第十一話 【港の見える丘公園】って
酒井のおばちゃんは、今、店自慢の折爪三元豚のトンカツを揚げている。キツネ色に揚がったのだろう。二度ほど油滴を切ると網付きバットにのせると、先に揚がったトンカツをサクサクッと切りはじめた。
善幸の背後で、カチャカチャッと音がしている。未華子が余裕の笑みを浮かべながら、洗った食器を棚の上に重ねているようだ。
「すみませーん」
店内でお客さんの呼ぶ声。夕方からぽつりぽつりとお客さんが入ってきていた。
「はーいっ」
未華子の声が高らかに客席まで響き渡った。善幸を疎んじるように、彼女は急ぎ足で注文を訊きにいった。
店内を見ると、客席が半分埋まっていた。なのに狭い厨房に店の者が全員集合状態だった。
善幸は、落ち着きを取り戻すことができた。なぜなら、この話が中途半端で終わったとしても、この後更に未華子と喧嘩し、彼女が「行かない!」と言ったとしても、強引に連れて行き、約束を必ず果たすと決めているからだった。
酒井のおばちゃんが菜箸を持ったまま近寄ってきた。
耳許で、「あのね、善くん、未華子ちゃんはね、善くんとお食事に行くのを愉しみにしていたの。男の子と二人で食事に行くのは初めてなんだってさ……」
勿論、親方にも聞こえている。善幸は、客席でお客さんと注文のやり取りをしている未華子の姿を覗いた。
「――と言うことだ、善幸」
やっぱりな、親方も明日のデートのことを知っていたのだ。
観念した善幸は、
「なーんだ、そうだったんだ。じゃあ何処に行こうかなあー、そうだ親方、築地って朝何時頃に行けばセリを見学できるんですか?」
「えっ、築地? デートでか? やめとけ。おまえがいくら興味があるからって、少しは未華子のことも考えてやれよ。最近は外国人の観光客も大勢見物にやってくるようだが、それまではとても女の子が行くようなところじゃなかった。場内を歩いているとな、どっかで殺人事件でも起こったのかと勘違いするような怒鳴り声があっちこっちから聞こえてくるところなんだぞ。そんな騒々しい場内で、江戸時代から使ってるような手押し車を引き廻しているんだ。魚の入った箱を高く積んで、それも腰に手鉤をぶら下げてな。あぶねーんだよ、奴ら。車輪で、〝あらよっと〟とか言って、小石でも踏みつけるかのように平気で人の足を引いて行きやがる。一度、荷受けの奴が、足の甲を踏まれたのを目撃したことがあるよ。殺し合いになりそうだったな。俺も仲買いの店が立ち並ぶ狭い通りで鮮魚の下見をしていたら危うく踏まれそうになった。やられてたら、今頃、脚を引き摺って……トホホだろうなあ―」
心配になったのか、おばちゃんが、
「親方の言う通りだよ。危ないよ、築地なんてさ。男一人で行くところなんだよ。初デートなんだから、そんな生臭いところに行かなくてもいいんじゃない? 靴が汚れちまうしさ。そんなところじゃなくて、新宿御苑とか、小石川植物園だとか……。そうそう、足を延ばして横浜っていうのはどう? あたしが若い頃デートした場所なんだけどね、【港の見える丘公園】っていう夜景がとっても綺麗なところがあるの。生臭いところより、花の香りがパーっと広がってロマンチックなところへ行った方がいいんじゃない? 静かなのよぉ……ね?」
おばちゃんがそう言うと、
「今は、花の香りが漂う季節でもないだろ。寒いだけじゃないのか? ニュースで来週からグッと冷え込むって言ってたぞ」
仕事以外で、これだけ親方が会話に参加してくるのが意外だった。
「俺は寒さなんて気にならないけど……。【港の見える丘公園】かあ、よさそうだね、おばちゃん」
善幸はそこへ行くことに決めた。
「二人っきりでの展望台からの夜景……。この時期、寒いから……ね?」
「ね? は一回でいいんじゃねーのか、おばちゃん。それよりカツが熱がってやしねーか?」親方は変な熱を冷まそうとしていた。
おばちゃんは、ピチピチピチともうじき泡が消えそうな音を立ててるカツをフライヤーから取り出した。それはもうお客さんに出せそうになかった。このように失敗したものは、おばちゃんが仕事を終えた後に、皆に持たせる弁当の中へ入れてくれることになっていた。
「そうかあ、デートは明後日なんだな……」と親方が呟き、手が止まった。二人に何かしてあげられることはないだろうか、と考えているようにも思えた。
善幸は、一度は築地へ行ってみたいと思っていたが、二人のアドバイスを聞き断念することにした。
未華子が厨房に入ってきた。「おばちゃん、出来上がったトンカツ持っていきますよお」と言いながら。
一瞬、吃驚した様子の親方。おばちゃんは「あっ、ああ、お願いね」と返事をした。
未華子が言った。
「善くん、あたし……築地でも構わないよ。でも、夜は銀座でお食事しようよ、いいでしょ?」
未華子は、一歩引いた語り口で善幸に訊いてきた。どうやら、三人で話していた要所は掴んでいるようだ。聞こえていたのだろう。
「そう……」
と、愛想のない返事をしてしまったが、善幸は嬉しく感じた。
「あそこで食べてる家族連れのお客さんがね、」と言って未華子が指を差した。
善幸が客席を覗き込む。
「細魚のお刺身美味しいって言ってたよ。よかったね、善くん……」
未華子は、親方に聞こえるか聞こえないか密やかな声で言った。
「細魚の刺し身をね、食べたの初めてだって言うお客さんが結構いるんだよ。あたしもこの魚を今回初めて食べたんだよ。お父さんと外食したこともほとんどないし……」
未華子は、父親と二人暮らしだった。善幸は、おばちゃんから、未華子のお父さんは、橋を造る仕事をしているので現場によっては、一ヶ月以上帰ってこないときもあると聞かされていた。また、未華子の母親は、彼女が中二の頃に家を出て行ったきり一度も帰ってきたことがないらしい。なぜ、母親がいなくなったのかは話してくれなかった。
「家では食わんだろうなあ。主婦がスーパーで細魚を目にしたとしても、すぐにやめとこう、と思うだろうから」
「何でですか? 親方」
「晩御飯のおかずにするには、細魚はボリュームがなさすぎるからだよ。それに、家族全員の分を刺し身にして出すのは捌けたとしても人数分やるとなると大変だ。口いっぱいに頬張って食べるマグロやブリと違って食った気がしないからな。父ちゃんの酒の肴に干物で出すくらいか。要するに細魚ってーのは、お店で扱う魚なんだと思うよ。細魚を【悠の膳】のメインにして正解だったようだな」
親方はそう分析した。なるほどねえ、と善幸は小さく頷いた。
「そうだねえ、確かに。うちも細魚の刺し身なんか出したことないもん。お腹を満たすのに細魚はねえ、それだったらトンカツだね、やっぱり!」そい言うと、おばちゃんは、掌の二倍以上はあるそれをトングで摘んだ。今日はトンカツがよく出る日だった。
「未華子、棚からすき焼き鍋を出してくれ、大きいやつな」
親方がすき焼きの準備をはじめた。
未華子が一旦いなくなったと思ったら、客の注文を受けてまた厨房に戻って来た。
彼女が吊り戸棚から、親方から言われた鉄鍋を取ろうとしている。けれど、三、四個重なっていたので背伸びしても手がとどかない。それを見かねて、善幸が彼女の背中から覆い被さるようにして鉄鍋を取ってあげた。
「ふふ、ありがと……」
未華子は、仰け反って善幸の顔を見上げた。
「すみませーん」
月末の土曜日は忙しい。また、お客さんの呼び声が遠くから聞こえてきた。
「はーい!」
未華子がレジへ向かった。
二十時を回っていた。空いてきたかと思ったら、ぞろぞろと中年男女十数名の団体さんが入ってきた。その後、二組の家族連れが続いた。そのお陰で、あっという間に客席の三分の二が埋まってしまった。
忙しいというのに、先ほどからお客さんそっちのけで狭い厨房に四人が固まっているのは、明らかに効率が悪い。しかし、親方は何も言わなかった。こうして四人で固まっている様子は、凍てつく時期に寒さを凌いでいる小ぶりの猿団子のよう……。みんな、居心地の良さで身体が離れられないでいるのだ。
三日前から細魚を捌くのを許されただけではなく、先ほどから盛り付けまでやらせてもらっている善幸は、仄かに感じていることがあった。
それは、職人の世界って厳しいもの、とおばちゃんから聞いているのにそれを全く感じないということだった。また、自分が知りたい、やりたい、身につけたいと思ったことが親方に見透かされているようで、その仕事が手許にスーッと回ってくるのだ。板前は辞めてしまったし、見習いである自分一人だけだから大切に扱われているのかもしれない。
仕事場である厨房は、ヴォーと煙りを引いていくシロッコファンと、グーンと唸りつづける冷凍冷蔵庫の音が無味乾燥な空間を創りだしていた。そこへ、酒井のおばちゃんと未華子の親しみのある会話が混入し、中和させてしまう。その余った分で善幸の心をも和ませてくれていた。
これまでの職場の人間関係では味わったことのない円やかな旨味を感じた。善幸は、この店でずうっと働けたらいいなあ、そう思いながら四つの皿にツマをのせている――。
未華子がニコニコ顔で戻ってきた。
「親方、奥の小上がりで食事をしているお客さんがね、細魚って見たことないんですって。一尾持ってって見せてあげましょうよ」
善幸は、どのお客さんだろうとチラッと店内を覗くと、二人とも小学校低学年と思われる兄妹が夫々親の隣に座って食事をしていた。子供たちはすき焼きで、お母さんはトンカツ定食。お父さんの【悠の膳】の細魚を子供たちが取りづらそうに箸で摘んでいた。
「そうだなあ……」
親方は、何かを探している。すると、おばちゃんが、
「これでしょ?」
親方に差し出したのは、エイヒレを出すときに使う竹ひごで編んだ塵取り状の笊。
「ああ、それだ。それにのっけて出してやってくれ。あっ、ちょっと待った」
エイヒレなら上に紙ナプキンを敷けばいいが、生魚じゃそうはいかないと思ったのだろう。親方は熊笹を二枚取り出し、シャッシャッと飾り包丁を入れると笊の上に敷いた。良い感じで葉っぱが笊からはみ出している。それを渡された善幸は、まな板の上に転がしておいた一番大きめの細魚を熊笹の上にのっけた。
その作品を受け取った未華子は「いい感じじゃなーい」と、一言置いて客席へ向かった。
「四人掛かりだったな」
気を良くした親方が笑った。つられて、おばちゃんと善幸も笑い出した。一足遅れて、協調された三人の愉快が、本来無機質な厨房内の隅々まで行き渡った。
二十二時を過ぎた。泥酔一歩手前の常連客二人が、よろつきながら席を立った。週末になると顔を出す商店街の布団屋と婦人服店のオヤジたちだ。二時間ほど飲んで居ただろうか。
「ふら付いてますよ、大丈夫ですか?」と、未華子がレジで伝票を見ながら言った。
そしたら、婦人服店のオヤジが「俺らがふら付いてんじゃなくて、地球の回転速度が遅くなったり、速くなったりしてんのおー、最近、中央線も乱暴な運転しやがるし、年寄りに優しくねーよなあ、違うか? 布団や!」、布団屋のオヤジは、今にも吐きそうだった。
未華子が、「近いとはいえ、車に気を付けて帰って下さいね。えーと、合計で九千八百円になります」と言うと、布団屋のオヤジが一旦天井を見上げ、吐くのを堪えたかと思った矢先、「おぅおー、ぐえーっ、おーっ、はあはあー、かあー、ぺっ」
「あ~あ、そんなとこに吐くんじゃねーつーの。外じゃねーんだからよぉ……。テメーんちまで我慢しろよ。未華子ちゃん、ごめんなあ……」と言いながら、婦人服店のオヤジが布団屋のオヤジの背中を擦っている。
「飲み過ぎたんですね」と、未華子が布団屋のオヤジを心配している。
善幸は、その様子を厨房から顔を出して覗いていた。(きったねーなあー、もう)
レジ台の上に片手をつき、背中を丸めていた布団屋のオヤジが顔を上げた。青白い顔をしているが、強がりが止まらない。
「大して飲んでねーのによおー、どうしちまったのかなぁ……えぅーっ、ほおー、ゲボーッ、かあー、ぺっ」また吐いてしまった。
「布団や、俺たちゃあな、もう高齢なんだよ、オムツして、もうじきあの世逝き~」
婦人服屋のオヤジがポケットから財布を出そうとしていた。
すると、布団屋のオヤジが、「あぁ、ここは俺が払うってえ。オムツ代はおまえが払ってくれや。九千八百円だっけ? お、うちの安売りの布団セットと一緒の値段じゃねーか、真似しやがったな、許せねー、ハハ、おえーっ、かあー、ぺっ」
「あーあ、お好み焼き、三つほど残して帰るのかよ……。未華子ちゃんよ、親方に焼いてもらって、お客さんに喰わしてやってくれや、サービスとしてな。大きさはコイツの禿げ具合と同じ大きさでいいか。親方は鮮度にうるさいからさ、雑菌が繁殖する前に頼むよ。それから、お客さんからは絶対金を取っちゃならねえよ」
結局、支払いを済ませたのは婦人服屋のオヤジだった。最後に「そうだ、親方に言っといてくれよ、偶には商店街の集会に顔出してくれってさ。それと、偶には一緒に飲もうって」
未華子が親方の代わりに言い訳をした。
「板さんが辞めてしまったから、抜け出せないんですよおー」
「若いのが一人いるだろ? 若いのがっ」
「……もう少し時間をください」
未華子は、ざわつきが無くなってしまった店内に気づくのが遅かったようだ。レジからこの話し声が厨房まで届いてしまっていた。
親方が、澄ました顔で言った。「善幸、一端の板前として未華子が認めてくれるように頑張らないとな……」
一瞬、ムッとした善幸。それに気づいた親方が力強く笑った。今度は、親方の笑い声がレジへと飛んでいったようだ。
親方の笑いが治まらぬうちに、ゴム手袋をはめ食器を洗いはじめたおばちゃんが、
「親方、あんまりだわ、それって。善くんはこの店に来て、まだ半年も経ってないんだよ。それなのに、もう細魚を捌いているんだから。それだけでも凄いじゃない」
善幸は、父親の厳しさに対し、それを庇う母親の役割を演じてくれていた。二、三ヶ月前に知り合ったばかりなのに……それを思うと胸が熱くなった。親方のところに来てから、負けず嫌いな自分の性格が若干かもしれないけれど穏やかになったような気がした。
店内にはお客さんが一組だけ残っていた。閉店時間を回っていた。
未華子が、布団屋の嘔吐物を片付けると、笑みを浮かべながら厨房に入ってきた。
「今日は忙しかったですね、親方」
「メニューを刷新してよかったよ」
未華子は親方に目配せをしたあと、片付けを始めている善幸へ近づいてきた。今日は、厨房へ戻ってくる度に、これといった用事もないのに近寄ってきた。背中に何度か未華子の手が触れることもあった。
―つづく―
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