6

 目を開くと、見知らぬ天井が見えた。

 そっと首筋に、暖かい感触が触れる。振り返ると、隣に横たわる男の、いつもの灰青色に戻った瞳が、ひどく苦し気にマナを見つめていた。


「ごめん。ひどいことをした」

「……いいのよ」

「……愛してる、マナ」

「わかった、わかったから……」


 まるで幼子のようだ。

 優しくキスをして、銀糸のような髪に手を差し込み、地肌を軽く梳いてやる。幸福そうに目を細める様子に、知らずに笑いがこみ上げる。


「だめだなあ、私。意志が弱くて。もう絶対、あなたとは会わないつもりだったのに」


 つい口に出してつぶやくと、途端に瞳を真っ黒に曇らせぎゅうぎゅうと抱きしめてくる男の様子に、マナは失言だったと唇を噛む。


「大丈夫、大丈夫よ。……愛してるわ」


 シャリシャリと、男の地肌を指で掻く。ようやく、男の力が弱まった。

 しばらくマナの肌の感触を楽しむように肩口を撫でた後、ごろりとソーマは仰向けになった。


「マナ。元の世界に、帰りたい?」

 尋ねる声は、不自然に平坦だった。


「使ってしまったから、分かっただろう。君が森で聞いた声は、俺のものだ。俺と、俺の弟だけが使える、『呪声』だよ」


 ソーマは一度息を詰めると、一気に言った。


「今の俺には、君を元の世界に戻す力がある」



 しばらく、沈黙が落ちた。


「ずっと、考えていたの。あの森を離れてから」

 マナは静かな声で話し始める。


「この世界に来た当時、私は異端の存在として、暴力も振るわれたし、屈辱的な扱いも受けた。でも多分それは、私が魔力なしだっただけではなくて、この世界に真剣に向き合っていなかったせいもあったと思う。早く戻りたい、そのためにはどうしたらいいか、それしか考えられなかった。誰かと親しくなることも、自分の医学の力をこの世界の人のために役立てることも、考えたこともなかった。あの時あなたを助けに行ったのも、あの声を聞いたから。何とか何か手掛かりが欲しい、そのためだけだった」


 マナは微笑んで、ソーマの手を握った。


「でも、あなたと出会って、好きになって。あの森が焼け落ちるのを見た時、心に決めたの。いつかどうにかしてまた会える時まで、私はこの世界で、生き抜いていく。そのためには、自分もこの世界の人々に、何かを与える立場にならなければ、って……。それで、治療院に押しかけて、頼み込んで働かせてもらった。いろんなことがあったけど、今の私は、この世界に、この世界の人たちに、受け入れてもらえてる」


 そこでマナは、軽くため息をつく。


「まあ、凱旋パレードであなたを見た時には、正直、度肝を抜かれたけどね。凄腕の魔術師だとは分かっていたけど、そこまでの立場の人だったとは。もう会わない方がお互いのためだって、思ったわ」

「俺にとっては、その立場ってやつが、この世で一番厄介な呪いなんだ」


 ソーマの声は、苦かった。


「俺は王族の後継者争いに巻き込まれて、守り切れずに双子の弟を亡くした。君をこの世界に呼び寄せたのは、今際いまわの際の弟の声だった。でも多分、君がこの世界に現れた時には、弟はもう、死んでいた」


 マナの胸が冷たくなる。そっとソーマにすり寄ると、彼はマナの肩を抱き込んだ。


「本来は、呼びよせた者にしか、帰す力はない。でも、俺たちは、双子だから。俺は弟の魂と『最後の会話』をして、君を帰す力を、譲ってもらった。ほんとはあいつを成仏させるために、『最後の会話』をもっと早くにするべきだったんだ。俺が、現実を直視できずに、逃げていた……」


 ソーマの声が微かに震え、マナは彼の胸に、鼻先を擦り付ける。


「君に出会って、前に進む勇気をもらった。でもそれで都に戻ったら、いきなり、戦争だもんな……」


 図らずも国境の小競り合いで磨いた術で、自分でも驚くほど強くなっていた。ソーマは苦笑いする。


「戦争が終わって、焼け野原になった森に帰って。本当にずっとずっと、探したよ。もちろん、君に逢いたかった。でも、それだけじゃない。君が望むなら、俺は、君を元の世界に、送り届ける。そのために、君を、探し続けたんだ……」


 ソーマの穏やかな声に、マナの胸がチクリとする。


「ソーマ……」

「マナ、元の世界に、帰りたい?」


「……ソーマ。あなたの本当の気持ちを、聞かせて」


 ソーマの腕が固くなる。彼はしばらく、身じろぎもしなかった。

 それから、彼の胸が大きく膨らみ、苦しげな声を絞り出す。


「……帰らないで。……俺の、そばに、いてほしい」

「そばにいるわ」


 マナはゆっくり、固く閉じられた彼の目尻にキスを落とす。そしてそこにゆっくりとにじみ出す涙を、やさしく吸った。

 



『とりあえず、マナをこの世界に引き留めた功績は、認めざるを得ないよな。あのスカしエロ魔術師』

『そうよ、ね。なんか癪に障るけど』


 満月を眺めながら、土の精のモンテスと、風の精のレイラは、ぼそぼそと会話する。


『にしてもすんげえ、綺麗な月だな。俺がマナにもらった、オハジキみたい』

『だ・か・ら。あたしがもらったオハジキのほうが、綺麗なんだから!』


 いつものくだらない小競り合いを繰り広げながら、2体の精霊は、夜空を眺め続ける。


 漆黒の夜空には、黄金色の双子の月が、この世界のすべてを祝福するかのように、輝いていた。

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遠い呼び声 霞(@tera1012) @tera1012

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