近くの住宅の玄関先で植木鉢に水をかけている中年女性を見つけたので、話を聞いて見ることにした。ちなみに日本人で、英会話できそうな相手ではない。


「すみません、ちょっとよろしいでしょうか?」と話しかける。


「何ですか?」と中年女性が私たちの方に顔を向けて聞き返した。


「打越橋の中程に共立聖書学院の碑文がありますけど、あれがいつからあるのかご存知ですか?」


「知らないねえ。あたしは十年ほど前にここに越してきたけど、そのときはもうあったかしら?何年も気がつかなかったからねえ」


「共立聖書学院って歴史のありそうな学校ですね?」


「そうらしいね。近所の人に聞いた話だと、明治時代にできた女子の神学校らしいけど、十二年くらい前に今の校名に変わったらしいねえ」


「ところで、打越橋って自殺がよくあるんですか?」と坂田さんが直球で聞いた。


「よしてくれよ!」即座に否定する女性。


「そういう噂があるのは知ってるけど、私が越してからは誰かが身を投げて死んだって話は聞かないよ」


「じゃあ、幽霊が出るって噂は?」


「幽霊なんて見たことないよ!変な噂を広めないでおくれ!近所に住む者には迷惑なだけの話だよ!」


「す、すみません!教えていただきありがとうございました」私たちはお礼を言ってその場をそそくさと離れた。


「怒られちゃったね」と舌を出す坂田さん。「そろそろ帰る?」


「そうね。でも歩き疲れたわ。・・・橋の下を市電が通っていたから、あれに乗って帰ろうか?」


打越橋のこちら側のたもとにも細い下り道があり、私たちが登ってきた道とは反対側に下っていた。地図で確かめると、下りた先に山元町の電停があるらしい。


坂を下りたところにある三叉路を右に曲がると、山元町電停がすぐそこにあった。ここが始点で、停車している電車があったので、すぐに乗った。


中に車掌さんがいたので、「この電車は桜木町駅前に行きますか?」と聞くと、


「桜木町駅前には行きません。乗り帰るなら日の出町一丁目で六系統か六・八系統に乗り換えてください。乗り換えずに桜木町駅まで歩いて行くなら、野毛坂の方が近いと思いますよ。・・・運賃は二十円です」と教えてくれた。


「わかりました。ありがとうございます」とお礼を言って座席に座る。


「野毛坂電停の近くに野毛山動物園があるわよ」と三谷さんが教えてくれた。


市電は初めて乗ったので興味深かった。しかし車が多く、信号が赤だと停まらないといけないので、あまり速くはなかった。それでも疲れた足を休められて良かった。


乗り換えはせず、野毛坂電停で降車して、すぐ近くのホテルまで歩いて帰る。


夕食までまだ時間があったので、部屋に入って聖書を探した。すぐに見つけて目次を開く。・・・けっこうページ数が多かった。最初のマタイによる福音書だけざっと目を通して、例の碑文の文章がなかったらあきらめよう。


マタイによる福音書はイエス・キリストの人生を綴っていて、物語風でおもしろかった。イエスの有名な御言葉もいくつも載っている。「心の貧しい人々は幸いである。天国は彼らのものである」「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」「求めよ、さらば与えられん」などである。


そして探していた文章はわりとすぐに見つかった。



★横浜市電路線図(昭和四十四年八月時点:本作に関係する路線のみ)


横浜駅前→桜木町駅前→元町→本牧三溪園前→本牧三溪園終点

      ↑

野毛坂←←日の出町一丁目←(打越橋)←山元町


山元町電停を始点(終点)とする横浜市電三系統は昭和四十六年三月の廃止までワンマン化されず、最後まで車掌が乗車していた。



註一.三位一体説では父(神)と子(キリスト)と聖霊は同じ唯一神の異なる姿であるとされる。


註二.1950年から国際ギデオン協会が日本のホテルや旅館、大学などに聖書の贈呈を始めた。

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