第十話 雲間が見えそうで見えない関係

「善幸、こっちのまな板に替えろ。前にも言ったが、魚、肉、それに野菜のまな板が大中小それぞれ三枚ずつあるから使い分けなきゃダメだ。絶対ごっちゃにして使うなよ」


「わかりました」


 ニオイが移るからだった。そのくらいのことは分かっている。閉店後の片付けの時、まな板を洗っても多少の生臭さは残っていた。


 親方は、氷が敷かれた発泡スチロールの箱を調理台の上にのせた。そして、整列している細魚を数尾片手で掴み、善幸の右手に握られている出刃を奪い取った。

 これから、細魚の正しい捌き方を実践してくれるらしい。


「それとな、魚の大きさによって包丁も替えないと駄目だ。やり辛いからな。これ、細魚を捌くには丁度いい寸法なんだ。この出刃はな、探そうと思っても見つからない。さっき説明したように俺が長年かけて作ったものだから、おまえにやるよ。いいか、今日から細魚担当だからな。こんなべっぴんの魚を最初に捌けるなんて、おまえはついてる。乱暴に扱うなよ、いいな」


 親方の口癖、最後に「いいな」をよく付ける。善幸は、親方という立場で職人たちを育ててきた広範な経験からの大様さをそこから感じ取った。


 あっという間だった。親方は、いつものスピードで四、五匹を捌いてしまった。その後、包丁を一旦水洗いすると、まな板ごと善幸へ渡した。


 はじめていいのだろうか……。親方が見ている。何も言わない。緊張感が走った。

 善幸は、実践してくれなくても、いつも親方がやっているのを横で見ているから、捌く手順は分かっていた。先ず、二枚ある尻鰭を取り、細魚の鱗を包丁の背で綺麗に落としていって――。


 善幸は包丁を握った。


「善幸、腹わたは傷つけないように取り出すんだ、いいな」


 一匹目、掴みにくい胸鰭を起こし頭を落とすと腹を割いて、切っ先を中に突っ込み腹わたをかき出す。上手くいった。が、二匹目でドロっと内蔵がまな板の上に広がってしまった。


 言われた矢先に、善幸は切っ先で腹わたを無理やり引っ張り出そうとして破いてしまったのだ。それをどかそうとして、また切っ先で弄くってしまった。まな板の汚れが広がっていく――。

 親方が言った助言「腹わたを傷つけないように」の意味合いには、魚身に付くと血生臭くなるし、まな板もその分汚すことになるからだった。

 このあと、善幸は、親方が言外に含まれる意図を頭の中で補いながら作業を進めていった。


 親方は、善幸のぎこちない手つきをみていた――。


「すぐに慣れるさ。鰹のように、捌き方によっては頭を落とすと同時に腹わたもそっくり外せるやり方もあるが、細魚の場合は細長いからそれは無理なんだ。腹わたはな、鮮度の良いものだとしっかりしているから取り出しやすい。鮮度が悪いものだと、傷つけなくてもまな板の上で広がってしまう。善幸、この細魚はどうだ?」と質問をしてきた。

 鮮度がいいも悪いも比較したことがないから判別が出来ない。横目でみている親方がにやけている。そんな親方の顔に、善幸は反抗するような眼差しを向けた。


 善幸は持っていた包丁を一旦置いて言った。


「鮮度抜群です、親方っ!」


 直立不動の姿勢をとった。


「だろっ」


 親方は軽やかに返し、安心した面持ちで笑みをこさえた。

 善幸は、頭をはねられ内蔵を抉り取られた七匹の細魚を洗いはじめた。


「洗ったら水気をよく拭き取るんだぞ。濡らしたままじゃダメだ。まな板の上もしっかりと拭き取るんだ。三枚に下ろす前に水気は十分取っておくのを忘れるな。それも手早くな」


 水気を取るのかあ、そりゃ水気を含んだぶよぶよの刺し身なんて誰も食いたかないのはわかるけど、それだけじゃなさそうだ。臭みが回ってしまうということか? 善幸は手を動かしながら色々と考えてみる。


「親方、この黒いの、何ですか?」


 こんな綺麗な魚が……なんでだ? と疑問に思ってしまった。背が青緑色で腹側はきらきらと銀色に輝き綺麗な魚なのに、腹の内側が真っ黒だった。今まで親方の捌いている様子を見てはいたが、こんなに黒かったとは……。とても残念に思えて仕方がなかった。


「それはな、腹膜だよ。細魚は表層を泳いでいるから、強い陽の光が腹の中まで通さないように日除けの役割をしてるって、仲買いの親父から聞いたことがある。真夏に、ご婦人が被る帽子のようなものか? 細魚って、よく人に例えられるんだ。見惚れるほど美しい容姿なのに、実は腹黒い奴だ、とね……」


「聞かなきゃよかったあー」


「でもな、善幸、細魚の腹膜が真っ黒じゃなきゃ生きられない別な理由があるということなんだよ」


「何ですか、それって?」


「それはわからない。ただ、平穏な日々が続くと、遅かれ早かれ退屈になってくるのと一緒で、パッと見で美しいものって素っ気なく飽きてしまうものなんじゃないだろうか? それに、今の世の中、正義は当たり前だと思いつつも、誰もそれに従わねーから争い事は絶えねえーとくらあ。そんな中でよ、鎧を身に付けている者は強そうに見えるが、しかしその勢いは長くは続かない。滅茶苦茶な世の中なんだよ。わかり切っているつもりで、みんな生きているだけなのさ。だからよお、何故だろう、どうしてなんだ? と不可思議に感じる方へ惹かれて行ったりもする。それって、思いの外、身体にも精神的にも良いものだったりしてな、ハッハ」


 何が可笑しいのか、善幸は笑えなかった。


「善幸、そんなものがよ、もっともっと身近にあったら素敵だと思わないか? ところがな、いっぱいあるんだよ、平穏な日々の中に……。気付かないだけさ。勘違いするな、わからないことじゃなくて、不可思議に感じることがだぞ。一つだけ、より素敵だと思える条件を付けるとすれば、それは本能的に吸い寄せられてしまいそうになる不可思議、だろうか。どう思うよ、善幸?」   


 善幸には親方の言っている意味が判然としなかった。というより珍紛漢紛だった。


 そこで、


「親方、明日まで時間を下さいっ」そう返事をしたら、親方が大口を開けて豪快に笑った。


 善幸が、手を動かし始めると、「【悠の膳】、四つ入りましたあー」と、未華子の声が厨房に飛んで来た。


 取り敢えず、善幸が「あいよおー」と元気よく返した。



 細魚を捌きはじめて三日目。皮引きも途中プチッと切れることもなくなり、脚のパーツモデルとまではいかないが、お客さんに出せるまでにはなった。後は時間の問題だと自分では思っている。


 酒井のおばちゃんが、ジョッキに生ビールを注いでいる。今日は土曜日で学校は休み、未華子は朝から手伝いに来ていた。

 ランチタイムでは、天丼やとんかつ定食の注文が多かった。今のところ回転率は平日の倍ぐらいだろうか。忙しいと時間が経つのが早い。


「親方、今日の昼は、家族連れのお客さんが多かったですね」善幸は、慎重に細魚の中骨に沿って刃先を滑らせながら話し掛けた。

 魚を捌きながら親方と会話をするなんて、余裕が出てきた証拠だなと思いほくそ笑んだ。


「ああ、今日は二十九日かあ、それに土曜だしな……」


「二十九日? 特別なことって何かあるんですか?」善幸が訊いてみた。


 未華子は、(あたしは、知ってるよ)といったふうの顔をして、注文の入った【悠の膳】で使う刺身用の食器を善幸の手元に置いた。


 親方は、「二十五日って給料日の会社が多いだろ、だからだ」と答えた。


「それだけの理由ですか?」


「その辺の事情は、おまえも家庭を持つようになればわかるさ」


 あれ、先月はどうだったっけ? と考えてみるが、野菜を只管切っていただけで月毎の客の流れなど気にしたことはなかった。この店に来る前は、給料をもらうと半月も経たないうちに、ぎりぎりの生活費を残し全部使ってしまっていた。次の給料日が待ち遠しくて仕方がなかった。家庭を持ったとしても似たような生活をしているんじゃないか、だけど、それではダメなのだろう。家族を養わなければならないのだから。などと考えながら手を動かしている。


 おお、そうだった。明後日は、月曜日で店が休みの日。未華子に美味しいご飯をご馳走してやる日だった。覚えているかな? あとで「先週、ご飯ご馳走してくれって言ったの覚えてる?」って声を掛けてみるか。まあ、覚えているだろう。あいつの方から誘ってきたんだから。きっと、「新宿と銀座だったら、やっぱり銀座かな……」などと言ってくるんじゃないか、そこで「やっぱり銀座かあ? ところでおまえさ、銀座で飯食ったことあんの? ねえよなぁ~、貧乏臭さが身体から滲み出てるから。しゃーねえ、連れてってやるかあ。但し、真っ赤なミニスカートなんて穿いてくんじゃねーぞ。カンカン娘と間違えられるからさ」こんなやり取りの筋書きを立ててみた。がしかし、善幸はカンカン娘って、真っ赤なミニスカートを穿いているのかどうかさえ知らなかった。


 あと一時間もしたら客が引くだろうから、善幸は、そのとき親方や酒井のおばちゃんに分からないように、未華子に声を掛けてみることにした。


 未華子が、シャーッと細魚の皮を引いている善幸に近づいてきた。


「善くん、覚えてる?」


 あっれ、もしかして先手を打たれたか、いや、違う話かもしれない。


「何を?」と取り敢えず訊いてみる。


「やっぱり忘れてるんだぁー、別にいいけど……」


 癇に障る言い方だった。


「だから何だって? はっきり言えよ!」


 やっぱり、あのことだったんじゃないか? 俺が忘れてるって? そう思ったらムカッときた。


 未華子は、善幸の過剰反応に困った顔をしている。


 フライヤーでとんかつを揚げている酒井のおばちゃんが、何事かと振り向いて言った。「どうしたの、善くん。びっくりするじゃない、突然大きな声を出して」


 そこへ、今度は親方が口を挟んできた。


「穏やかじゃねーな、二人とも。いつからそんなに仲良くなったんだ?」


 二人は接近し始めている、親方の目にはそう映っているようだ。二人の関係に雲間が見えてきて、そのうち快晴になるんじゃないだろうかと……。


「明後日の休みの日、未華子ちゃんを食事に連れてってあげる約束をしてたんじゃないの、善くん?」


 あいつ、おばちゃんに話したな、と思い未華子を睨みつける。もしかして、親方も知っているのだろうか。今度は親方の顔を見た。


 未華子は、味方が二人もいるものだから涼しい顔をしている。


「そんなこと約束したっけ?」


 善幸は、忘れている振りして応戦した。


 嵌め直せばすむボタンの掛け違い……。そのままにしておこうとしたのだ。


「約束したんだろ? なら連れてってやれ、善幸っ」


 親方は、忍び包丁を入れた白身魚に片栗粉をつけながらそう言った。


「ほらねーっ」と、未華子。


「ほらねじゃねーよ!」


 善幸は、なんで段々腹が立ってきてしまうのか、自分でも分からなかった。


「今日の善くん、なんか変。ただ、ご飯食べに行くだけじゃない!」と未華子が言い返してきた。


 片栗粉をつけた白身魚を、親方はフライパンで焼くのだろうか。と思いきや、今度は海苔にごま油を塗ったあと塩を振り弱火で炙りはじめた。その二つを合体させるつもりでいるようだけれど、しかし、どうやって? 気がそっちへ引っぱられて行くにつれ、次第にムカついていた気持ちが静まっていく。


「…………」


 善幸は間をおきたかった。何か言うにしても、もう少し気持ちを落ち着かせてから、と思ったのだ。

                                ―つづく―

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