第2話 トイレで消えた女子生徒

ある日一色は、「学校の七不思議のひとつを調べていた」と私に言った。


「どの不思議?」


「中庭にトイレがあるのを知ってるよね?」


「いつも利用してるよ」


中庭にある女子トイレは、中庭の中央を南北に通って北校舎と南校舎を繋ぐ渡り廊下の途中から横に分岐したところにある、独立した一階建ての家屋だった。木造で、屋根は瓦葺きだ。床はコンクリート製だ。


個室内の便器は和式便器で木製の蓋が乗せられている。水洗ではなく汲取式で、蓋を取ると便器の中央に奈落の底に通じるような穴があり、その中は暗闇だった。そしてその暗闇から何とも言えない悪臭が漂ってくる。


「そのトイレに入った女子生徒がいつまでも出て来ず、神隠しじゃないかという噂があって、それを調べていたのさ」と一色。


「七不思議と言っても本当にあったことかわからないだろ?そこで、松葉女子高の卒業生である私の母に、そういうことを聞いたことがあるのかと聞いてみたんだ。・・・そしたら、母が知ってたんだ」


「ええっ?事実なの?」


「母の同級生の女の子が、ある日から学校に来なくなって、その前の日に、先生たちの目の前であのトイレに入ったまま、いなくなってしまったことがあったって。・・・そのいなくなった女子生徒は吉田という名字だったそうだ」


私はトイレを調べに行くと言う一色について歩き出した。


「私の母の記憶によると、吉田さんという生徒はとてもきれいな人だったらしい。そのせいか、高校在学中に恋人ができたらしいんだが、当然親や学校は猛反対さ」


「そうだろうね」一色の母親と同い年なら、その事件が起こったのは昭和二十四年頃だ。今でもそうだが、当時の親は今以上に娘の自由恋愛に寛容ではなかったことだろう。


「そして駆け落ちを計画していたことがばれて、先生につかまったんだけど、その生徒が『トイレに行かせてくれ』と頼んで、中庭のトイレに入ったんだ。


 ほかに逃げ場のない中庭のトイレだからね、先生はトイレの中までついて行かず、校舎の方から見てたそうだ。でも、いつまで経ってもトイレから出てこないんで、先生が捜しに行ったら、トイレには誰もいなかったらしい」


中庭のトイレに行くには、北校舎と南校舎をつなぐ渡り廊下から曲がる。すぐそばにいなくても、逃げ場は北校舎と南校舎の出入口だけだから、逃げようとすればすぐにわかる。


「じゃあ、どうしてその生徒は消えたの?」


「それを現場に行って確認するのさ」


私は一色とともに中庭のトイレの入口に近づいた。このトイレには出入口は一つしかない。空気を取り入れるための窓には格子がはめ込んであって、人の体は通らない。便器の穴から便槽に入って逃げるという可能性は、考えるだけでおぞましいが、便器の穴は小さくて、小柄な一色でも無理だろう。


「見てごらん」一色が地面を指差した。


トイレの入口前の左右の地面に直径十センチくらいの切り株があった。


「昔はトイレの入口の前に木が生えていて、トイレに入る女子生徒の姿を隠してたんだ」


「それで?」


「この木陰に隠れて、トイレの中に入らず、トイレの建物の横へ移動することは可能だったろう」


そう言ってトイレの右側に進んで行く一色。私も後を追う。


「でも、中庭から出ようとすれば、渡り廊下に続く校舎の出入口に入らないといけないから、トイレの陰に隠れても逃げられないわよ」


トイレの右側の地面はセメントで固められ、そこに丸い鉄のふたが並んでいた。


「汲取式のトイレは、地下の便槽に便をためる。そしてこの汲取口からバキュームカーで汚物を吸い取るんだけど、バキュームカーが入って来れない中庭ではどうしてると思う?」


バキュームカーはトラック並みの大きさだ。四方を校舎に囲まれた中庭には、確かに入って来れなかった。


「校舎の外からホースを伸ばして、校舎を通り抜けるしかないわよね」


「そう。バキュームカーが入れるのは、学校の正門側か、グラウンドの方だけだ。でも、正門にバキュームカーが止まって、昇降口からホースを入れるのは体裁が悪い」


「グラウンド側の西校舎に、中庭への出入口はなかったと思うけど」


「そうかな?」


私たちはトイレの汲取口からさらに西校舎の方に歩いた。そこにも木が何本か生えている。西校舎の壁には人の出入口はなかったが、一メートル四方の木枠があり、中が板で塞がれていた。


一色が中の板を持ち上げるように力を入れると、蓋のように取りはずすことができた。


木枠の中をのぞくと、ちょうど西校舎の通用門の向い側だった。


「ここがホースの通し口だろう。屈めば私たちでも通れるね」


「じゃあ、その女子生徒はここから逃げて駆け落ちしたと・・・」


「そう。女子高生が駆け落ちしたなんて、学校にとっても親にとっても醜聞だし、再発をうながさないように生徒たちには内緒にしたんだろう。


 ただ、女子生徒が失踪した時の騒動を当時の生徒たちが見聞きしていて、あの七不思議の一つが作られたんじゃないかな」




後日、その吉田という女性が私の後輩の母親であることが判明した。そして後輩に真相を確かめてもらったところ、当時はまだバキュームカーがなく、肥桶にひしゃくで汚物をくみ取っていたらしい。残念ながら、一色の推理ははずれていたようだった。


実際は、セーラー服の下に体操服を着ていて、トイレの中でセーラー服を脱ぎ、部活をしていた友だち数人に体操服姿でトイレに来てもらうよう事前に頼んでいて、友だちに紛れて北校舎の出入り口から出て行ったということだった。


謎といっても実際は単純なものだな、と私は思った。




さらに後日、私が二年生になった時に美術の時間に校内で写生を行った。一色も一緒だった。その時、クラスの友人が花壇の中に小さな銅像を見つけた。右手にリンゴを持っている女性の像だった。


「あれはポーモーナの像だよ。」別の事件(本章第6話に後述)でその像について知っていた私は友人たちに教えた。


「ポーモーナ?」「誰、それ?」「よく知ってるわね」


ポーモーナのことを教えてくれた一色が隣にいるので、自分の知識のように話すことはできなかった。


「一色さんに聞いたんだけど、ローマ神話に出て来る果樹栽培の女神様なんだって」


「へー、女神様も果樹園で働くのね」と、友人のひとりが変なところに感心した。


「でも、ここは農業高校じゃないんだけど」とツッコむ別の友人。


「えーとね、確か、独身時代は言い寄ってくる男を相手にしなくて、果樹栽培に重要な季節の神様と結婚したって話よ。・・・そうよね、一色さん?」


「だいたい合ってるかな」と一色。


「要するに、独身時代に男遊びをしなくて、玉の輿に乗ったってところかしら?」と友人のひとりが言った。


「身持ちが悪いといいところの嫁にはなれないって戒めなのね」と納得する友人たち。


「説明を聞かないと意味がまったくわからなかったわ。まだ二宮金次郎の方がわかりやすいわね。仕事をしながら勉強してるもの」


「誰がそんな無名のりんご女神の像をここに建てたのかしら?」


「それは聞いてないけど・・・」と私が言うと、


「像の土台部分に、何か書かれているかもしれないよ」と一色が指摘した。


私たちは写生の手を止めて、ぞろぞろとポーモーナの像を見に近づいて行った。


土台の前には『豊穣の女神ポーモーナ』とだけ刻んであるプレートがつけてあった。


「確かにポーモーナの像と書いてあるわ。でも、誰が何のために建てたのかまではわからないわね」


「後側に何かあるのかな?」そう言って一色が花壇の中に入って行った。草花をふんではいけないので、私たちは入らなかった。


「英語で何か書いてあるよ」と一色が言った。


「なんて書いてあるの?」


「読み上げるよ。『Pomona the Roman Goddess of Fruit Abundance, donated by Daijiro Yoshida. 12/20/1949.』と書いてある」


「えーと、訳すと?」


「『果樹豊作の女神ポーモーナ、吉田大二郎寄贈、一九四九年十二月二十日』だね」


「吉田さんって人が学校に寄贈したことだけ書いてあるのね。・・・一九四九年って昭和何年?」


「昭和二十四年よ」


「十八年前か・・・。その頃何かあったのかな?」と私がつぶやくと、


「あ、あったじゃないか、女子生徒失踪事件!」と一色が叫んだ。


「そうだわ!確か名前は・・・」


「吉田だよ」


「なに、なに?」一斉に聞きたがる友人たち。


「えっとね、昭和二十四年頃に吉田さんって女子生徒が駆け落ちしたの」


「駆け落ち?」きゃあきゃあと騒ぐ友人たち。駆け落ちの是非はともかく、そういう恋バナが大好きなのだ。


「じゃあ、ここに書いてある吉田大二郎って、女子生徒のお父さんかしら?」


「そうかも。・・・学校に騒動を起こしたおわびと女子生徒への戒めを兼ねて、この像を寄付したのかもしれない。ただ、ことがことだけに、おおっぴらに寄贈理由は宣伝できなかったんだろうね」と一色が言った。

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