第194話 脱出
グレイヴから発生した黒い泥は無限に広がり、どんどん石畳を侵食していった。
「これはなんだ⁉」
石畳の隙間から生えている草にその黒い泥が触れると、シュウゥ……と音を立てて枯らしていく。
それはまるで生命力を奪っていくように見えた。
「魔界の泥……魔界に繋がっていて、〝こっち〟に存在する魔力を〝あちら側〟に還す反転の泥……あれに触れるとこの世のものは魔力を一瞬で吸い取られ———」
リタは後退しながら、俺に説明をする。
「———死に至る」
「————ッ! 走れ!」
俺は指示を出し———隣に茫然と立ち尽くしていたアンの手を引く。
「何をやってる⁉ 急がないと死ぬぞ!」
「でも……ボスが……」
「…………!」
俺は後ろを一瞬振りむいて、既にただの黒い泥山となったグレイヴ・タルラントを一瞥する。
「やつはもう無理だ!」
「…………ッ!」
アンは唇をかみしめて、目に涙を溜めたままグレイヴに背を向けた。
そして、小さく「ごめん」と呟き、街の外へと駆け出した。
「急ぐぞ‼ 下手すれば手遅れになる!」
号令をかけて、迫りくる泥の濁流から逃げる。
その黒い泥は、グレイヴ・タルラントだった存在から無限に沸き上がり、古代都市ゼブルニアを満たしていく。
本当に洪水のように街の隅々まで水流が走る———。
「急げ! アン!」
アンは遅れていた。
俺とリタに比べて少し後方で、ハァハァと荒い息を吐き、
「あ、あんたら……速すぎ……ペースが……!」
アンは俺達とは違って、完全な人間だ。
俺は、シリウス・オセロットの体は魔王の細胞が入っているとかでチートなスペックを持っているし、リタは魔族だ。
俺達の一歩一歩は長く、忍者のように跳躍して高速移動をしていた。
一方でリタは普通に走っていた。
「わかった……! なら!」
俺は少しだけ立ち止まり、リタが追い付くのを待ち、
「なに?」
「
彼女の手を取ると、その身体を抱え上げた。
「———キャッ!」
そして背中と膝の下に手をやり、ガッチリと力を込めて固定する。
「首に手を回せ! そしてしっかりと握りしめろ‼ 振り落とされないようにな!」
「———ッ!」
お姫様抱っこの形だ。
しっかりとアンの体を俺の腕の中で固定させると、そのまま脱出劇を再開した。
女の子と密着している気恥ずかしさも、格好をつけている高揚感もない。
ただ、必死だった。
早く、全員を街の外に出そうと必死だった。
そんな俺の顔を、ほんのり赤い顔をしてアンが見つめていたのにも気づくことなく———。
「———もうすぐ出口だ!」
俺達が来たハルスベルクの下水路に続く洞窟まで、あと一歩と迫っていた。
黒い泥は、だいぶ距離がある。
急いだのが功を奏したのだ。
「急いで!」
それでも何があるかはわからない。
一足先に出入り口に辿り着いていたリタは、その壁に手をかけて俺へ向かって手で扇ぐ。
「……ロザリオとナミは⁉」
そこで、ようやくはぐれた彼らのことを思い出す。
俺達はこの古代都市ゼブルニアに来た時にグレイヴ捜索のためにパーティを二分割した。
そしてここに彼らは来ていない。
『———馬鹿め! それは眠り粉だ!』
グレイヴのセリフを思い出す。
『あのナミ・オフィリアでも一呼吸をすればたちまち倒れ伏す強力なやつだ!』
奴は、俺に眠り薬をぶつけた時、そう言っていた。
俺は古代都市ゼブルニアの西側を見る。
そこには小神殿が三つ等間隔に並べられていた。
そのうちのどこかに———まだロザリオとナミは眠り、倒れ伏しているのだ。
「……リタ。アンと共に先に地上に行け」
「ご主人様は?」
「ロザリオとナミを救出する」
「でも‼ もう魔力の泥はすぐそこまで……!」
リタの言葉通り、街は既に黒い泥に沈みかけていた。道路と呼べる部分は完全に浸り、壁や建物が黒い沼から頭を出している状態だ。
「……もう手遅れかもしれない」
その光景を見たリタが呟く。
彼女の言葉には同意する。だがしかし———、
「アンを頼んだぞ! リタ!」
俺は腕に抱えたアンを地上に降ろし、リタの方へ押しやると、彼女はリタに受け止められながら俺を見る。
「あ、あんた!」
心配そうなアンの瞳。
だがそれを振り切り———、
「急げよ!」
言い残し、ロザリオとナミがいるであろう西側の小神殿へと向かった。
建物や壁の上を跳躍し、黒い泥に触れないように……。
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