第31話 仲野さんの幼馴染

私、仲野蝶子はその日、薄化粧をし、ファッションもばっちり決めて待ち合わせ場所に立った。


しばらく待っていると、ショルダーバッグを下げた男性が手を挙げながら近寄って来た。待ち人である幼馴染のヒロちゃんだ。


「やあ、蝶子、待ったかい?」


「ううん、今来たところ」


「何か食ったか?」


「まだよ」


「じゃあ、喫茶店にでも入って飯を食うか?」


「うん」と私は答えて、二人で並んで歩き出した。


ヒロちゃんこと五十嵐宏樹は私の幼馴染だ。二歳年上で、令成大学の三年生だ。幼い頃はほんとうの兄妹のように仲良くしていたため、今でも時々こうして会っている。


手近の喫茶店に入り、テーブルに向かい合って座る。ヒロちゃんはショルダーバッグを隣の椅子の上に置き、さっそくメニューを開いた。


「俺はチキンライスとホット。蝶子は何にする?」


「私はサンドイッチとミルクティーにしようかな」と私が言うと、ヒロちゃんが手を挙げてウエイトレスを呼び、注文してくれた。


私はヒロちゃんのショルダーバッグを見つめた。


「今日も漫画雑誌を持っているの?」


「うん」そう言ってヒロちゃんはショルダーバッグを開くと、中から雑誌を出した。


「少年ジャンプ?」聞きなれない雑誌名だ。


「これは去年創刊されたばかりの少年向けの漫画雑誌だよ。少年サンデーやマガジンと比べて新人作家の作品が多くて、最初は続くかなと思ったけど、だんだんおもしろくなってきたね」


少年サンデーやマガジンは私も知っている漫画雑誌だ。先日、少年マガジンに横溝正史の『八つ墓村』の漫画が掲載されていることを教えてもらって、借りて読んでいた。


「元々少年向けの週刊マンガ雑誌は、サンデー、マガジン、キングが覇を競い合っていたけど、少年キングは最近落ち目だね。部数が減っているようなんだ」


「へー、そうなの?」と生返事をする。


「一方で去年はこの少年ジャンプが、今月は少年チャンピオンという新しい少年向け漫画雑誌が創刊されて、この二誌が今後どのように伸びていくか楽しみだね」


「おもしろいの?」と私は聞いて、ヒロちゃんから少年ジャンプを受け取った。


ぱらぱらめくってみると、『父の魂』とか、『男一匹ガキ大将』などの漫画が目に入った。ちらっと見ただけではおもしろいかどうかわからない。


「え!?・・・何、これ!?」私はある作品に気づき、指さしてヒロちゃんの顔を見た。


「『ハレンチ学園』って何?・・・エッチな漫画じゃないの?」


「ま、まあ、そうだね・・・」とちょっとあせるヒロちゃん。


「少しエッチな内容だけど、子ども向けだから、そんなに目くじら立てるほどじゃないよ」言い訳するヒロちゃん。


「でも、人気が高い漫画だね。これで部数が伸びてきたんじゃないかな?」


「父兄が見たら、クレームが殺到するんじゃない?」


「そう・・・かもね。でも、時代の趨勢すうせいだよ」


「『すうせい』ってどういう意味?」


「歴史の必然って意味かな?良くも悪くも出るべくして出た漫画だね」


「ふう〜ん、そう?」意味がよくわからないが、とりあえず否定しないでおく。


「まだ雑誌が入っているわね?」と私はヒロちゃんのショルダーバッグの中をのぞき込んだ。


「うん・・・」と言ってヒロちゃんが出してきたもう一冊の雑誌の表紙を見て絶句した。裸の女性の絵が描かれていたからだ。


「何よ、これ!?これこそエッチな本じゃないの!?」


「大声を出すなよ」とヒロちゃんにたしなめられる。


「エッチじゃなくて芸術的だろ?」


「女の裸だからエッチじゃない!」


「ミロのヴィーナスしかり、ゴヤの『裸のマハ』しかり、女性の裸は芸術なんだ」


「ヌードの、エッチと芸術の境がよくわからない・・・」


「とにかくこれはそんな変な絵じゃないよ」


ヒロちゃんに言われ、もう一度その雑誌を見る。『月刊漫画ガロ』という雑誌名が目に入った。


「これは子ども向けじゃないけど、いろいろと前衛的な作品を載せていることで有名な雑誌なんだ」


ヒロちゃんからガロを受け取ると、すぐにページを開いて表紙が他の人から見えないようにした。


「この漫画は白土三平の『カムイ伝』って人気の作品なんだ。白土三平は『サスケ』や『ワタリ』などの忍者漫画で有名な漫画家だよ。『サスケ』は去年、テレビ漫画が放送されたし、『忍風カムイ外伝』というのが今放送されているよ」


「ふぅ〜ん」と私は言って雑誌をヒロちゃんに返した。


「それにしても少年漫画から大人向けの漫画まで、幅広く漫画を読むわね。そんなに漫画が好きなら漫画家にでもなったら?」


「あいにく僕は絵が描けないし、ストーリーを考えることもできない」とヒロちゃん。


「だから大学を卒業したら漫画雑誌の編集者になろうと考えてるんだ」


「漫画雑誌の?大卒なのに?」


「漫画雑誌の版元はどこも大手の出版社だから、一流企業に就職するのと同じだよ。ただ、どの雑誌の編集者に回されるかわからないから、いろいろな雑誌を読んで漫画業界の流れを把握しようと思っているのさ」


「ふうん」私は納得したような、していないような返事をした。


「出版社なら漫画以外の雑誌の担当になることもあるんじゃない?」


「そういうこともあるかもしれないけど、ある程度経験を積んだら漫画雑誌への転部願いを会社に出すよ」


「少女漫画雑誌の可能性もあるんじゃない?そっちもチェックしているの?」


「さ、さすがに少女雑誌は買いにくいよ」と気弱になるヒロちゃん。その様子がちょっとおもしろい。


「私はあまり詳しくないけど、少年漫画雑誌を出している出版社ならたいてい少女雑誌も出しているんじゃない?」


「そうなんだけどね」


「女性編集者も多少はいるんでしょうけど、男性編集者の方が多いんじゃない?会社は男中心の世界だから」


「う〜ん」と思い悩むヒロちゃんの様子を見て、私はますますおかしくなった。


「その前にうまく就職できるかが問題よ」


「そうだね」


「でも、編集者って大変なんじゃないの?前に見せてもらった何かの漫画によると、漫画家は徹夜で作品を描いて、原稿を受け取る編集者はそのそばで完成するまで延々と待たされるみたいね」


「それはまあ、しょうがないかな。絵を描くのは字を書くのより時間がかかるからね。・・・若いうちは耐えるしかないよ、いい作品を世に送り出すために」


「読者にとっては文字だらけの本よりも漫画の方が読みやすいのにね」


「理解しやすいよう漫画家が努力しているんだよ」


「ヒロちゃんの熱意は通じたわ。頑張ってね。応援することしかできないけど」と私は言った。


「ところで、この前読んだ『八つ墓村』みたいな、ちゃんとした推理小説を漫画化した作品はほかにないの?・・・私が所属しているミステリ研でも話題になったのよ」


「本格的な推理小説のストーリーは子ども向きじゃないし、大人向けの漫画雑誌は読み捨てることが多いから、描きたい漫画家がいても、掲載を認める雑誌編集部はなかなかないだろうね」とヒロちゃんが言って、ちょっとがっかりした。


「でも、漫画業界がさらに成熟して、受け手が求めるものが広がっていったら、そういう作品も世に出て来るようになると思うよ」


漫画雑誌の編集者になりたいだけあって、将来性をいろいろと考えているようだ。その点は尊敬する。


その時注文したチキンライスとサンドイッチが運ばれてきたので、二人で食べ始めた。


「夏休みになったらどこかの編集部でアルバイトしようと考えているんだ」とヒロちゃん。


「へ〜」


「それをきっかけにコネができたら、就職できるかもしれないからね」


「なるほど。・・・夢に向かって頑張ってね。応援するわ」


「うん、ありがとう。・・・蝶子の方はどうだい?ミステリ研でまた何か面白いことは起こらなかったのかい?」


「それがね、前にも話した同じ文学部の一色さんなんだけど、今度は何と私たちもいるところで殺人事件が起こったのよ!」


「何だって!?」驚くヒロちゃん。


「この前、一色さんの着る服を見繕いに行ったの・・・」と私は百貨店の女性服売り場で起こった事件を話した。


「・・・それはとんだ経験をしたね」と困惑気味なヒロちゃん。


「だけど、なるべく危ないことに近づかないようにしろよ」


ヒロちゃんは私のことを心配してくれているのかな?そう思うとちょっと嬉しくなった。


「私は大丈夫よ。事件を引き寄せるのは一色さんだから」と私は言ってミルクティーを飲み干した。


「それから同じミステリ研の神田君は、一色さんの推理に勝手に乗っかかってしまって、女難に見舞われたことがあるのよ」


「え?・・・どういうことなんだい?」


「商学部の二人の女子学生が別の女子学生ひとりにいたずらをしかけたの。犯人が誰かわからないようないたずらをね。その場に神田君もいたのよ」


「ふんふん」


「その話を聞いた一色さんがすぐに謎を解いたんだけど、神田君がその推理を当の二人の女子学生に吹聴したの。そしたらしばらく粘着されてね。神田君自身はもてていると勘違いして、必死でアルバイトをして二人に貢いでいたわ」


「それは確かに女難だね。自業自得な気もするけど」


「そうなのよ。そしたら今度はいたずらをされた側の女子学生が、神田君が何か知ってるんじゃないかと思って近づいて来たの」


「さらに面倒になりそうだね」


「その時一色さんが当たり障りのない別の解釈を考えついて、誰かのいたずらじゃなく、偶然起こった出来事であるかのように説明したの。それを聞いた三人の女子学生は、安心して神田君のそばから離れて行ったのよ」


「それで一件落着かな?一色さんって人はさすがだね」


「そうね。一方の神田君はちょっと寂しそうにしているけどね」


ヒロちゃんは笑った。「なら、蝶子が慰めてやればいい」


「やめてよ。・・・神田君は悪い人じゃないし、読書家で、漫画もけっこう読んでいて、ミステリ研ではよく読んだ本のことを話しているけど、私が好きなのは・・・」


「え?その神田君は漫画をよく読むのかい!?」とヒロちゃんが変なところに食いついてきた。


「え、ええ・・・」


「神田君と一度話がしてみたいな。読書家の大学生が考える漫画業界の未来について」


いくら漫画雑誌の編集者を目指しているからって、漫画好きなら誰とでも話したいの?とあきれてしまった。


「こ、この後、どうする?」と話題を変える。


「近くの大型書店に寄ってもいいかな?今売られている漫画雑誌を確認しておきたいんだ。その後で服でも見に行こうか?」


「いいわね」と私は言った。もちろん服を見に行くことに対しての感想だ。


二人で喫茶店を出て、近くの大型書店に入る。そして漫画雑誌のコーナーで、なんと神田君と出くわしてしまった。ひとりで書店に来ていたようだ。


「やあ、仲野さん。・・・じゃ、じゃあ」ヒロちゃんを見てそそくさと去ろうとする神田君。


「知り合いかい?」と私に聞くヒロちゃん。


しかたなく「さっき話した神田君よ」と囁くと、ヒロちゃんは去ろうとする神田君に近づいて行った。


「僕は蝶子の友人で五十嵐って言うんだけど、少しだけ漫画について語らないかい?」


「え?・・・ええっ!?」ヒロちゃんと私を交互に見てあせる神田君だった。

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