第37話 アリシアの危機

「ん……?」


 静かに寝ていたアリシアだったが、何となく嫌な予感がして、目を開く。


 何者かの体温を身近で感じる。


 視線を天井へ向ける。


「……ァリシアァッ……!」


 ミハエルの顔が———間近にあった。

 目を閉じて唇を突き出して、今にもアリシアの頬にキスを落としてきそうなほどの距離だった。


「キ———ッッ⁉」


 思いっきり蹴り飛ばした。


「ぐえッ⁉」


 ミハエルの腹をまず膝で抉り、折りたたんでいた足を一気にピーンと延ばして、ボールを蹴るように一気に彼の身体を蹴り飛ばした。

 テントの壁に彼の身体が当たり、骨組みが軋んで形が崩れる。

 天井を作っていた布の固定が外れて垂れて床に落ち、半壊状態になってしまった。


「な、何をするんだッ———⁉ アリシア⁉」

「……? ……? ……ッ⁉」


 アリシアは自らの体をペタペタと触り確かめる。

 寝起きで、何が起きているのかがさっぱりわからない。

 そして、寝る直前まで自分が何をしていたのか、なぜこんな場所にいるのか、徐々に思い出してくる。

 ミハエルと、ロザリオと一緒のテントで寝ていたんだ。

 目をテント中に走らせる。


 ロザリオの姿は———ない。


 腹を押さえて、こちらを睨みつけるミハエルだけだ。

 現状———彼と二人きり———。


「………ッ⁉」


 着衣の乱れを確かめる———。


「ホッ……」


 ない。

 遅れて、自分がどんなに危険な状況に陥っていたのか自覚した。

 年頃の女の子が、男と寝所ねどころを共にするその危険性を。

 急に恐怖がこみ上げ、それを打ち消すようにアリシアは激昂した。


「何をするんだは……こっちのセリフだ! どういうつもりだ⁉ ボクを襲うつもりだったのか⁉ 眠っているこのボクを⁉」


 慢心があった。

 自分は騎士なのだから、寝ている時に襲われても物音で起きて剣を掴んで撃退することができるだろう———と。

 だけど、起きることができなかった。

 当然だ。

 敵は味方の顔をして、物音を立てずに、至近距離にまで迫っていたのだから。自分を倒すべき敵じゃなく、肉欲を満たすための道具としか見ずに、逃げられることだけに警戒して……捕食をするように近づいて来た。

 ミハエルは自分に対して敵意を向けていない。

 つまりは、徹底的に自分より弱い存在だと思っているということだ。


「ギリ……ッ!」


 それが何より悔しかった。

 一人の人間としてではなく、女としてしか見ていない。

 ロザリオという敵がいなくなれば、好き放題にできる、弱者としてしか、彼の目には自分が映っていなかったのだ。


「何を言っている、アリシア! 夫の愛を拒むのか⁉」 


 ミハエルはそこまで深くは考えていないのだろうが、アリシアが既に自らのものであるかのような言動で怒りをあらわにする。


「何が夫だ……ッ! 意識のないことをいい事に好き勝手しようとして……最低な人間だとは思っていたけど、そこまで下衆げすだとは思ってもいなかった!」

「下衆だと⁉ 将来の夫に対してその口の利き方は———!」


「いい加減鬱陶しいんだよ‼ 夫、夫と! それしか言えないのか⁉ はっきり言うぞ、ミハエル。いや、ミハエル・エム・リスタ・プロテスルカ‼ ボクは君のことが嫌いだ!」


「————ッ!」


 嫌い———その言葉を面と向かって突きつけると、彼は衝撃を受けた様に表情を凍らせた。


「最初に会った時から嫌いだった。偉そうで、一方的で、自分の感情をぶつけることしかしてこない! 口を開けば将来の夫だから、あれをしろこれをしろと許嫁であることをいい事に命令ばかり。そんな人間を好きになれると思うか?」

「そ、そんな……違う、違うぞ、アリシア……」


 フラフラとおぼつかない足取りで、ミハエルが後ろに下がっていく。


「何が違う? 何も違わないさ。ボクが君を嫌いなことは、何一つ違わない! 正しいことだ! 正しいボクの正直な気持ちだ!」

「違ううううううううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅっっっ………‼‼‼」


 ミハエルが大声を上げ、自分の荷物を漁り始める。

 何か、おかしくなってしまったかとアリシアが訝しんでいると、ミハエルは一冊の本を荷物入れから取り出した。

 手作りの本だ。綺麗な手書きの字で表紙にタイトルが書かれている。

 『ミハエルとアリシアのラブラブ学園日記♡』———というタイトルが。


「セリフが……セリフが違うぞ……アリシア!」


 ミハエルは泣きそうな顔で、すがるような顔でその手作りの本をアリシアに見せ

つけてくる。


「それは……?」

「セリフが違う……ここは僕の愛を受け入れて「嬉しい……♡」というシーンだろう……普通に考えて、将来のラブラブ夫婦が学生時代の初々しい初夜を迎えるシーンだろう……セリフが……セリフが全く違うぞ……アリシアァ……台本通りやってくれぇ……」


 気持ち悪いタイトルの本がどんどん近づいてきて、アリシアは悲鳴を上げたくなるのを必死にこらえて、そんな感情を悟られないように冷たい視線を送り続けた。


「ミハエル……もう一度聞く。それは———何だ?」

「なんだって……決まっているだろう……脚本だよ! ボクとアリシアが幸せな未来を送るための! ボクがずっと今まで考え続けた———未来への道しるべさ!」


 トスッと、力なくアリシアの胸に叩きつけられる『ミハエルとアリシアのラブラブ学園日記♡』。


「……………ハァ~」


 アリシアの胸から先ほどまで抱いていた感情が———消えた。

 恐怖も、怒りも、悲しみも———そのような自分の身が危険にさらされたことで溢れる負の感情が、消えた。


「ミハエル……」


 今、アリシアの胸の内にある感情は——、


「……こんな未来はボクたちには、ない。ずっと一人で考えていたんだろうが……この脚本に書かれているようなことは、一行だって現実で起こりはしない」

「——————ッ⁉」


 ただ、ミハエルという少年に対するあわれみだけだ。

 彼の手から手作りの本を奪い取り、横に置き、彼自信と向き合う。


「ミハエル……ボクと君が結ばれる未来は決しておとずれはしない。だけど……、」

「ダメダメだダメだ……‼ そんなのは……ダメなんだああああああぁぁぁぁ‼‼」


 だが、ミハエルは頭を抱えて叫び出した。


「僕は! 僕は! パパの言う通り! アリシアと幸せにならなきゃダメなんだ‼ 僕は不幸には絶対にならない! 絶対に、アリシアと添い遂げるんだ!」

「ミハエル……」

「アリシア‼ 君が悪いんだぞ……君が脚本通りにセリフを言わないから……!」


 ギラッとミハエルの瞳が光る。


「————ッ!」


 その瞳に邪悪な意思を感じて、再び根源的な恐怖が胸の内から湧き上がる。

 ゆらゆらと体を揺らし、先ほどとは一変した様子でニヤニヤ笑いのミハエルがアリシアに歩み寄って来る。


「君が悪いんだぞ、アリシア……君が僕を拒むから……僕もアドリブでいかなきゃならなくなったじゃないか……!」

「い……!」

 や……と声を出したくなった。


 だけど、怖くて怖くて、できなかった。


「アリシア……ァァァ‼」


 下手にミハエルを刺激して、何をされるか、わからなくなった。


「ヒッ————!」


 ミハエルの大きな体が、覆いかぶさろうとしてくる。

 そして、その手がアリシアの口を塞ごうと伸ばされ———、


「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ—————————‼‼‼」


 叫んだ。

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