第35話 立花家へあいさつに行く

私は今日、立花先生と一緒に立花家へと向かう電車に乗っていた。先生のご両親に私たちが交際することになったと伝えに行くためだ。


もちろん婚約とかは、することになるとしてもまだ先の話だ。気軽にあいさつするだけ、と考えている。


「先生の実家には今まで二回行きましたけど、謎解きを依頼されないのは初めてですね」と私は隣の席に座っている立花先生に言った。


「そうだね。一色さんにはいろいろお世話になったね。でも、今日は謎解きがないから、気楽に両親に会ってね」と、立花先生が微笑みながら言った。


目的地の駅に着き、馴染みになってきた道を歩いて立花家に向かう。まもなく診療所に併設されている自宅の玄関に到着した。


「ただいま」と言って玄関に入る立花先生。「おや、来客かな?」


立花先生の言葉を聞いて玄関に揃えられた靴を見ると、男性用と女性用の革靴が並んでいた。


その横に靴を脱いで上がると、立花先生の母親が出迎えてくれた。


「一色さん、いらっしゃい。よく来てくれたわね」


「おじゃまします」と頭を下げる。


「誰か来てるのかい、母さん?」と聞く立花先生。


「ちょうど節子さんのご両親がお見えなのよ」と母親が答えた。


「お取り込み中でしたか?」と聞くと、


「いいえ、大丈夫よ。一色さんのことも話題にしていたわ」と言われて面食らった。


「こちらへどうぞ」と促されて、立花先生と一緒に応接間に入ると、ソファーに中年の男女が座っていた。この方たちが節子さんのご両親なのだろう。


「おじさん、おばさん、お久しぶりです」とあいさつする立花先生。


「おお、一樹君か。元気そうだな」と節子さんの父親が答えた。


「そちらの方がお噂の一色さんなの?」と節子さんの母親が私を見て尋ねてきたので、


「はい。一色千代子と申します。よろしくお願いします」と頭を下げた。


「節子がいろいろお世話になったと聞いているわ。ありがとうね」と節子さんの母親が微笑んで言った。


私たちは持って来た荷物を応接間の傍らに置いて、促されるままに反対側の椅子に腰かけると、節子さんがお茶を運んできた。


「お茶をどうぞ、一樹さん、千代子さん」


「ありがとうございます」節子さんにお礼を言って見上げると、節子さんはとても仕合せそうな顔をしていた。


「もうじき正樹も帰ってくるから、今日はみんなでお食事に行きましょう。近くのお座敷を予約しているからね」と立花先生の母親が言った。


その後立花先生が簡単に近況を話し、私のことも紹介してくれた。


「すると一樹君の結婚は一色さんが大学を卒業してからかな?」と節子さんの父親。


「もう少し早く、一樹さんが二十代のうちに結婚した方が良くない?」と節子さんの母親が言った。


確かに私が卒業するまで待たせると、立花先生は三十歳になってしまう。・・・いえ、まだ結婚すると決まったわけじゃないけど。


「そうねえ。この際一色さんは学生結婚したら?」と立花先生の母親も言った。


「そ、その辺はまた考えておくから!」と立花先生がその話題を終わらせようとする。先生、頑張って。


「ところで、法医学者である一樹君に聞きたいことがあるんだが」と節子さんの父親が立花先生に話しかけた。


「何でしょうか?」


「実は松江にひっこして間もなく、近所に住んでいる錦織にしこおりさんという人と親しくなったんだ。その人は私と同い年くらいの人で、大学生の息子さんがいるんだが、その息子さんが半月ほど前に、何の前触れもなく家に帰って来なくなり、そのまま行方知らずになったんだ」


「それは心配でしょうね」


「息子さんがいなくなってから十日ほど経った日の夜中に、突然激しく玄関のドアをノックする音が聞こえたそうだ。叩き起こされた錦織にしこおりさんが何ごとかと思ってドアを開けたが、そこには誰もいなかったらしい」


「それは不穏ですね。誰かのいたずらでしょうか?」


「ところが翌朝起きて玄関ドアを外から見たら、血の手形が付いていたそうだ」


「血の手形ですか?もちろんすぐに警察に届けたんでしょう?」


「うむ。錦織にしこおりさんは近所の交番の警察官を呼んでドアに付いた手形を見せるとともに、十日前から息子が帰って来ないことを話したそうだ」


「息子さんの失踪をまだ警察に届けてなかったんですね?」


「大学生だから、突然物見遊山の旅にでも出たかもしれず、わざわざ警察に届けることまでは考えなかったのだろう。・・・しかし血の手形を見た警察官は事件の可能性を考え、警察署にすぐに連絡した。すぐに警察の鑑識が来て、手形の指紋を調べたところ、息子さんの指紋と一致したそうだ」


「なぜ息子さんの指紋を警察は知っていたのですか?息子さんに前科があって、警察で指紋を取られていたんですか?」と私は質問した。


「その息子さんの部屋の中で指紋を探せば、息子さんの指紋がいくつも出て来るはずだよ。それを在宅指紋と言うんだ。変な呼び方だけど、それを使えば犯罪者として指紋を採取されていなくても、その人の指紋かどうか調べることができるんだ」と立花先生が説明してくれた。


「とにかく警察が何らかの事件に息子さんが巻き込まれた可能性を考えたので、錦織にしこおりさんは警察に失踪届を提出した」


「無事に見つかればいいですね」と私が言ったら、節子さんの父親は首を横に振った。


「その数日後に息子さんの遺体が発見されたんだ」


「え!?」と話を聞いていた私たちは驚いた。「間に合わなかったんですか?」


「息子さんはお堀で水死体として発見されたんだ。死因はT大学で司法解剖されて溺死と確認された。死んだところがお堀沿いに建っている空き家の裏手だったんで発見が遅れたんだが、不思議なことに遺体はそうとう腐っていて、死後二週間ぐらい経っているという解剖医の見解だった」


「血の手形が付けられたのが数日前なのに、死んだのは約二週間前?・・・つまり息子さんが行方不明になった頃なんですか?」と私は聞いた。


「そんな説明だったらしい。ならばあの手形はどうやって付けられたんだろう?錦織にしこおりさんの家は少し離れたところにあったから、腐った遺体を担いで玄関前に運ぶことなんてできないだろうに」


「横溝正史の『本陣殺人事件』では犯罪現場に三本指の指紋があって、警察は三本指の男を犯人と疑いましたが、実は真犯人があるトリックを使ったんです」と私は言って、犯罪現場にいなかった人の指紋の付け方を説明した(ネタバレになるのでここには書きません)。


「いや、警察が息子さんの遺体を調べたけど、そのトリックは使えない状態だったよ」と節子さんの父親が答えた。


「先生、水死体を実際の時間経過よりも早く腐らせることはできるのですか?つまり、死後数日の遺体を死後二週間くらいに見せかけることが可能でしょうか?」と私は立花先生に聞いた。


「それは無理だろうね。遺体が水中に沈んでいたとしたら、むしろ腐敗はゆっくり進行するはずだ」と立花先生は答えた。


「キャスパーの法則という経験則があるんだけど、水中死体は地上で空気にさらされている死体よりも腐敗するのに四倍の時間がかかるんだ」


「じゃあ、地上に一週間近く置いて腐らせてから水中に遺棄すれば・・・。それでも数日では無理ですね?」


「地上で腐れば匂いが周囲に漂うから町中なら発見が早まるし、すぐに見つからなくてもハエなどの虫に蚕食さんしょくされて、水死体とは違ういっそう悲惨な状態になるだろうね」


私はその光景を想像しないように努めた。


「でも、水死体の指紋だけを持ち出すことは可能かもしれないね」と立花先生が言った。


「どうするんですか?」


「水中に死体が長時間沈んでいると手のひらの皮膚の表層の表皮が水を吸って膨らんでくるんだ。この現象を漂母皮化ひょうぼひかと言う。漂母ひょうぼとは洗濯女のことで、生きている人間でも手を長く水やお湯につけていると皮膚がぶよぶよしてくるだろう?そこから付けられた名称さ」


漂母皮化ひょうぼひか・・・ですか?」


漂母皮化ひょうぼひかがさらに進行すると皮膚の深層の真皮から表皮が剥がれてくる。まるで手袋を脱ぐように、手のひらから指先までの表皮が手からすっぽりと抜けるんだ。この現象を蝉脱せんだつと呼んでいる。蝉脱せんだつとはセミの幼虫の抜け殻のことさ。夏になると木の表面にセミの幼虫の抜け殻をよく見るだろう?幼虫の姿とまったくそっくりの抜け殻を。それになぞらえた命名だろうね」


「それでどうやって指紋を?」


「指先の表皮には指紋が付いているから、蝉脱せんだつした表皮を水死体から取って、血を付けてドアに押しつければ、付けられた手形からその人の指紋が検出できるんだ。・・・その血は息子さんのものではなく、手形を付けた人の血だろうね」


「なるほど。・・・と言うことは、手形をつけた人は息子さんが発見現場で水死していたことを知っていて、警察が発見する前に手の表皮を持って行ったんですね?」


「そうだろうね。あくまで想像だけど」


「しかし一体何のためにわざわざ手形を付けに行ったんだい?」と節子さんの父親が聞いた。


「僕にはわからないけど、一色さんはどう思う?」と立花先生が私に聞いてきた。


「探偵小説風に考えれば、アリバイ工作のためでしょうね」


「アリバイ?」と聞き返す父親。


「アリバイとは不在証明のことで、犯行時刻に犯罪現場にいなかったことを証明できるものや行為を言います。この場合は誰かが、息子さんが死んだ時にその近くにいなかったと主張したかったんだと思います。・・・息子さんには利害関係がある知人がいて、その知人が手形が付けられる前に旅立ったというような事実があったのでしょうか?」


「利害関係があったかどうかは知らないが、息子さんにはよくつるんでいた友人がいた。その友人が、手形が発見される前日に錦織にしこおりさんに、息子さんは『都会に出て行ったと思う。心当たりがあるので、これから汽車に乗って捜しに行く』と断ってきたそうだ。・・・その友人が殺人犯なのかい?」


汽車?・・・山陰本線にはまだ蒸気機関車が走っているの?と一瞬思ったが、すぐに話を続けた。


「殺人なのかどうかはわかりませんが、その友人は息子さんが水死したのを知っていました」私はそう言ってみんなを見回した。


今気づいたが、私たちの話を立花先生の母親、節子さんとその母親も聞いていた。この三人の顔は青ざめていた。


「ここからは想像ですが、その友人は殺人でなくても、息子さんの死に関与していたと思います。そして遺体が発見されないまま十日近く過ぎ、じっとしていられなくなって息子さんの遺体を見に行ったのでしょう。遺体は水中に沈んでいたか、あるいは腐敗して水面に浮いていたのかもしれません。その友人は良心の呵責から遺体を引き上げようと息子さんの手を引いた。・・・その時、立花先生が言われたように手の表皮が剥がれたのです。驚いて表皮をつかんだままその場から逃げる友人。その後で、表皮の指紋を見て自分のアリバイ工作に使えると思いついたのでしょう」


「それで錦織にしこおりさんに自分は都会に出ると断り、夜に手形を付けて、早朝に汽車に乗って逃げたということか」と立花先生が補足してくれた。


「しかし、先ほど一樹君が死後二週間の死体を死後数日と間違えることはないと言ったじゃないか?手形が付いた夜に松江にいないふりをしても、その十日前にはいたんだから、アリバイ工作にはならないんじゃないのかい?」と節子さんの父親が聞き返した。


「死後、時間が経過すればするほど正確な死亡時刻が推定できなくなるんですよね?」と私は立花先生に確認した。


「そうだよ。死後二週間と死後数日を間違えることはないけど、死体が発見されないまま時間が経てば経つほど正確な死亡時刻が推定できなくなる。例えば死後二、三か月も経てば、一、二週間の差は誤差範囲内になってしまう。そうなると死亡したのが手形が付けられた夜より前なのか後なのか、わからなくなる。・・・いやむしろ、手形が付けられたことでその日までは生きていたと警察が判断してしまい、その友人のアリバイが成立してしまうだろう」


「・・・このことを松江の警察は気づいているかな?」


「アリバイが成立する前に遺体が発見されたから、警察はその友人の行方を追っていると思うよ」と立花先生が節子さんの父親に言った。


錦織にしこおりさんの息子のことは残念な結果に終わったけど、犯人が捕まれば少しは慰めになるかな」と節子さんの父親はつぶやいた。


「さあさあ、そんな話はもうおしまいにしましょう!」と立花先生の母親が割って入った。


「一樹は職業柄しょうがないにしても、一色さんもほんとうに物好きね。一樹とお似合いだわ」と母親に言われ、みんなが笑った。私は顔が熱くなったけど。


「そろそろ正樹も帰ってくるでしょうし、お父さんも仕事が終わる頃だから、みなさんお座敷に行く準備をしてね。一樹は一色さんを客間につれて行って」


「そうだね。じゃあ一色さん、案内するよ。二回も泊まっているから部屋の場所は知っているだろうけど」


私は自分の荷物を持つと、会釈をしてから立花先生の後について応接間を出た。


「まさか今日も謎解きをするとは思わなかったね」と私に話しかける立花先生。


「でも、今日の謎は先生の専門知識がなければわかりませんでした」と私は答えた。


「一緒に事件を考えることがこの先何度もあるだろうね。これからもよろしく」と立花先生に言われ、


「はい、よろしくお願いします」と私は答えた。こんな楽しい時がこの先何年も・・・ずっと先まで・・・続くと楽しいな、と思いながら。

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