5

 からんからん。


 来客を知らせる陽気なドアベルの音。

 表の店員のターニャの明るい声がする。

 店の奥の部屋で、目を落としていた書物から顔を上げ、マナはゆっくりと伸びをする。


 春の日だまりの心地よさは、殺人級だ。油断するとあっという間に、眠りの沼に引きずり込まれる。特に、難解な文字を丹念に追っている、今の自分のような者にとっては。


 言葉を聞いたり話したりすることは、この世界に来た直後から、全く問題なくできた。それは、相手の魔力のなせる業らしい。この世界にはただ一つの言語しか存在しない、あるいは一人一人が違う言語を話している。それらは魔力を介して、過不足なく意思を伝達する。

 しかし、書き言葉となると話は別だ。地域別、階級別に様々な文字と言葉の体系があり、この世界で生まれ育ったものでも、全てを使いこなすことは不可能に近い。

 文字を読めない人間も多く、生活に支障はないけれど、マナは今、この世界の文字を学ぶことに挑戦していた。


 出来れば、系統だった学問に耐えうる書き言葉を習得したい。そしていつか、自分の持つ知識を、書物としてこの世界で医術を志す後世の若者に残したい。それが今の、マナの目標だった。


「ねえ、アイナ……」


 ふいに店と部屋を隔てるドアが開き、眉を下げたターニャが顔をのぞかせた。困った客が来た時に見せる表情だ。


 マナが立ち上がりかけた時、ターニャの背後に人影が立った。瞬間、ターニャの姿は消え、その人影はするりとドアから部屋へと滑り込むと、背後のドアがぴたりと閉まる。


 目の前に立ったのは、長いローブに、深くかぶったフードの細身の人物だった。はらりとフードが落ち、その人物の灰青色の瞳が露わになり、マナは息を飲む。


 男が一歩、歩を進める。マナは一歩、後じさり、乾いた唇を舐めた。


「モンテス、足止めして」


 マナの声と同時に、男の膝から下は床から生まれた岩にがっちりと埋め込まれる。

 くるりと身をひるがえすと、マナは裏口へと一散に駆け出した。


 瞬間。

 パキン、と軽い音がして、マナは後ろから力強い腕に抱きすくめられていた。


『なにすんだよ畜生。マナ、ごめん。こいつ、やべえよ』


 ぐわんぐわんと鳴る耳に、モンテスの声が微かに聞こえる。


「マナ……」


 背後の男は覆いかぶさるようにマナを抱き込む。その身体と、首筋にかかる息の熱さに、マナの耳鳴りはさらにひどくなり、視界までが狭まり始める。


「逢いたかった。どれだけ、探したか……」


 懐かしい声に、体が勝手に動きそうになり、マナは唇をかみしめる。


「駄目よ。あなたはもう、ソーマじゃない。休暇はとっくに、終わったのよ」

「……何を言っているのか、分からない」


 男の声に、苛立ちが混じる。


「愛している、マナ。どうして、都に来てくれなかった。何度も使いを出したのに」

「だめよ。あなたはもう、気楽な『森の番人』じゃない。この国の王子で、魔術師を統べる立場の、人なのよ。魔力なしの異界の女なんかに関わっちゃ、いけないわ」


 男の腕の力が、強まった。


「愛している、マナ」

「だめよ。それは、命を救われた、すり込みみたいなものよ。患者が医者を好きになることなんて、日常茶飯事の……」

「それのどこがいけない」


 突然、男の声色が変わった。



 ぎくりとマナの全身が強張る。


(この、声は)


 忘れもしない、この、響き。


「……っ!」


 その声に、マナの心は丸裸にされる。

 マナはくるりと向き直らされ、男の瞳が正面から彼女をのぞき込む。


「マナ……」


 ブルートパーズの輝きを帯びた、彼の瞳。その美しく懐かしい顔が、視界の中で、涙に覆われぐしゃぐしゃに歪んでいく。

 

「……好きよ、好きよ、……愛してる。……ずっと、逢いたかった」


 たまらず漏れ出した言葉に、男はきつくマナを抱きしめ、そして唇を貪った。



 触れられるすべてが熱い。

 男の熱いまなざしが、マナを捉えて離さない。彼の手はスカートを滑り降り、強引に下着の中へと侵入する。


 これまで見たこともない獣じみた炎を宿す瞳と、荒々しく熱い手のひらと指に翻弄され、マナは薄く開いた唇から、繰り返し浅い吐息を漏らす。


 マナが息を飲む間もなく、男は一息に、最奥までマナを貫いた。


「ああっ」


 弓なりになったマナの上半身を抱きすくめ、男はマナの鎖骨に歯を立てる。


「愛してる、愛してる。もう、俺から、逃げないで……」


 男は激しくマナを突き上げながら、マナの胸に顔を埋めて、むせび泣いていた。喘ぎ声を上げ続けながら、どうしようもなく甘く鋭い痛みがマナの胸を満たす。


 あんなに優しくて穏やかな人に、ここまでさせてしまう程、私は彼を追い詰めてしまった。こんなになってしまう程、彼は私を、求めていた。


 マナの視界は、徐々に白い閃光で満たされ始める。

 何度も絶頂を繰り返しながら、階段を上がるように徐々にその快感は、強さを増していく。すべてを引きはがされむき出しにされるようなその感覚に、マナは本能的に、恐怖する。


「あ、あ、や、駄目、やめて、やめて、……おかしくなる、おかしく、なるからあっ!」

!」


 その、不思議に響く声を耳にしたとたん、マナは激しく痙攣し、ガクガクとのけぞる。そしてそのまま、意識を手放した。


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