第十三話 椎茸の足の旨味を利かせたい

 旦那は、ふぅーと溜息をつくと、何も言わずに店から出て行った。


 この様子を窺っていたお客さんが入れ代わりで三人入ってきた。親方は、常連のお客さんに目をやると、声も掛けずに厨房へ戻った。

 未華子が涙をぬぐいながら笑顔で「いらっしゃいませぇ」と声を掛けた。


 常連客の一人が、「未華子ちゃん、泣いてるみたいだけど大丈夫? 中村電器のおかみさんと親方、激しかったみたいだけど、何かあったのかい?」


 入ってきたのは、未華子も知ってる商店街のオヤジたちだった。目を赤く腫らして立っている未華子を見て心配してくれていたのだ。今日は日曜日。家では邪魔者扱いらしく、昼からつるんでよく商店街のオヤジ連中が飲みに来ていた。


「なんでもありませんよ。お互いの想いやりが、ちょこっとぶつかり合っただけですから」


 善幸は、未華子のさらっとしたお客さんとのやり取りを聞いて、改めて彼女は接客に向いているなあと感心してしまった。


 酒井のおばちゃんも何事もなかったかのように――。


 未華子は、注文を書き込んだ伝票に目を通し、段取りよく下準備をはじめていく。善幸も親方の様子を気に留めながら隣で手を動かしていった。


「おはようございまーす」


 清水さんだ。彼女は酒井のおばちゃんの友だちで、パートとして日曜日の忙しい時間帯だけ手伝いに来てくれていた。また、忙しいシーズンの時、頼めば来てくれるという。月にして、二~三万円のパート代にしかならないのに、まるで都合よく使われている季節工のよう。そのお陰で、満席になっても注文の品がとくに遅れるということはなかった。


 清水さんは、違和感を感じ取ったようだ。「何かあったの?」酒井のおばちゃんに訊いている。


「別に何もないよ、どうして?」この返しは、後で話すからという意味合いが隠っているのだろう。


 酒井のおばちゃんと未華子の瞼は、まだ泣いた後の腫れが引いていなかった。怪訝な顔をしている清水さんだったが、それ以上訊こうとはしなかった。


 冬だというのに、今日はすき焼きなどの鍋物より【悠の膳】の注文が多かった。

 お品書きを開けば、先ず写真入りでこの膳が目に飛び込んでくるのだから、そこに映っている品数の多さはもとより、細魚がきれいに盛り付けられた逸品に、お客さんの目が惹きつけられるのは当然のことだった。

 未華子が、注文伝票を親方に渡しながら善幸に声を掛けた。


「お客さんがね、高級料亭で食べるような〝善〟だねって。盛り付け方がきれいだって言ってたよ。よかったね、善くん……」


 善幸は、未華子にちょこっとだけ笑みをみせる。内心は満更でもない……。


 そこへ、「凄いじゃない、善くん。おばちゃんが親方のところに手伝いに来て四年になるけど、見習いで入ってきた子で、半年も経たないうちに捌いている姿なんて見たことがないよ」だから、頑張れ! と清水さんも言ってくれた。


「俺しかいないから。早く覚えないと」


 サラダを盛っている酒井のおばちゃんが振り向いた。

「でもね、うちの息子が今度就職するんだけどさ、営業なんだって。社交的じゃないからやっていけるのか心配でさ……。板前っていいと思うよ。将来お店をもつんだ! って夢があるじゃない。そうだ、親方、働けなくなったら善くんにこの店任せればいいんじゃない?」


 親方の顔がほころんだ。


「なに言ってんだ、あと十年は大丈夫だ。善幸にはまだまだ覚えてもらわなきゃいけないことが山ほどあるからな。それは技術的なことだけじゃない。技術的なことなら繰り返しやっていけばいつかは習得できるが、〝あっちの方〟はそう簡単にはいかない。俺は未だに苦しめられているんだ。死ぬまで〝そいつ〟に苦しめられそうだよ」親方は、笑みを浮かべながらそう言った。


 おばちゃんたちも、親方が言った〝あっちの方〟とか〝そいつ〟って何のこと? と首を傾げているが、親方の言った意味深な一言に逐一引っ掛かっていたら仕事が先に進みやしない。その内わかるだろうと思ってみんな聞き流しているようだった。


 午後二時を回っても、お客さんがダラダラと入ってきた。こういう時、店の者はお客さんの入りを考えながら、厨房に近い二人席のテーブルで遅い昼食をとることにしている。

 酒井のおばちゃんが、明日のデートの予行練習のつもりで、二人分の賄いを向かい合わせにセットしてくれていた。その賄いを見て、善幸と未華子はびっくりしている。二人はそこへ近寄った。

 一度も出たことがないものがテーブルの真ん中にドンッとあったのだ。それは南部鉄の鍋、すぐに食べられる程度に割り下が染み込んでいるシラタキとネギが食べごろだった。肉厚の椎茸が焼き豆腐に凭れ掛かっていて旨そう。鉄器鍋が、それらの具材をグツグツと遠慮がちな音をたて優しく煮込んでくれている。しかし、真ん中だけがいまいち物足りない。青々とした春菊がのっている皿の、隣の皿には――。


 暫しそれを観察していた善幸が、椅子に腰かけながら小声で言った。


「すき焼きだよ、すき焼きーっ」


 おばちゃんたちが、善幸と未華子に気づかれぬよう、すき焼きの準備をしていたのだろう。


 未華子は、「いいのかなあ、親方はいつも美味しいものばかり出してくれるけど」美味しそうと思う反面、店の経営状態が気になってしまうようだ。


「親方のご厚意だ。食べないわけにはいかないだろ? それに、ここ最近お客さんは入ってるよ」

 善幸は箸を持つと、先ず二枚分の肉を鍋の真ん中に落とした。未華子は、春菊の盛るスペースを探している。

 善幸は卵をかき混ぜながら考えている。店の経営状態より、先程サトシの母親が話していた〝悠ちゃん〟のことが気になっていた。 


親方が七十一歳だから……息子さんって、俺より一回り以上離れていそうだなあ……などと。


「おまえたち、何をこそこそ話してるんだ?」厨房から親方が出てきた。


「親方、いいんですか?」未華子が申し訳なさそうに言った。


「肉を入れて一煮立ちしたら他のものも食べ頃だ。ま、明日のデートのことでも話しながらゆっくり食べな」


「笑っちゃうよね、親方も気を使っちゃってさ。ところで、あんたたち明日どこ行くか決めたの? やっぱり、〝あそこ〟は外せないんじゃなーい?」と、酒井のおばちゃんがニヤニヤしながら訊いてきた。


「おばちゃんよお、どこでもいいじゃねーか、そんなに行きたきゃ、取り敢えず俺とどうだ?」


 自分たちが邪魔だと思ったのか、おばちゃんは親方の肩を揉みながら、笑い声と共に厨房へ消えていった。


「親方のすき焼きってね、一度ネギを焼いてから鍋に入れてるの」


「そうだったんだ、今まで見てなかったよ。肉料理はどうでもいいと思ってたからさ」


 善幸は、ネギを箸で摘んでみた。うーん、見た目も良いし芳ばしさもあるし、こっちの方が断然いい。食べてみると食感も違った。絶妙な手の加え方だなと感心してしまった。


「程よい焼き具合って、食欲をそそるよね。見た目も大切だけど、実際食べなきゃわからないことって多くない、善くん」


「そういう意味でも、俺、この店に来てよかったと思う」


 未華子は直箸で、春菊の束を回転させながら「明日、何時にする?」と訊いてきた。


「そうだなあ、築地には行かないからあ、十時ぐらいでいいんじゃないか、途中おしゃれなカフェでブランチなんてどう?」


「うわぁ、いいねえ。それで、どこに連れてってくれるの?」


 大した事じゃなくても、未華子にとっては嬉しいようだ。


「任せろよ、コノ俺に」


 善幸は、酒井のおばちゃんが推奨してくれた【港の見える丘公園】へ行くつもりでいる。これまで横浜なんて用事がないと行かないし興味もなかった。おばちゃんの話を聞いて、どんなところだろうと興味が湧いてきてしまったのだ。それに、あれだけ勧められたら、きっと次の日に「ねえ、善くん、どうだったあ?」と訊いてくるに決まっている。おばちゃんたちにみやげ話を作るためでもあった。


「おばちゃんがね、善くんに教えておいたからって」


「えっ? なんでおばちゃん喋っちゃうんだよ、もうー」


 がっかりしている善幸を眺めながら、未華子が笑っている。


「こんなもんでいいんじゃない? 食べてみて」


 未華子は、善幸にピンク色が変化していく直前の肉を勧めた。


 善幸はその肉を溶き卵につけて一口で頬張った。ゆっくりと咀嚼しながら、ゴクンッと飲み込んだ。その後、目を丸くして彼女に訴えた。


「おお、美味しいねえ……」


「美味しいにきまってるじゃない!」


 未華子は肉を追加し、折りたたまれた霜降り肉を鍋の中で広げている。善幸は焼き豆腐をひっくり返した。


「早く食べなよ。肉が固くなるぞ。お、これって椎茸の足かな?」


 善幸は、鍋の中で串に刺さっている椎茸の足がシラタキの下に隠れてるのを発見した。実家ですき焼きを食べる時はそんなものは入っていないので、収まりの悪さを感じてしまった。


「そう、これもねえ、軽く炙ってあるんだよ」


「お店で出す場合、すき焼きって椎茸の足を入れるんだ?」


「普通入れないんじゃない」と未華子。


「何か意味があるのかな? 捨てるのがもったいないから?」


 善幸は、椎茸の足が二つ刺さっている串を取り上げた。


「どうしてなんだろうね。親方に訊いたことがないから分からない」


 とても椎茸の足には見えない。未華子の親指の太さより大きかった。それに割り下が適度に染み込んで美味しそうに思えた。そう言えば、仕入先から運ばれてくる椎茸の木箱には自慢げに『大分県産』と記されてあった。


「笠も立派だけど、足が凄いな。これを捨てるのは確かにもったいない」


「食べてみてよ」と未華子が催促する。


 口に入れ噛み潰すと、グニュグニュという音が鼓膜に響いてきた。目を瞑り、じっくりと味わってみる……。大きな塊が喉を通過していった。


「これさあ、食感が堪らないね。それに椎茸の香りを強く感じるよ。笠より旨いかもしれないな。これを捨てちゃいかんだろ。ビールのツマミに最高じゃないか。焼き鳥より好きになりそうだよ。あと十本ぐらい食いてえーな」


「ベタ褒めだね。あたしのも食べていいよ」


「何言ってんだよ、食べたことないんだろ、俺だけ食べてどうするんだ!」


「善くん、静かに話して……」未華子は、口許で人差し指を立てた。


 お客さんたちの視線が二人に向けられていたのだ。未華子は、善幸のその〝心持ち〟が理解できたようで、幸せそうな顔をしながら、それを口に入れた。


「どう?」と訊く。


「ほんとだ、善くん。とても美味しいよ」小声で応えた。


 清水さんが、生ビールをお客さんのテーブルに置きにいくと、こっちへやって来た。


「仲良く食べてる? お二人さん」


「清水さん、こんなの頂いちゃってていいんですかね? あたしたち……」


 あまりの美味しさに、未華子は余計にそう思ってしまったのだろう。


「あなたたちの為に親方が作ってくれたんだから。明日、デートだからかもよお~ 愉しんでくるようにってことなんじゃない?」


 親方もおばちゃんたちも、俺たちを暖かく見守ってくれている。善幸は、未華子と何年も付き合ってるような気がしてならなかった。 はじめて会ったのが三ヶ月前だというのに……。なぜなんだろう。何処に行くのも一緒、後ろを振り向けば未華子がいる。そんな関係が高校生の頃から続いているような錯覚に陥いってしまいそうになる。親方の店に来る前は、ひとりぼっちは当たり前で、だから寂しさを感じることなんかなかった。それなのに、今はアパートに帰り、一人で酒を飲んでいる時や休みの時などは、ふと人恋しくなる時がある。一人ぼっちが当たり前ではなくなったという証しなのだろうか。


 善幸たちが食べ終わると、入れ替わりで、親方とおばちゃんたちがヒソヒソ話をしながらすき焼きを食べはじめた。

                                ― つづく ―

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『レコード盤に針を落とす時』 トントン03 @tonton03

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