タヌキの木

鈴木空論

この木なんの木タヌキの木

 とある休日の昼のことだった。

 これといって予定もなく、天気もいいので近所の山を散策しに行ったところ、一匹のタヌキが私の足元を駆け抜けて行った。


 タヌキは何やら急いでいるようで、こちらを気にする様子もなく本道から逸れた細い獣道へ入って行く。

 なんとなく興味が湧いたので後を追って行ってみると、ひらけた場所に出た。


 まるでドームのように木々で囲まれた空間だった。

 その広場の中央にはひときわ目立つ大樹がそびえ立っている。

 見たことのない木だった。


 何か特別な場所のように見えるが、この木は一体なんだろう。

 そんなことを考えているとガサガサと物音が聞こえた。

 反射的に物陰に身を隠すと、間もなく茂みの中から先程のタヌキが姿を見せた。


 タヌキはクンクンと鼻を動かしながらしきりに大樹の周りをうろうろしていた。

 それからしばらくして目当てのものを見付けたらしく、嬉しそうに鳴き声を上げると何かを咥え上げた。


 それはどうやら一枚の葉のようだった。

 大樹の枝から落ちた葉だ。


 そんなもので一体何をするつもりなのか。

 私は不思議に思いながらもさらに様子を窺っていると、タヌキはその葉を自分の頭に乗せた。



 すると、ぼわんっとタヌキが煙に包まれ――タヌキの姿は眼鏡をかけたスーツ姿の男に変わってしまった。



 私が唖然としていると、タヌキだった眼鏡の男は少しズレていたネクタイを直し、肩に付いた土を軽くはたいて落とすと、何事も無かったように元来た道をさっさと引き返して行った。


「なんだったんだ、今のは……」


 不思議なこともあるものだ。

 私は男が戻ってこないのを確認すると物陰から出て大樹の前に立った。

 大樹の周りには無数の葉っぱが落ちている。


 私はその内の一枚を拾い上げると、先程のタヌキの真似をして試しに頭に乗せてみた。



 ぼわんっ。



 私は煙に包まれ、次の瞬間狸になっていた。

 驚いて別の葉を乗せると今度は人間の老婆になった。

 また別のを乗せるとなんと次は巨大な毒虫。

 どうやら葉っぱを乗せたとき頭の中で想像していた物に変化してしまうらしい。


 それならば、と私は自分の姿を思い浮かべながら葉っぱを乗せた。



 ぼわんっ。



 煙が消えたとき、私は元の姿に戻っていた。

 私はホッと胸を撫で下ろした。


「いや、元に戻れてよかった。しかし戻り方さえわかっていれば中々楽しいかもしれないな。いい気分転換になるし、またここに来てみるのもいいかもしれない」


 未知の体験を楽しむことができた私は上機嫌でその場を後にした。

 そんなに長く留まっていた覚えはなかったが、山を下りると時刻はもう夕方近くになっていた。






 休みが明けるといつも通りの日常生活が始まった。

 朝起きて飯を食べて、会社で働き、帰ってきて飯を食べて風呂に入って寝る。

 ひたすらその繰り返し。


 そんな中であの葉っぱによる変化のことを思い返してみると、どうも現実味がない。

 ひょっとして全部夢だったんじゃないか。そんなことを考えたりもした。


 しかし、それが夢などではなかったことを私は思い知らされることになった。






 長い平日がようやく終わり、週末がやって来た。

 そして土曜の朝に私が目を覚ますと、私の体は狸に姿を変えていた。

 何が起きたのかわからず私はパニックになった。


 思い当たるとすればあの広場の変化の葉だ。

 私が大急ぎで大樹の元へ向かうと、あの眼鏡の男が立っていた。


「おや、あなたは……逃げないところを見ると、本物のタヌキではないようですね。するとこの大樹の葉を使ってしまったお仲間ですか」


 眼鏡の男は私に気が付くと、何とも言えない笑みを浮かべた。

 憐れむような、蔑むような笑み。友好的とはとても言い難い笑い方だった。


 事情を知っているらしい男に私は必死になって問いただした。

 一体これはどういうことなのか。

 どうして私はこんな姿になっているのか。


 タヌキの姿では喋ることなどできず、ただの鳴き声にしかならない。

 しかし男は私が何を言いたいのか理解している様子で説明を始めた。


「この大樹は自分の葉を頭に乗せた人間をタヌキに変えてしまうのですよ。元の姿に化けることもできますが、一枚の葉で変化していられるのはせいぜい一週間程度。効果が切れると今のあなたのようにただのタヌキに戻ってしまうのです」


 私はそれを聞いて愕然とした。

 そんな私の反応を見て男は随分満足げだった。

 苦労する仲間が増えて嬉しい。そう言いたげな顔をしている。


「タヌキに戻らないようにするためにはこの葉を使って化け続けるしかありません。ただし厄介なことに、化けるのに使えるのはこの大樹から落ちて間もない新鮮な葉だけでしてね。だから定期的にこの大樹の元を訪れる必要があります。……元に戻る方法ですか? そんなものはありません。私もあなたも、完全な人間には二度と戻れませんよ。あなたも運が悪かったと思いますが、興味本位で手を出したのが悪いのです。せいぜい諦めて受け入れる事ですね」


 説明を終えると男は足元の葉を一枚拾い上げた。

 どうやら男も葉を取りに来たらしい。

 もうここに用はないというように男は私に背を向け、そのまま立ち去ろうとした。

 しかし少し進んだところで思い出したように振り返り、こう言った。


「そうそう。同じ境遇の先輩がたから以前頂いたアドバイスをあなたにも教えてあげましょう。家を買って庭にこの木の種を植えなさい。その種が立派に成長して葉を付けてくれるようになればいちいちここへ来る必要も無くなるそうです。もちろん育つには数年かかりますから、それまではこうして定期的にここへ葉を貰いに来る必要がありますがね」


 そうやって自分の種を育てさせるのがこの木の狙い――仲間を増やす戦略なのでしょう。


 男はそう言った。

 しかし私にはそんなことはどうでもよかった。

 ただこれからどうやって生きて行けばいいのか。 

 遠ざかっていく男の背中を見送りながら、ただ途方に暮れていた。

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