第六話 衝立が倒れた瞬間から

 求人広告を見て面接に来た時の未華子の第一印象は、〝何でもない普通の女の子〟だったのだが、二ヶ月を過ぎた頃から〝ちょっと気になる普通の女の子〟に変わった。この普通が取れないのは仕方がない。

 それでもこの期間で、未華子のことがえらく気になりはじめたのは確かだ。その大きな切っ掛けとなったのが “衝立て事件” だったのだ。


 未華子は、学校が終わると、家には寄らず直接店に来る。最初にすることとは、厨房で作業している善幸からギリギリ覗ける位置の小上がり席で、誰にも見えないように二つの衝立てを引き寄せ、接客用の着物に着替えることだった。

 着替えている小上がりの位置からは、袖壁があるので通行人からは見えない。厨房で作業している親方の立ち位置からでも善幸の姿が邪魔をし見えなかった。なので、この二枚の衝立ての役割は主に善幸の目線防止用といっていい。そのこと自体は、特段気に留めることではなかった。


 未華子は、先ず撫子色の生地に桜の花が散りばめられた着物と藍色の帯を、バサッと衝立てに掛ける。衝立ては、その重さで数秒間ぐらぐ~らと揺れた。それからのお着替えとなるわけだ。お着替えは一日に二回。これまで、善幸はその光景を見過ごしてきたのだが、ひと月が経つと次第に〝見透かす〟に変わっていった。その理由とは……。そのうちきっと衝立てが倒れる、きっと……そんな予感というより願望があったからだった。


 善幸は、並外れたスケベなわけではなかった。いや、寧ろスケベをロープでギューッと縛り上げると、ベランダに吊るし缶ビールを片手に遠くを睨みつけながらじっと我慢している、そう〝武士は食わねど高楊枝〟的タイプの男だったのだ。でも、その〝衝立て事件〟があった日以来、そんな我慢は何の意味もないことに気づかされた。

 それは、和風の衝立てがいけなかった。濡れたら破けそうな和紙……。人差し指をなめて穴を開け覗きこむ、そんな好奇心の塊だった思春期の頃を思い起こさせた。


 今やるべき仕事として、刻んでおかなくてはならない白菜とキャベツがあった。が、そんなことはどうでもよく、今は刻んでいる振りをしようと決めた。善幸は、親方との間に一方的な衝立てを立てると、手元のスピードを緩めた。監視の目を怠ることは出来ぬ衝立て、その和紙は薄そうなのだが、しかし奥行きを感じさせるほど薄くはなかった。まあ、細かいことはどうでもよく、それは未華子のお着替えを自分の位置から横目で見れるスクリーンと化し、姿態をシルエットでライブ中継していた。これには、いや~もうお手上げだった。一日二回の上映に誰が耐えられよう。頭の中では、深夜のテレビ番組、それよりも高校の頃、友だちと二人で、マスクにキャップを目深にかぶった格好で、初めて見に行った浅草のストリップ劇場を想起させた。


【男友達と二人で行った時の記憶】

 男友達と二人、劇場に向かって歩道を歩いていると、見えてきた垂れ幕【あの、ドッキンコをもう一度あなた様に……】は、一瞬大人の恋愛映画か? と思わせ、一見心地よい響きに聞こえてくる。がしかし、俺としては将来的に成人向けの芸術は徐々に理解していかなくてはならなかったし、世の中的にも必要不可欠であるだろうし、当時の徴兵制度のような誰もが体験しとかなくてはならない義務なのではないか? などと言い訳を考えていたら、そのギャップに眩暈がしてきてしまった。

 高校生である俺らにとって、その〝キャッチフレーズ〟の意図するところが余りにも文学的観念的過ぎて理解しづらいため、なかなか一歩を踏み出せないでいた。

 俺たちは一旦、煌びやかな入口を通り過ぎ、次の信号で反対側の歩道へ渡るとUターンし再び信号を渡った。俺たちは、人通りが薄くなるのを見計らって、流れに逆らわず無言で歩いている。迫ってくる二度目の〝あの垂れ幕〟……。幾度も通り過ぎてしまうようなヘマはこきたくない。相棒に目で合図を送る。と、スーッ、入口へ吸い込まれて行くように、俺たちはその場から居なくなった。



 善幸は、〝何でもない普通の女の子〟が衝立てに隠れると、なんと未華子がストリッパーへと変身してしまうことをこのとき知った。因みに、酒井のおばちゃんは雨の日以外は家で着物に着替えてから店にやって来る。


 ある日のことだった。いつものように、未華子は二つの衝立てを手前でくっ付けガードを固めた。

 善幸は、上映中のスクリーンを見やすくするためには、目線を水平に保つ必要があった。そこで、いつもより大根を高めに持ち上げた体勢で桂剥きをすることにした。手首に負荷が掛かる。なんとも遣り辛い……。


 チラチラッと目線をスクリーンに向ける……。と、向かって左側の衝立てに掛けてある着物が若干揺れている。これはいつものことで心配はいらなかった。未華子は、帯も着物も同じ衝立てに掛けていた。 

 もう一方の右側の衝立てには何も掛かってはいない。つまり、シルエットを邪魔するものは一切無いということだ。ここで、妙なことが頭に浮かんだ。

 彼女は、和紙が貼られている衝立てなのだから、自分の着替えている影絵を見られてやしないか? と思わないのだろうかということ。それも、見ることができるのはたった一人……この俺だけだ。それを承知でやっているとすれば、ストリッパーの素質は十分にあるな、おぬし、なかなかやるのおぉ~、と善幸は関心してしまった。


 照明は、大切な役割を果たしていた。着替えている彼女の背後の壁に掛かっている和風のブラケットが、店内の照明が暗めなだけに脱いでいく行程を生々しく映し出していた。


 ――どうやら折り返し地点に入ったようだ。今、彼女はスキージャンプで飛び出す寸前の屈んだ姿勢になっている。脱ぎっぷりの指導は受けてはいないはずだが、彼女の態とらしく見えるそわそわ感がシルエットから伝わってきた。お着替えに苦労している様子……。布が擦れる音……。頭部の三分の一ほどが見えていて、聞こえてこない他の音が耳障りだった。


 と、突然、“パーンッ、パーンッ” 二度ほどケツでも引っ叩くような音がした。ドキッとした。そう、言わずもがな、二枚の衝立てが倒れたのだ。しかし、倒れる瞬間は見ていなかった。半分下敷きになっている着物と帯が〝劇場〟で踊り子が脱ぎ捨てていく光景と重なった。

 この突発的出来事は、〝近日中に間違いなく倒す〟という善幸の願望が叶った瞬間でもあったのだ。


 親方にとっては気にするほどの音ではなかったようだ。椅子でも倒したのだろうと思い、仕事を続けていた。

 倒してしまった原因は、衝立てを壁側へ引き寄せすぎていたからだった。壁と衝立ての間が狭すぎて、ゴソゴソと脱いでいるうちに、膝か尻が当たって倒れてしまったのだろう。だが、心配はいらない。器を割った訳ではないし、未華子が怪我をした訳でもないのだ。


 善幸は、着替え時のタイミングを計って大根の桂剥きを始めた訳ではなかった。大根を、和紙より透けるように剥きたい、と思っていただけ、そう思い込む……。


 倒れた時、未華子は、足袋は履き終わっていて、裸に上下の下着を身につけた格好で背中を丸くし、両手で胸を押さえていた。下半身の絵面は、より深く折った膝をもう一方の膝に強く押し付けている。〝何でもない普通の女の子〟の露わな肢体が善幸の眼前に晒されてしまった。


 未華子は、早く衝立てを起こさなくてはならなかった。酒井のおばちゃんがいたら「あらら、まあまあ……」などと言い、真っ先に衝立てを起こしてくれたことだろう。しかし、おばちゃんはまだ来ていない。店で遅い昼食をとった後、一旦自宅に帰り、また夕方六時に来ることになっていた。救いなのは、通行人からは見えない小上がりで着替えていたことだった。


 未華子は、隠すことを断念し、手早く衝立てを起こそうとしているが、帯と着物の重量が邪魔をして手古摺っていた。善幸は、こんなの浅草の劇場じゃ絶対思いつかない企画モノだな、そう思った次の瞬間、ブラ及びお尻を包んでいる下着が真っ白すぎて強烈なハレーションを起こし出した。まさに、大人のワンダーランドで引き起こった超常現象だろうか。しかし、善幸の浅草界隈で培われた眼力の条件反射は、強烈なハレーションで思わず目を細めてしまうという一般人のそれより勝っていた。言うまでもなく、彼の目は見開いたままだったのだ。


 何でもない普通過ぎる真っ白な下着までもが、自らフラッシュを焚き続け、鮮明に善幸の網膜へ焼き付けてしまった。きっと数年間は色褪せることはないだろう。   


 えーと……スタイルは良い? 普通? そんなことを考えている自分に赤面していたら、未華子と目が合ってしまった。

 善幸は、ダランと垂れ下がっている桂剥きした状態の大根を、さっと額の高さまで持ち上げた。それを和紙の代わりにし、シルエットで相手の様子を窺おうとしたが、残念なことに、そこまでは透けていなかった。 善幸は(もっと薄く剥かなきゃ親方に怒られちゃうなぁ……)と、呟いてみる。



 期せずして、善幸は〝何でもない〟且つ〝普通〟に潜在している吃驚とラッキーがあることを、【和食処 悠の里】で包丁の扱い方と共に早くも学んでしまったのだった。


                                ―つづく―


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