第七話 ジッパーの開け閉めの音とは

 毎朝、未華子は、専門学校に行く前に、店に立ち寄り店先を掃除する。同じ時間帯に掃除している隣近所の人と挨拶を交わしながら掃き終えると、テーブルの上の〝備え〟の準備に取り掛かる。彼女は、テーブルを拭いてから〝備え〟をセットするまでの仕事を、小一時間でやり終える。その後に、酒井のおばちゃんが、旦那さんと三十過ぎの一人息子に朝めしを食わせ、送り出してから店へ来ることになっていた。


 それは、板前が辞めてから、おばちゃんと未華子はそんな段取りで行こうと、親方には相談もせず二人で決めたことだった。


 未華子は、朝のお決まりの仕事を終えると「行ってきまーす」と、いつものように親方と善幸に声を掛ける。すると、「居眠りしちゃだめだぞっ」と、親方の声が付け出しのように出てくる。その後に「気を付けてな」と善幸が言うと、その声を背中で聞きながら店を出て行く。しかし、あの〝衝立事件〟以来、なぜか決まって一旦振り返り、厨房にいる善幸に目線を向けるようになった。その様子からだと、本当は善幸にも「行ってくるね!」、と声を掛けたいのだろう。でも、今まで声など掛けたことがないのに、突然やりはじめたら、親方が変な誤解をしやしないか? そこを気にしているのかもしれなかった。 

 そんなことは余所に、善幸は魚を捌きたくて仕方がなかった。かといって、やらねばならない仕事をすべてマスターしたわけではない。しかし、早く魚を捌きたくてやきもきしていた


 今、親方が包丁の背で細魚の皮を引いている――。シャー、シャーと手早くジッパーを開け閉めするかのような音を立てていた。細魚は、蛇がトグロを巻くように身を縮こませる。それを見ていたら、シャーされた後の背中がヒリヒリしてキューッと悲鳴を上げているかのように思えてならなかった。自分もこのような魚の皮を引く音が出せるようになれれば、一端の板前になったという証しではないか、と思案を巡らせる。

 善幸は、早くそうなるために、今親方が勢い良く皮を引いている手先を、目と耳に覚えこませようとする。だが、余計なことを考えている余裕はない。さっさと先日教わった胡瓜とタコとワカメの酢の物の下拵えをやらなければならなかった。



 客足が途絶える午後二時半を過ぎた。善幸は、親方より先に、酒井のおばちゃんが用意してくれた賄いを食べようと隅のテーブル席に座った。


 何気に、食べはじめた善幸のところへ親方がやって来て話しはじめた。


「冬季から春先の限定メニュー【悠の膳】は、細魚でいくぞ。三月になれば、初鰹が出てくる。細魚は四月頃までだから平行して出すつもりだ。しかし、客も同じネタばかりだと飽きてしまうから……そうだなあ、一月には寒ブリの刺し身と、定番のブリ大根か照り焼きで大盤振る舞いといくか。でも二千四百円じゃちょっとキツイな、良い寒鯖が手に入れば塩で〆て、という手もあるが」


「寒鯖ですかぁ、脂がのってて美味そうですね」


「その時になったら、善幸にも喰わしてやろう。それぞれの魚の味の違いを知っとかないといけないからな。しかし、同じ魚でも時期によって、また脂のノリの違いによってこんなに違いが出てくるんだ。何を餌にするか、その違いもある。それより魚の種類は数えきれないほどあるが、それぞれ味が違うのは間違いないんじゃないか。でもそれは魚に限らない」


「……はぁー」


「なんてこった! と思わないか?」


「えっ?」


 善幸には親方が何を言おうとしているのかさっぱり分からなかった。


「ほら、細魚も旨いから食ってみな」


 善幸は、賄いとして出してくれた細魚の刺し身に目をやった。食べてみる「うん、美味しいですね」と言いながらも、随分と癖のない上品な魚だなあ、と感じた。やっぱり細魚って食するものじゃなくて観賞魚なんじゃないだろうか。

 細魚……。今朝、見慣れぬ薄い三キロ入りの発泡スチロールの平箱が一つだけ、他の箱の一番上に置いてあった。いつも仕入れ業者が、早朝、預けてある鍵で店に入り、注文した魚を厨房に置いて行く。細魚は、見たことのない細っこい魚だったから「この魚、食べるところ、あるんですか?」と親方に訊いてしまった。

 それは、文字通り秋刀魚の半分の細さで、長さは三十センチぐらいの魚だった。それを親方が器用に三枚に下ろしている。それを見て、里芋の六方剥きをしていた善幸の手が止まった。(鰹のような丸々とした魚でも、細魚のようにほとんど身がない魚でも、三枚におろすのかあー、何と手間のかかる魚なんだろう)そう思いながら、親方の捌く姿に見入っていた。

 ある日、一緒に賄いを食べている時、酒井のおばちゃんが「鮮魚を扱っているどんなお店でも、賄いで刺し身が出ることなんてないんだよ」と言っていた。


 親方は、板前がいなくなってから、自主的に動いてくれるおばちゃんや未華子に、感謝の気持ちとして金銭的な面では不可能なので、せめて賄いでその気持ちを示したいと考えたのではないだろうか。 

 親方は、その日のお勧めで出す魚を、賄い分として前もって撥ねておくことがあった。また、食材を問わず鮮度を生かした調理方法で引き出した味を、早く弟子に舌で感じとれるようになってもらいたい、そういう焦りの気持ちもあったのかもしれない。

 善幸が働き始めた時から、親方は、なぜか実の息子のように接してくれていた。


 善幸の食事の時間は、客の出足が悪くなる二時半以降で、その時間は十五分もなかった。決められているわけではないけれど、彼は食べ終わった後、少しだけ食休みすると直ぐ厨房に立った。それは、親方にも早く食事をしてもらいたいという思いからだった。


 未華子は、学校が休みの土日は早朝から手伝いに来てくれていた。食事の時は、善幸と向い合って食事をとっているが、その時の会話は学校での他愛もない話が主で、彼は聞き役に回っていた。二人の食事が終わると、親方はいつも一方的に話しまくるおばちゃんと食べていた。


 おばちゃんは、絶えず店の経営のことを気遣い、辞めていった板前たちが担当していた仕事のうちで自分がやれることはないかと、今でも考えながら動いてくれている。それは、親方の一番の理解者だからやれることだった。

 善幸は、最近になって、そのおばちゃんの深い想いを窺い知ることができた。


 先ほど学校から帰ってきた未華子は、着物に着替えるとレジ台に置いてある暖簾を軒先に掛けにいった。


 休憩している親方は、畳二枚分くらいあるハメ殺しの窓から、向かいの電気屋の看板【家電業界のお人好し 中村電器の馬鹿野郎!】を眺めていた。

 客足が止まった時など、親方は、善幸に独り言のように話し掛けてくることがある。その独り言とは、

「善幸、中村電器の看板をどう思うよ? 最安値では家電量販店にかなわないんじゃないか? そんなに安くは出来ないだろう。先代がいた頃とは違うからな。今は、朝早くから店頭に出す客寄せ乾電池の売り上げと、メーカーからの家電の修理依頼とエアコンの取付けを息子と二人でやりながら生計を立てているようだが、息子のサトシは、父親と喧嘩してから出て行ったきり帰って来やしない。もう、一月半経つかなあ……。何を考えていやがるんだか、あの馬鹿野郎がっ」

 親方は、暫く眺めていた看板から目を落とすと、今度は中村電器の店内の様子を窺っている――。


 天井からぶら下がっている何処にも行く当てのない数多の照明器具は、狭い店内を煌々と照していた。そこに、一人……椅子に座り、机の上に肘をつき、一点を睨みつけている旦那の姿があった。その姿を、親方は小上がりの窓から見つめていた。


 善幸は推察してみる――中村電器の旦那は、一人息子のサトシが帰って来るのを只管待っている。しかしその姿は、殴ってしまった反省をしているようには見えなかった。でも、サトシが帰ってきたら、怒ることもなく、きっと「あっ、そうだ、そうだ、サトシぃ~、明日エアコンの取付があるからさ、父さんと一緒に行くか? どうだ?」とか言って、何事もなかったかのように声を掛けるんだろうな。サトシもきっと「どうしよっかなあー、まあ、暇だし手伝ってやるかあ~」なんて言いながら、次の日一緒に軽トラへ乗り込み現場へ向かう。そんな光景が頭に浮かんできてしまった。

 善幸には、どんな揉め事でも一瞬にして乗り越えてしまうこの親子関係が羨ましく思えた。


 陽が暮れていく――。街灯が付くと同時に、スポットライトが〝看板〟を照らしはじめた。



「いらっしゃいませえー」


 未華子が扉の開く音に反応する。彼女は履物をパタパタさせて近づいていった。親方と善幸は厨房へ戻った。


 今日は金曜日。「どうも~」と言って入って来たのは、週に二、三回のペースで来てくれる三人組の常連客だった。天下りを多く抱える近くの外郭団体の職員で、これといった楽しみも大分減ってきた五十代半ばのおじさんたち。旬を過ぎた大衆魚といったところか。小上がりのいつもの席に胡座をかいた。


「取り敢えずビールで、今日、何かある?」白髪頭にまだ黒いサシがしっかり残っている一人が言った。


「今週から細魚が入荷していますけど」


「細魚? この店で出すのって、はじめてじゃない?」


「あたしが働くようになってからは、出したことはありませんね」


「ほおー、それじゃ食べてみようかな。あと、三、四点を盛り合わせてくれる?」


 未華子は、「わかりました」と元気よく返事をした。


 それを聞いていた厨房にいる親方と善幸、それに酒井のおばちゃんが一寸遅れて動き出した。


 おばちゃんが棚から碧い盛皿を取り出してまな板に寄せると、すかさず親方はその上へ善幸がこさえた大根の敷づまを所々散らした。 

 善幸は、まだ刺し身には触れられないし、何をしようかと戸惑うも身体が動かないでいる。真横で、ただ親方の動きを見ていた。

 親方は、三枚に下ろしておいた心許ない細魚を冷蔵ケースから一掴み取り出した。柳刃包丁の切っ先にそれを引っ掛けると、ひょいと宙で反転させ向きを変えた。

 まな板と目先の宙で細魚を自在に操っている。ほとんど切り身を手に触れることなく切っ先を菜箸のように扱う。食材の善し悪しを知り尽くした職人が、盛皿の上に手間を積み重ねていく。一定のリズムが身体に刻み込まれた職人の動きに無駄はなかった。


 親方の手は、漂白でもしたかのように白く見えた。

                                ―つづく―

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