4月9日(火)②
嵐のようなイベントラッシュが終わり、五時間目と六時間目はロングホームルームだ。昨日に引き続き大量の手紙を配られ、合格発表のときに渡された課題を提出し、自転車通学組は通学シールを自転車に貼りに行ったり。
疲れていたからか座っているだけだと思わず船を漕ぎそうになる。ちょうど、一番暖かい時間だし昼ごはんを食べたばかりだし。でも、初日から居眠りは度胸がありすぎる……。
「じゃあ放課後は部活動体験行きなねぇ」担任の三輪先生が教壇に立って話す。
三輪先生は二十代後半。若くてエネルギーに溢れた男性教師――かと思ったが、力を抜く所は抜いていてユルい。話し方もその性格が影響しているのか、少し間延びした語尾で穏やかに話す為、まるで子守唄のようにも聴こえてくる。
「で、顧問の先生にプリントに判子押してもらって。明後日の朝そのプリント回収するから。一日でも行ってないの分かったら~、早めの個人面談するからね~」
そこで一区切りついたのか、三輪先生は「さて」と呟いてから黒板の上にある時計に視線を向けた。見ると、二時四五分くらいだった。六時間目が終わるのが三時一〇分だから、二五分ほど時間が余ったようだ。
「もうやること終わったけど、時間余っちゃったねぇ。どうしよう?」
そう三輪先生が生徒達に問いかけるが、答える人は誰も居ない。初日で皆緊張しているから、当たり前といえば当たり前だ。
そこで背中から嫌な予感が駆け上がってきた。
入学してすぐ。皆まだほとんど初対面。時間が余っている。つまり、もしかして、これは……。
自己紹介という名の試練が今から行われるかもしれない。
そう気づいてしまった途端急に冷や汗が出て来た。ヘマを起こさないか心配だ。もし言葉を噛んでしまったらこれから数ヵ月間は『自己紹介で噛んだ人』というレッテルを貼られるだろう。いや、これは被害妄想が過ぎるか。
しかし、嫌なことには変わりはない。頼む、『じゃあ時間余ってるしジャンケン大会しようか』とか言ってくれ……。
自己紹介が嫌で一〇〇%ありえないことを胸の中で祈る。が、もちろんその祈りは三輪先生の言葉で消し飛んでしまった。
「じゃあ時間余ってるしぃ、自己紹介するか~」
ああ……、神は居ないんだ……。
教室も心なしか、無音に近いざわめきが波打つ。
しかし決まってしまったものは仕方ない。腹を括って、適当にやり過ごそう。幸いなのかわからないが、俺は出席番号が三番だから出番はすぐだ。終われば後はぼうっとしておこう。
「じゃあ、出席番号一番の青山からな~。でも急だと困るだろうから、五分後に始めるな~。その間に何言うか考えて~」なんだその配慮は。
その気配りが出来るのなら、「明日自己紹介するから余った時間は自己紹介で何喋るか考える時間な~」でも良かっただろう。中途半端な優しさは憎い。ならいっそ最初から手なんて伸ばさないで欲しかった。
「…………ふぅ……」俺は一度深呼吸をした。危ない危ない。初日から担任の先生を嫌いになるところだった。
切り替えて何を話そうか考える。が、思い付くのは自分の名前と『よろしくお願いします』の言葉だけだった。皆何を言うんだろうか……。
そこで、寺島のことを思い出した。自分のことばかりで忘れていたが、寺島は俺よりも焦りと緊張でどうにかなっていそうだ。吃音がひどくなって言葉が出ないとか、何を喋っているのかわからない状態にならないと良いけど……。
様子を伺おうとして、そっと首を左斜め後ろに向ける。寺島の席は俺の二つ隣の列だから、周りの人たちとも目が合いそうになるが、それを避けつつ。
すると、顔面蒼白になって冷や汗だらけで震えてる――なんてことはなく、無表情だった。緊張していないのだろうか。すごいな。
そう肝の座った寺島に心の中で称賛を送ろうとすると、寺島はさっき配られた手紙の一枚をこちらに見せてきた。目を細めて見てみると、台風時の休校がうんたらの手紙だった。
それがどうしたんだと思ったそのとき、寺島がその手紙を裏面に向けた。そこには、ガタガタに乱れた字で『どうしよう』と八個くらい書かれていた。
やっぱり緊張しているようだ。
寺島を見ていていると、人が何を考えているかなんて顔を見ただけで判断や推測をすることは不可能なんだな、と思う。最たる例がこれだ。
ただ、『どうしよう』など言われても俺に出来ることはないので、とりあえず親指をグッと立てて『頑張れ』と念じておいた。伝わっただろうか。『面白い』とかに受け取られてないだろうか。まあ、後で弁解と心のケアはしよう。
前に向き直るとちょうど「じゃあ五分経ったからやろうか」と三輪先生が自己紹介大会開催宣言をした。
途端に心臓が自分の居場所を主張し始める。隣の席の人にまで聞こえていそうだ。
とりあえず、前の人のテンプレートを真似しよう。そうしたら無難で当たり障りないはずだ。よし。
秒で(あやかる)計画を立てると、「じゃあ、青山~」と三輪先生が言った。
「は、はい」
青山と呼ばれた女子生徒が固い動作で立ち上がり、左を向いて教室内のほとんどの生徒達と対面する体勢になる。
「あ、青山さつきです」その声は緊張の色が含まれていたが、真っ直ぐ届く明るいものだった。「中学はテニス部だったので、高校でもテニス部に入ろうと思っています。皆仲良くしてください!よろしくお願いします!」
そう言い終わると頭を下げ、そのタイミングで拍手も生まれる。俺もその拍手の音色の一つとなりながら、なるほどそういう感じか、と学んだ。
ほどなくして音が止み、二番の男子生徒も立ち上がる。彼の内容も青山さんと同じだった。サッカー部に入るそうだ。
よし、俺も二人のを真似して、と思った瞬間気づいた。俺、部活決めてないし帰宅部希望なんだけど。
『岡田蒼志です。帰宅部入ります。よろしくお願いします』はあまりにも素っ気ないだろう。こう、なんか、やる気が無いというか難癖ありそうな尖った感じがする。クラスメイトと仲良くすることを目標にしていないけど、だからと言ってクラスで浮きたい訳ではない。あくまでも普通に、もはや空気のようになりたい。
その為には――。
そのとき拍手が止み、俺も慌てて立ち上がる。心拍数は勢いを増しているが、それをなるべく無視して、深く息を吸ってから口を開く。
「初めまして岡田蒼志です」そして〇.五秒前に思案した言葉を当然のように言う。「部活はまだ決めてなくて、部活動体験で決めようと思います。よろしくお願いします」
そう言い終わって頭を下げると拍手が沸き上がった。いや、沸き上がるように聞こえるのは俺の自意識だ。しかしこの咄嗟の思考の切り替えは、我ながらよくやったと思う。
着席すると、どっと疲れが出てきて思わず背もたれに深く体重を乗せてしまう。俺の次の人が自己紹介しているけど、何て言ったか聞いていなかった。それほどまでに出番が終わったことに安堵したのだ。
後は適当に聞き流しながら寺島の身(心)の安全を祈る。このテンプレートなら短いし、きっと大丈夫だ、頑張れ。まるで我が子の体育祭のリレーを見守る親のような気持ちになりながら寺島の番を待つ。
俺の隣の列の自己紹介が終わり、三列目の生徒の番がやってくる。寺島は一六番だから、前から四番目。出番はもうすぐだ。
もう一度、さりげなく寺島の様子を見ると、さっきとは打って変わって、決意をしたように眉をきっとさせた表情で頷かれた。
よし、頑張れ!
そう心の中で叫んで俺も頷き返した。きっと大丈夫だ。今の寺島を信じよう。
そう思ったとき、一四番目の男子生徒が立ち上がった。
「どうも~、瀬川昌で~す。部活は~、軽音部入ろうと思ってま~す。皆よろしく~!」ひらひらと右手を振りながら話す。
そして瀬川さんの出番が終わって拍手の音が――鳴らなかった。彼が「あと~」と話を続けたからだ。
「今日俺~、なんと誕生日なんですよ!良かったらおめでとうって、言ってくれません?」
これまでの流れを破壊する発言。それに教室全体が一瞬驚き無音が漂うが、次第に控えめな拍手が聞こえ、彼の友達であろう男子生徒が「自己主張すんなよ~!」と茶々を入れた。
俺はその様子に動揺を隠せないでいた。いや、瀬川さんは悪くないと思う。むしろ、彼なりの自己アピールなのだろう。『気さくですよ』『陽気ですよ』といった風に。ただ、タイミングが悪かったのだ。
「へぇ~、誕生日なのすごいねぇ」これまで自己紹介に参加していなかった三輪先生も輪の中に入る。「誕生日プレゼント何もらうの?」
「それがプレゼント無いんですよ。バイト出来るようになったからって」
「あら~そりゃあ寂しいね~。じゃあ自分へのプレゼントは何するの?」
きっと、まだ出番が控えている人のほとんどが思っているだろう。『ハードルが上がる』と。出番が終わった俺でさえもハラハラしてしまう。
「ギター買います!軽音部入るし!あ、そう、俺特技はピアノなんで、合唱コンのときは活躍出来ますよ~!ってことで、なんか俺ばっか喋っちゃってごめんなさ~い!」
とどめと言わんばかりにさりげなく特技のことも話した。これによってテンプレートが壊れてしまった。寺島は恐らくパニックになっていることだろう。
だが、まだ希望はある。瀬川さんの次の人が、さりげなくテンプレートも流れも軌道修正してくれたら……。
そう祈りながら拍手をする。今日だけで俺は何回祈りを捧げているんだ。厄日なのか、今日は(寺島にとって)。
少しして拍手は止み、一五番目の女子生徒が「えー」と言いながら立ち上がる。
「田口のぞみです。ていうか、あ、あのー、自己紹介のハードル上がってません?」
「あー、俺も盛り上がっちゃってごめんねぇ」三輪先生が責任を感じているかのように、少し湿った声音で言う。「でもそんな気にしないで。さっきまでと同じ感じで良いから」
その助言はナイスだ。数分前は嫌いになりそうだった先生に対して、手のひらを返して好きになってしまいそうだ。
「じゃあ……。部活は考えてなくて~……あ、でも、私お菓子作るの好きなんですよ」
待ってくれ。続けるのか?さっきの流れを?
「なので、バレンタインとか皆にお菓子配りたくて。何かアレルギーある人居たら、言ってください!皆よろしくお願いします!」これまでのテンプレートは塵となって霧散したようだ。
教室中が拍手に包まれるが、真の意味で拍手している人はいるのだろうか。
軌道修正すると見せかけてまた道を外してきた。いや、外してきたとかいうと田口さんが悪者みたいに聞こえるけど、全くもってそんなことはない。そんなことはないけど、という話だ。
二人連続でこの流れ。寺島のプレッシャーははかり知れないだろう。ただ、寺島がここでこの流れを断たないと、後ろの人たちも上がり続けるハードルに苦しむことになる。先生だって「さっきまでと同じ感じで」と言ってくれたんだ。寺島よ、頑張ってくれ……!と、まるで大金を賭けたギャンブルの大勝負に出たように気持ちになる。
そして寺島がゆっくりと立ち上がる。顔を注視すると、目が完全に四方八方に泳いでいた。
「…………っ、て、て、……てらっ島、耀、で、です」
小さく震えている声だが、ちゃんと聞こえた。言えたんだ。両手を握り締め、息をするのも忘れて寺島を見守る。
「ぶ、ぶっ、ぶか、つはまだかんが、えて、な、っなくて…………」
よし、よし。もうよくやった。後は『よろしくお願いします』で締め括れば良い。お前は流れを戻した英雄になるんだ。試合終わりの選手を労る監督のようになりながらそう考える。
が、寺島は「と、とく、特技、は……」と続けた。
何、何を言うんだ。得意なことなんて無いと、自分には何もないといつも自嘲して自傷してる寺島が、何を。
「か、かき、心地で、シャっシャーペンの芯を、あ、あて、当てれます…………」
その言葉は水を打ったような静寂に満ちた教室に吸い込まれていった。
俺も思わず言葉を失った。
沈黙が流れるが、それを切ったのは三輪先生。
「へぇ~。ちなみに何がお好み?」ここからこの空間を温め直してくれるのだろうか。
「え……。あ、えっえ、に、にっ、2B……です……」
「へぇ~…………」
寺島が着席する。次の一七番目の男子生徒が立ち上がり、何事もなかったかのように自己紹介を始める。特技は言っていなかった。
「……………………」思わず深いため息をつきそうになる。
俺の心の中は共感性羞恥やら寺島への同情やらで破裂しそうだったが、そこには怒りに近い感情もあった。
だから、中途半端な、優しさほど、憎いものは、ないんだ。
俺は、放課後になったら寺島にティッシュでも渡そうかと考えた。
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