第十二 黄色い丸葉すみれの涙
最後の客も返ったし、後はもう片付けるだけとなった。未華子に手許としてやってもらうような仕事も無くなった。善幸は、腕を延ばせば届く範囲内にいようとする未華子に、おばちゃんを手伝うように目で合図した。
未華子がおばちゃんに声を掛ける。
「おばちゃん、あたしが洗うよ」
忙しい時、ゴム手袋が出来ない場合もある。おばちゃんは、仕事が終わると必ずハンドクリームを塗るけれど、手の甲はいつもカサカサだった。
「それより、未華子ちゃんさ、空いているテーブルの〝備え〟を集めてきてくれる?」
善幸には、未華子の手をおばちゃんが庇っているように思えた。
明日は日曜日。今日と同じくらいお客さんが来てくれるだろうか……おばちゃんの横顔を見たら、そんな心配をしてそうだった。
実は、善幸も同じことを考えていた。自分がこの店でずうっと働いていくためには、店の経営が成り立っていかなければならないのだから。
善幸は、頭の中でざっと今日の売り上げを計算してみた。
善幸は、朝起きたら先ずテレビをつける。天気予報では、次第に晴れ間が広がってくるという。カーテンを開け、腰窓を全開にした。
一瞬冷っとしたが、風は吹いていないようだ。深呼吸を一つ……。寝起きで、頭に思い浮かんだこととは、(日曜日だから、もちろん未華子は朝から来るだろう)と言うことだった。そして、明日は月曜日。店が休みで未華子も学校が休みで、一緒に食事に行く日だった。
未華子は、善幸より先に来ていた。彼女は店先の掃除と店内の接客準備もやり終え、厨房の中に入って来た。
今日の未華子は、いつもと違ってテンションが高かった。
「善くん、もう完璧だね!」
未華子は、親方に聞こえるように、これから捌こうとしている細魚を見ながら褒めた。
「昨日は、三キロ入りの箱を二つも捌いたんだから誰でも巧くなるさ」
その二人のこの会話を聞いていた親方が、「善幸、その出刃切れるか?」と訊いてきた。
親方は、白菜でも切るかのように、まな板からはみ出しているハマチをザクザクと捌いていた。
危惧していたことを訊かれてしまった善幸は、
「朝、研ぎましたから」これがいけなかった。
「よお、研げば切れるのか?」ふわっと、疑問符を投げてきた。
親方の言いたいことは分かっていた。店に来て、調理服に着替え、親方の並びに立つと、「善幸、先ずこれでやってみろ」と言われ砥石を渡された。研ぎはじめるのだが、その研いでいる手許をしっかりと見られていた。だから、切れの悪さは気づかれていたのだ。見習いが朝一で、一本の包丁を気の済むまで研いでいるわけにはいかない。だから適当なところでやめてしまっていたのだ。前々日まで親方が研いでくれていた包丁と比べれば、とんでもなく切れ味は悪かった。自分が研いだことによって、益々切れ味を悪くさせていたようだ。
「なあ、善幸、切れなければ仕事にならない。そうは思わないか?」
善幸は頷いた。
「いいか、切れる包丁がまな板の上にあってからが仕事なんだ。仕事を始める前に、研いだ包丁を用意しておくのは板前として当然のことだ」
どういうわけか、親方は水氷の箱の中で静まっている鯵を三尾取り出し、まな板の上に無造作に放った。何を始めるのだろうと思っていると、「見とけ!」と云わんばかりに、鯵をあっという間に三枚に下ろしてしまった。
一尾を細かく引く。タタキにしているのだろうか。もう一尾は一口大の大きさの切り身に……。そして三尾目は三枚下ろし状態のままだ。夫々を小皿に盛り、親方は包丁をまな板の上に置いた。
「善幸、ニオイを嗅いでみろ」
言われた通り、善幸は鼻を近づけて夫々のニオイを嗅いだ。
「どうだ?」
若干だが、どれも鯵の独特のニオイがした。善幸は、親方の言う「どうだ?」がわからないでいた。
「気づかないか? ニオイのレベルの違いがわからないのか?」
善幸は、もう一度嗅いでみた。ニオイより善幸には見た目の姿の方が気になった。
「ダメか……」
親方は判りやすくするために、三枚下ろしの片身を手の平で温めてから、徐ろにグニュッとまな板の上で押し潰した。このニオイと比べてみろ、と親方が言う。善幸は鼻を近づけてみる。すぐに判った。
「鰺本来のニオイかもしれないけど、とても生臭く感じます」
「鮮魚ってな、弄くれば弄くるほど、温度が上がれば上がるほど生臭く感じてくるもんなんだ。だから、切れば切るほど臭みが増していく。もともと鯵は独特なニオイがする。この魚は、それを確かめるのには適しているみたいだな。鮮度が悪いと成り立たない実験ではあるけどよ」
身を切ると言うことは、結局押し潰すという行為であり、また切る回数が増えれば、それだけ手の温もりも伝わってしまうということ。善幸は、研ぎの大切さだけではなく、手際と、刃渡りを目一杯使って刺し身を引くことの重要さをこの実験で学んだ。
「研ぎってーのはな、器用さというより感性が必要なんだ。感性の鈍い奴は身体で覚えるしかない」親方は、手を洗いながらそう言った。
「そうは言っても、善くんは初めてなんだよ、親方っ」
おばちゃんは言わずにはいられなかったようだ。
「善幸、砥石を水に浸しておきな。水が含んだらもう一度その砥石で研ぐんだ。ただし、その時間は五分間だ」
言われた通り、善幸はバケツに水を入れ中砥石を浸した。
研いでて難しく感じたのは、中砥石より仕上砥石だった。それで研いでいる時のツルツル感で微妙に手首がぶれてしまい、刃の角度を一定に保つことがとても難しく感じた。巧く研げるようになるまで、結構な時間が掛かるのは間違いなさそうだ。
未華子が、開店時間の午前十一時三十分に店先へ暖簾を掛けると、見計らっていたように中村電器の旦那が入ってきた。もちろん客はまだ居ない。
「親方いる?」弾んだ声だった。
未華子が接客するより早く、旦那が小上がりに上がろうとしている。
「いらっしゃい、中村電器の旦那さんがお昼に来るなんて珍しいじゃないですか。あれ、奥さんもいっしょ? あれれ、息子さんも?」
遅れて、旦那の後から二人がやってきた。未華子は、サトシが現れたことに驚いている。気配を感じ、親方が厨房から出てきた。
「おっとっと、そこに珍しいガキがいるじゃねーか。どうしちゃたんだあ?」親方が無視しているサトシに話し掛けた。
サトシは小上がりに上がると、座布団の端っこに醤油ジミが付いているのが気になったみたいで、ひっくり返すと憮然たる面持ちで胡坐をかいた。親方の顔にはひと目もくれず、前の通りを眺めている。
間を取り繕うため、陽気に振る舞おうとする中村電器の旦那が口を開いた。
「アッハー、実はねえ、親方、今朝かみさんが店のシャッターを上げたら、目の前にサトシが突っ立ってるって、慌てて俺に知らせてきてね、いやあ、びっくり仰天。参った、参った、ハッハ」
本人が居ないかのよな言い方だった。旦那は頭を掻きながら笑っている。
厨房から顔だけ出して、おばちゃんと善幸がその様子を窺っていた。未華子は、腰に手を当てている親方の後ろで待機状態。不穏な空気が漂っていた……。
「ほお、生きて本土へ帰って来た兵隊さんみたいだな。しっかし、サトシ君よお~、親に散々心配かけておいて、締めは吃驚仰天のおまけ付きか? そんなの誰も喜ばんぞっ」
親方が不気味な低いトーンでサトシに投げかけた。
サトシが何も言おうとしないのを確認すると、突然、親方の口調が変わった。
「サトシっ、どうせ金が底を突いたから取りに来たんだろ! えっ?」
サトシは、身動きせず自分ちの看板を見つめている。
「やっぱりな、どうせそんなところだろうよ、馬鹿たれがっ!」
サトシは、親方の怒鳴り声にも反応を示さなかった。
厨房から覗きこんでいるおばちゃんが、善幸の脇腹を肘で突いたて、
「あのね、善くん、以前親方から聞いたんけどさ、サトシ君はコピーライターになりたかったらしいのよ、儲かりもしない電器屋なんて継ぎたくないって。確かに将来性なんてないのは分かるけどさあ……」
「おばちゃんさ、あの看板、彼が考えたんでしょ?」
「あの〝馬鹿野郎!〟の看板かい?」と言って、おばちゃんが指を差した。
善幸は、この体勢では半分しか見えないキャッチコピーを、一歩前進し、おばちゃんと屈んで確認している。意味深な看板【家電業界のお人好し 中村電器の馬鹿野郎!】、頭を傾げて眺めている所為か歪んで見えてしまった。
サトシは、依然として看板を眺めていた。その偉そうな面構えは、(あ~あ、誰かこのセンスの良さに気づいてくれないかなあ~ この俺にチャンスさえくれれば……)などと、嘆いているように窺えた。
善幸は、親方を無視しているサトシの不貞腐れ態度が気に入らなかった。そこで、おばちゃんの耳許で、
「おばちゃんさ、いっその事〝馬鹿野郎!〟を飛び越えて〝クソ野郎!〟の方がいいと思うんだけど」と囁いた。
「善くんの言う通りだよ。そこまでスッ飛ばさないと、中村電器のお客さんは承知しないかもしれないねえ……」おばちゃんは溜息をついた。
「それにしても、サトシって、俺より年が二つ上なくせに情けない奴だね。俺の研いだ包丁で、奴を三枚に下ろしてヒリヒリ言わせたろか?」
二人のひそひそ話のボリュームが徐々に上がっていった。
善幸は、これまでサトシと顔を合わせても挨拶を交わしたことがない。どっちも自分から先に頭を下げようとしないからだった。直感で、反りが合わないと互いに思っているということか。
サトシの隣に座っているおかみさんは、ちらちらとサトシの顔色を窺いながらお品書きをめくっている。サトシが食べたいものを探しているようだ。
「ねえねえ、サトシぃ、【悠の膳】って一度も食べたことないよね? これ、どう?」などと、おかみさんがサトシのご機嫌をとっている。
「何でもいいよ、どうせどれも代わり映えしねーものばかりだから。ここのはさ……」
これを聞いた旦那は(これはマズイ!)と思ったらしく、「何言ってんだ、サトシ!」と言った後、親方の顔色を窺がっている。サトシの親たちは板挟み状態だった。
しかし、サトシを睨みつけている親方のマズイ顔は直らない。
そこで、旦那が、
「親方さ、メニュー変えてから、客層が変わったんじゃない? 家族連れが多くなったような気がするなあ、羨ましいよ。うちなんかさ、店先でワゴンに積んだ乾電池のメーカーを偶に代えるんだけど、売れ行きがよくなるわけでもなし、なんだろうなあ……」と、当り障りのない話に切り替えようとしたが、親方はそれを無視している。照準をサトシに定めているようだ。
「しかしよぉ~、サトシ、何を作ってやっても、今のおまえさんの口には合わないかもしれんな。幼い頃はどれを食べても、『おじちゃん、美味しいよぉ』そう言って、食べてたのによお。おまえ、素直じゃなくなったな。それにテメー勝手過ぎる。そうじゃないか?」親方の目線は振れることなく、サトシへと向かっていた。
旦那は、親方のその一言で〝マズイ!〟から格が上がり〝こりゃ、やべーぞっ〟と思ったのだろう。途端に顔色が変わってしまった。
会話が途切れ、店内は静まり返ってしまった。
サトシはその沈黙を破った。刺すような目線を親方に投げつけ、「だったら、食わねえよっ!」と吐き捨てるように言うと、サトシはスッと立ち上がり、靴の踵を踏んづけたまま店を飛び出して行く。
「ちょっと、ちょっと、サトシっ!」
おかみさんが追っかけて行った。
サトシが数多の照明器具で煌々としている店内へ入って行くのを確認すると戻ってきて、
「あの子、また出て行くんじゃないかと思ってさぁ……」ポツリと言い、ため息混じりに目を伏せ、お尻で座布団を潰した。
旦那は、
「かあさん……サトシは腹が減ってただけなんだよ、心配するなって。機嫌が悪かったんだ。そうだ、親方に持ち帰りで何か作ってもらおうじゃないか。な?」と言いながらも、旦那も似たような面持ちだった。
善幸が、そんな旦那とおかみさんを見ていたら、(やっと帰って来たんだ、また出て行かれたら……。今はそおっとしておくしかないんだ……)と考え込んでいる様子が見てとれた。
親方が、そんな悄気ている二人に言った。
「お二人さんよお、言ってやらねーとわからねえんだよ、サトシには。いつまでも母ちゃんの腹の上でおネンネさせてちゃダメだ。奴は今年で二十五になるんだ。このままだと、感情の赴くままに走って行ってしまうぞ。嫌だと思ったことはやらず、大変だと思ったことから逃げ回るようになってしまう。世の中そんなに甘くねえってことを、いい加減わからせねーといけないんじゃないのか?」
そう言われて、旦那は腑に落ちない顔つきになった。
「親方、さっきまでサトシの野郎をこっ酷く叱ってたんだよ。だから、むくれてるだけなんだ。よしよし、なんて頭を撫でてたわけじゃない!」
腕組みをしている親方は、(おまえが叱ったって? 嘘こけっ!)といった表情で旦那を睨みつけながら言った。「ちったあ、善幸を見習えや!」
旦那が、この一言に反応した。
「親方っ、今の、随分じゃねーかっ、サトシだって頑張れば何でも出来るんだ!」
「あのよお、親御さんたち、頑張ってねーのが問題なんだろーがよ。なんだったら、お宅のサトシ君を善幸の手許として使ってやってもいいぞ?」と、親方は顎をしゃくりながら言ってしまった。
旦那の顔が強張った。酒井のおばちゃんが後退りしている。善幸も身体を少し厨房の中へ引っ込めた。
「おい、親方! 気の毒だから飼ってやるってか、えっ? それじゃ、うちのサトシは餌にもありつけねえ捨猫と一緒じゃねーかっ」旦那が言い返した。
善幸は、休憩中に、店先で二人がよく話し込んでいるのを見かけていたが、これまで旦那が親方に対し、喧嘩腰の物言いをしているところなんて見たことがなかった。
旦那の息づかいが荒くなってきた。口をもごつかせている。そこへ、黙って聞いていたおかみさんが、一度身体の肉をブルッと震わせると、親方の方へ向き直り、
「親方、随分なことを言ってくれたね、そんな言い方ってないだろっ、サトシのことは幼い頃から知ってるくせにさ、どんな子だったか……忘れたのかいっ!」と、語尾を凄め威圧的な言い方をしてきた。
その様子を、互いの身体をくっ付けるようにして覗いている酒井のおばちゃんと善幸……。
おばちゃんが、善幸に「あららーっ、大丈夫かな、親方。おかみさんってね、一旦口を開けたら機関銃のように喋りまくるのよ。感情的になると、気が済むまで打ちまくるんだからっ」とひそひそ声で言った。
日常的にその的のど真ん中が旦那らしく、だから避難場所として、この店に度々逃げ込むということらしい。なるほど……。
束の間の沈黙の後、余裕が出てきたおかみさんが喋りはじめた。
「サトシが小学校に上がった時、親方からお祝いに貰ったランドセルの中を見てみると、大好きなアンパンマンの筆箱や鉛筆やノートがぎっしりと詰まってた……。サトシは嬉しくて仕方がなかった……。親方に何かお礼がしたいって言うから、『店の前に置いてあるプランターに丸葉すみれが咲いているから、それを渡してあげたらどうだい? きっと喜んでくれると思うよ』って、あたしが言ったんだ。そう言われて、サトシが見にいったら、ちょっとしか咲いてないって、悲し気な顔をして戻ってきたんだよ。あたしが水をやるのを忘れてたもんだから萎れた状態になってたんだね。それで、サトシが『水をあげれば生きかえるの?』って訊くから『サトシが毎日水をあげれば大丈夫。いっぱい咲くよ』って言ったら、毎朝、起こしもしないのに、枕元に自分で準備しておいた如雨露を抱えて水をやりにいくようになってさぁ……。その度に萎れてる蕾を心配そうに眺めてたんだよ。小さな声で『生きろー、生きろーっ』って何度も何度も声を掛けながら、いつまでも見つめてたっけ……。蕾のままで枯れてしまいそうな丸葉すみれだったけど、サトシは花を咲かせたんだよ。あの時のサトシの嬉しそうな顔が忘れられない。すごく喜んでた……。ニコニコしながらあたしのところへ近寄って来て『母ちゃーんっ、やっと親方にあげられるね!』って……」
親方は、組んでいた腕を外した。おかみさんは、やや冷静さを取り戻すと、再び話しはじめた。
「親方、サトシが咲かせた黄色いすみれを赤い折り紙に包んで持って行ったの、覚えてないかい? 持っていく後ろ姿を、今でもあたしは覚えてる。『おじちゃんっ、おじちーゃんっ』って言いながら、店の中へ入っていったんだ。あたしがガラス越しに見ていたら、サトシはレジ台の上に置いて出て来るじゃないか。悲しそうな顔をして……。『サトシ、どうしたの?』って訊いたら、何も答えなかった。親方は、忙しくて受け取れなかったんだろうけど、あのときは厨房から顔を出して『サトシ、ありがとな!』って、直接受け取って欲しかったよ……。あたしが夕方になって、まだレジ台に花がのっかっているかどうか、店へ見に行ったらレジの横で萎れててさあ……。親方に、コップにでも差してくれるように言おうかと思ったんだけど、サトシが見てるじゃないか、じっと……。きっと親方が気づいてくれると思って、ずうっと店の中を窺っていたんよ」
「…………」
「次の日から、あの子、丸葉すみれに水をやらなくなってしまった。まだ蕾が残っているのにさぁ……」
おかみさんは、親方の顔を見据えた。
「サトシはね、ただ親方の喜ぶ顔が見たかっただけなんだ! 親方のことが大好きだったのにさっ!」
未華子は、親方の後ろにすっぽりと隠れてしまい、手で涙をぬぐっていた。
見ると、店先で入ろうとしている数人のお客さんが、扉から店内を覗いている。浮き沈みの激しい声が聞こえていたに違いない。その光景は、明らかに客との揉め事にしか見えなかったはずだ。ついさっきまで腕を組み、険しい表情をして立っている親方の姿を見たら、馴染みのお客さんだったとしても入ってこれやしなかっただろう。彼らは、当然中村電器の旦那とおかみさんの顔も知っている。未華子は、馴染み客であることに気づいていたようだが動けないでいた。
おかみさんは涙を堪えていた。唇の震えが止まらない。まだ言い足りないようだ。
「優しい子なんだよ、サトシは……。なのに、善幸を見習え? 善幸の下で使ってやってもいいだって? はーあ? 捨て猫に腐った餌をくれてやるような言い方をするんじゃないよっ!」
おかみさんは、持っていたお品書きをバチーンッ、とテーブルに叩きつけた。立ち上がると同時に、溜まっていた涙がどっと零れ落ちた。だが、親方は相手が涙を流していようが容赦しなかった。
「馬鹿やろ! こないだ公園にいる捨て猫に、新鮮な魚のアラをタップリとあげて来いって言ったばかりだ!」
どういう意味なんだろう……。下がったところから覗いている善幸には分からなかった。酒井のおばちゃんの方に顔を向けたら、声を殺しながら泣いていた。この様子から察すると、おばちゃんは何かを知っているのではないか、と善幸は推察した。
親方らしくない余りにも冷たい言い方。これにも疑問を抱いてしまった。
おかみさんの怒りは収まらない。何か言わずにはいられない様子……。身をのり出し、向かいに座っている旦那の肩を鷲づかみにして言った。
「アンタっ、親方はね、餌をやるどころか、サトシをマンホールに投げ捨てたんだよっ!」
今度はキッと親方の顔を睨みつけて、
「人殺し!」
一瞬、凍てついた空気が流れた。
今の言い方は、聞き捨てならなかったのだろう。旦那がおかみさんに、
「ああっと、人殺しじゃよぉ、なんだからさ、えーと、人でなし! そうこれくらいにしといてやれよ、な? 行こか、かあさん……」と収拾を図った。
が、おかみさんは、依然として親方を睨みつけている。
そして、
「親方、悠ちゃんが店を出て行った理由を考えたことがあるかいっ」
えっ、〝ゆうちゃん〟って誰? 店名が【和食処 悠の里】に関係しているのだろうか。何でも知っているおばちゃんに、善幸は小声で訊いてみた。
「ゆうちゃんって誰ですか?」
「親方の一人息子……。サトシ君は家出した後、悠ちゃんのところへいったの。頼れるのは悠ちゃん一人だけだからね。そのことは、旦那もおかみさんも知らないの。親方が言うには、悠ちゃんは五~六年前からサトシ君と連絡を取り合ってたんだって」
それを聞かされた善幸は、サトシの母親が次に何を喋るのだろうと聞き耳を立てている。
「頑固なんて、所詮、自分勝手と同じことなんだよ。当時、親方は古臭いことばかり言ってたよね。それって、板さんたちが我慢してただけなんだ! だから、悠ちゃんはね、それを何とかしないといけない……そう思ってさぁ、自分は息子だから言いづらいことは俺が言わなきゃ他の板さんたちが気の毒だって、そう思って……親方にぶつかっていったんじゃないかっ! 何も知らないくせして! 板さんたちは、皆、店の為を思って我慢してくれてたのに……。親方っ、いつまでも同じところで足踏みしてんじゃないよっ、馬鹿野郎は、親方だっ!」
善幸は、この時、親方に息子がいたことをはじめて知った。
「おまえ、もうやめろ!」堪らず、旦那が怒鳴った。
「なに言ってんだいっ、親方こそ、はっきり言ってやらないと分からないんだよっ」
親方は、ビクリともせず聞いている。
「悠ちゃんはね、別れ際、あたしに『心配しなくていいからって、そう旦那さんに伝えておいてよね。おばちゃんも元気で……』そう言い残して、改札口へ向かって行ったんだ。そしたら、サトシが出てきて、追っかけていくじゃないか……。大きなバックを持ってる悠ちゃんの手を引っ張ってた……。『行っちゃダメだ! 行かないでよおーっ』って、泣きながら引き戻そうとしてたっけ……。それでも、悠ちゃんはサトシを引き摺るようにして改札口へ向かって行ったんだ。サトシは抱きついて離れなかった。あの時の悠ちゃんの後ろ姿には、意志の強さを感じたよ。サトシとは会わないで行こうとしてたんだね……。でも、幼かったサトシでも、何かを感じ取っていたんだよ……。悠ちゃんが、そのうち居なくなっちゃうんじゃないかって……。悠ちゃんのこと、本当の兄貴だと思ってたからさぁ……。悠ちゃんは、最後まで後ろを振り向こうとはしなかった。きっと涙を流していたんだと思う……」
親方は、商店街通りをみつめていた。
おかみさんの話はつづいた。
「【和食処 悠の里】だって? 店の名前を変えたってダメだったんだよ! 悠ちゃん、出て行ったきり一度も帰って来やしないじゃないかっ、もう何年経つんだよ、親方っ」
涙が途切れず流しているおかみさんの顔が一瞬こわばった。
「親方が、悠ちゃんを追い出したんだっ!」
おかみさんは、小上がりから下りてサンダルを引っ掛けると、涙を拭きもせず出て行ってしまった。
旦那は、突っ立ったままで、去って行くおかみさんを見送っている。バチンッ、扉が閉まった。
おかみさんは、自分の店の前で、反応の遅い自動ドアが開くのを待っていた。
善幸は、店の脇に置いてあるプランターに心惹かれた。寒さに耐え、来年の春の入学シーズンに元気に咲くだろう黄色いすみれの花を思い描いた。よく見ると、プランターの側面がキラキラッと光っている。誰かが水をやったのだろうか……。
―つづく―
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