第36話 誰も知らない、アンだけが知る秘密。

 ギャア……! ギャア……!


 怪鳥の鳴き声とドスドスと地鳴りを伴う足音。


 すぐ近くを魔物が通っていく。


「ズ~……ズ~………」


 そんなことも知らずに、シリウス・オセロットは寝息を立てて、安らかな顔で眠っていた。


「……………」 


 そんな彼を、アンは膝を抱えて見下ろしている。

 彼女は、彼女たちは現在、大樹のうろの中にいた。古い大樹の内部が朽ち空洞となり、人が身を隠すだけの小さな空間ができていた。


「ハァ~……」


 頭を抱える。


「何をやっているんだ……あたし……」


 仇に助けられ、仇を助け……本当にこれからどうしていいのかわからない。


「ズ~……ズ~……」


 眠り続けるシリウスの横顔を見つめる。

 穏やかな顔だ。とても極悪非道の大悪党とは思えない。

 だが、彼のせいでアンの家族は、生活はメチャクチャになったのは事実だ。


オレはお前の仇。それは変わりない……』

オレはお前の母親を犯した男だぞ?』


 彼の———先ほど彼自身が言った言葉が頭によぎる。

 そうだ———こいつは、あたしの仇だ。

 奴の無防備に横たわる姿を見つめる。


「…………」


 コイツがいい奴、悪い奴……いつまでそんなことを悩んでいるのだ。

 事実は一つ———こいつはあたしの父親を殺した。それだけだ。

 その事実だけがすべてだ。


 何を、迷って———助けているんだ、あたしは。

 コイツを殺すために……あたしは全てを捨てたんじゃなかったのか?

 腰にある柄に、手が触れる。

 神経が研ぎ澄まされる。 

 スッと鞘からナイフを引き抜く。


「———ッ」


 もう、躊躇わない。

 シリウス・オセロットしか見ない。


 ———親の仇しか見えない。


 ナイフを握る手に力を込めて、彼の首筋一点を見つめる。


「これで……すべて終わる……!」


 この場でこいつを殺してしまえば、殺すことができたら、もう二度と煩うこともない。父母ちちははの無念を晴らし、過去の自分に囚われずに生きていける。


「そうだ———今こそ……!」


 復讐の時———!


 シリウスは今眠っている。彼の異常な魔力による防壁も、今は機能していないはずだ。

 試しに首筋にピタリとナイフの先端を当ててみる。

 ピタリと、刃が皮膚に触れた。

 少しだけ力を入れてみると、切っ先が押し込まれ、シリウスの綺麗な首筋に小さな傷ができ、一滴の血が流れ始める。


 ———いける。

 ———殺せる。


「ハァ……ハァ……ハァ、ハァハァハァ……‼」


 呼吸が荒くなる。

 これでいいのか? という声と、やれ! という声が頭の中で反響し合う。

 シリウス・オセロット。彼を殺すのは、殺せるのは———今しかない!


「———シリウス・オセロットッ! 覚悟……!」 


 目をギュッとつむり、切っ先をグッと、彼の首へ向けて押し込める————ッ!

 刃は皮膚を、喉を貫き、赤い血が噴き出———、


「————ッ!」


 その光景をアンがイメージした瞬間だった。


 シリウスの目が———カッと見開かれた。


「な———⁉」


 起きた———⁉

 このタイミングで———まだ、ナイフは完全には彼の喉に到達してはいない。

 だが、シリウスの開いた眼はギョロリと動き、アンの顔を捉えた。

 そして———、 


「———誰じゃ? お主は」


 聞いたことない声がした。

 シリウスの喉から発せられた、地の底から響くような声。


「————ッ⁉」


 そして———状況が一瞬にして変わった。


 シリウスの手がアンの首に伸び、喉元を鷲掴みにし、彼が起き上がる勢いのまま、うろの壁に思いっきり全身を叩きつけられる。


「ガッ………ハッッッ⁉」


 背中を打ち付けられ、肺の中の空気が全て外に出る。

 そしてシリウスが更に右手に力込めて、喉を一層締め付ける。


「ぐああああああっっっ………!」


 頭に血が上り、目が見開かれる。 


 苦しい……! 息ができない……!


「ふむ……これが新しいのわれの器か……」


 シリウスは……奴は自分の体の具合を確かめるように見下ろしたり、手をくるりと回して具合を確かめたりしている。


 ———誰だ……?


 シリウスだが———シリウスじゃない。

 雰囲気が別物だ。

 全身から漂う黒くよどんだ魔力の空気が、今までにアンが感じたことがないほどの恐怖を伝える。


「……ふむ、で、わっぱ。お主は何者じゃ?」


 シリウスの体の中にいる何者かの目が、アンに向けられる。


「ガッ……ハッ………! グッ……!」


 質問に答えようにも、喉を締め付けられているのだから、声を発するなどできようもない。アンができるのはうめき声を発することだけだ。


「おい……われは何者じゃと聞いておるんじゃぞ?」


 だが、シリウスはそんなアンの反応を楽しむように、更にギリギリと手に力を込めた。


「ガアア……!」


 喉が締め付けられて、更なる苦悶の声がアンの喉から漏れる。


「お主、今この器の体を壊そうとしたな……ということはわれの敵か? この体にわれがいると知っての狼藉か? それとも……」


 シリウスが指で、アンが先ほどつけた傷をなぞる。


「———ッ⁉」


 ———傷が、消えた。


 アンの目の前で、手品のように一瞬でシリウスの首に付けた傷が消えてしまった。

 まるで、最初からそんなものなかったかのように。

「……ただ単に、この器の男が嫌いなのか?」


 ギリリ……!


「ギギ……‼ ィ……!」


 締め付けが一層強くなり、アンの目がグルんと回る。


 意識が———遠のいていく。


「さぁ、答えて見せろ……さぁ! さぁ‼ さぁ‼‼」


 嗜虐的に笑うシリウスは、徐々に徐々に、アンの首を絞めつける力を強くしていった。


 ———殺される……死んじゃう。


「ぇ————………」


 アンの身体が限界を迎えた。

 全身の筋肉が弛緩し、舌がだらんと垂れ下がり、太ももの間を水が流れる。

 あぁ……、このまま死ぬんだ、と思った時だった。


 ス—―—ッと、シリウスの手が離された。 


 拘束が解かれた彼女は崩れ落ち、濡れた地面に手をついて全身で息をする。


「ガハ……ッ⁉ ヒュ~……ヒュ~……ヒュー……!」


 体が求めるままに全身で息をする。


「フフッ……ハッハッハ‼ 冗談じゃ冗談! ちょっとしたお茶目じゃよ。お主を殺したところでわれには何の得も、害もない。ただお主がこの器を壊そうとしておったから、脅しただけにすぎん」


 冗談や、脅しでは済まない……本当に———殺されるかと思った。


「カハッ、ハァ……ハァ……あんた、あんたは……誰? シリウス・オセロットじゃない……の?」

「シリウス? それがこの体の人間の名か……いや、待て……おかしい……この体……」 


 シリウス? が眉間にしわをつくり、人差し指を当てて考え込む。


「フッ……! 転生とは! するものよの……! このような面白き存在に巡り合えるとは……」

「……?」


 何か、勝手に理解わかったようにシリウスはフッと笑い、アンに向き直る。


わっぱ。お主、われが誰かと尋ねたな? 教えてやろう……われは———」


 腰をかがめて顔をグッと寄せ、彼は自らの正体を告げた。


「———人が、〝魔王〟と呼ぶ存在モノよ」

 

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