4月8日(月) 午前4時
*ゆうなぎ町の午前四時*
目が覚めた。
というよりは、目が覚めていた事実をようやく自覚した。
目を瞑っていても見える豆電球で淡い橙になっている天井。意識は夢の中なはずなのに聞こえてくる時計の音。それらがゆっくりと脳に伝達されて、ようやく目が覚めていたことに気づいた。
「………………」
中途覚醒。困る。
「…………ん、ん……」
寝返りを打って、枕元に置いていたスマホをつけた。白く光る画面に目を焼かれる。今のでもっと意識が鮮明になってしまった。
目を細めながら時間を確認すると、午前四時一三分。
「…はぁ」
思わずため息が出た。まだ深夜。いや、早朝になるのかな。どっちだろう。どっちにしても、「まだ早すぎるよ……」
スマホをまた枕元に置いて、ぬいぐるみをぎゅうと抱き締める。
今から追加で眠剤飲んだら絶対起きれなくなるし、かといって起きてても絶対途中でふらふらになる。
眠ることも、起きておくことも許されないこの状況。
とんだ災難だ。明日――いや、もうほんの数時間後――は入学式なのに。
その事実を思い出して、また気分に暗幕が引かれる。もう昼間で十分不安は使いきったと思ったのに。むしろ目標を口にして『頑張りたい』と思ったばかりなのに。それなのにたった12時間経てばいつも通りの僕に戻ってしまった。
悲しい。
不安なことが悲しいんじゃなくて、岡田くんが言葉をくれたのにまた不安になったことが、悲しい。
僕はいつもそうだ。少し前を向けたと思っても、すぐに足が止まって下を向く。そのたびに見守ってくれている皆に助けてくれている皆に、申し訳なくて申し訳なくて――
「………………だめだな……」
これ以上考えると、またやらかしてしまう気がして何度か深呼吸をする。
でも、別に空気なんて薄くないのに、何度息を吸ってもどこか息苦しい感じがして焦りが出る。
冷や汗が出てくる。
手が、震える。
これは、もう、ダメだ。
このまま布団で蹲っていたら思考に飲まれる。今までの経験上からそう判断して、すぐに起き上がる。
でもそのとき、癖で机の上のペン立てに入れてあるハサミやカッターに目をやってしまった。その瞬間、体の芯から衝動が沸き上がってくる。
「……っ!」
それを察知したから、反射で袖をまくって左腕を思い切り噛み潰した。
突然の痛みに目の奥がチカチカと点滅して、噛む力が弱まるが、それでもまた強く噛み続けた。
痛みは肉を貫通して、ゴリゴリと骨にすら響く。
でも、それで良い。
ちょうど良い。
「………………」
数十秒そうしていると、少しずつ衝動の波が引いていくのを感じて、腕から口を離した。
周りから見ればきっと、気が狂ったのかと思われてしまうかもしれないけど、こうしないと、もっとひどいことをやらかしていた気がする。
だから必要なことだったんだ、とくっきり残った歯形を眺めながら思う。
「………………頭、おかしい……」自嘲しながら唾液まみれになった腕をティッシュで拭いた。
そもそもこういうことをしないと正気を保てないこと自体、おかしい。その時点で普通からかけ離れてる。学校でもこの衝動が出てきたらどうするんだ。ああ、不安だ。中学もあまり通えていないのに――
「……頓服、飲んだ方が良いな」
すぐに立ち上がって部屋を出る。リビングに降りて頓服を飲んで、少しゆっくりしよう。きっと自室よりかは、やらかす危険性が少ない。
その場しのぎの行動にしかすぎないかもしれないけど、多少は良い選択を出来たはずだ、頑張った、と階段を降りながら思う。だって切ってないし。
「………………」
虚しい、形だけの自己肯定という名の開き直りに腹が立つ。
すると、後ろに居る『僕』が僕を見下ろしながら言った。
『逃げるな、死ね』
さっき噛み潰した左腕が、ずきりと痛んだ。
細心の注意を払って、なるべく音を立てないようにリビングの引き戸を開ける。音を立ててしまったら、リビングの隣にある寝室で寝ている颯人とるうかを起こしてしまうかもしれないからだ。
自分が通れるくらいの隙間だけ作って、体をするりと入り込ませてリビングに入る。
すると、「あら、随分早く起きたのね」倫子さんが居た。
「あ……、うん」
テーブルにパソコンを置いてるから、たぶん仕事をしてるんだろう。まだ終わらなかったんだ……。
倫子さんの対面の椅子に座って考える。頓服は飲みたいけど、倫子さんの前ではあんまり飲みたくないな、と。またダメだったんだと思われるのが嫌だし怖い。
でも一番嫌で情けないなのは、倫子さんはそんなこと思わないって信じきれない自分が嫌だ。
…………ほんとにダメだな。息をするように自分を刺してしまう。
………………し、
「せっかく起きたんだし、何か飲む?」
倫子さんの声で思考が遮られる。
「え、あ…………」
「ココアと白湯とホットミルク、どれが良い?」
「……っ、……ん……」
急に人との会話に思考を連れ出されて言葉に詰まり、上手く喋れない。ちゃんと、普通に、振る舞わないといけないのに。
そんな様子の僕を見て、倫子さんは何も言わず流し台の引き出しを開け、袋を取り出した。
「飲む?」
そして袋――頓服の入った薬袋を、差し出して来た。
「……………………」
分かられている。
倫子さんの前じゃ、嘘の振る舞いも誤魔化しも、通用しない。
「…………うん」喉を少しだけ鳴らして返事をする。
すると倫子さんは「はーい」と言って、やかんに火を付けた。
せめて、家族の前だけはしっかりしたいのに、それすらままならない。それどころか、やらかしまくっていて、本当に申し訳なくなる。
家族だからこそ、弱いところを見せれるとか、なんでも言えるとか、よく聞く。一般的に家族はそういう形なのかもしれない。でも、僕にとってはいつ見限られて捨てられるか不安でたまらなくて、怖い。だから、迷惑もかけたくないし変に気を遣わせたくないし、今みたいに……。
……僕なんて家族にしたくなかったとか、思われていたら、
「はーい、お待たせ」
「……」
倫子さんの声で、意識が目に映る景色に戻る。薬と白湯が入ったマグカップが置いてあった。
「………ありがとう」
「いいえ~」
ほんのり暖かい、熱くなく温くもない、ちょうど良い温度の白湯で薬を飲みながら思う。
優しさが痛いって、贅沢過ぎて死にたくなるな。
どの分際で、言って、
「……………………」腕を枕にして机に伏せる。
疲れた。思考に振り回されることに、疲れた。早く薬効いて眠気が来て、眠れないかな。
そう浅はかな期待をして目を瞑ったとき、「耀は部活入るの?」と倫子さんが聞いてきた。
「ん、んー……あ、あんまり、考えて、ない……」伏せたまま答える。
というか、無理だと思う。好きなことも無いし、続けれるかわからないし。
「そう~」
「………………」
「……………………」
倫子さんがキーボードを打つ音だけにしばらく包まれる。思考を良くない方向に逸らさない為に、倫子さんがエンターキーをいつ打ったか推測することに集中する。ちょっとだけ強く叩いてるときがそうだと思う。
そうやって無駄なことに意識を尖らせていたとき、ふと疑問が浮かんだ。
倫子さんって、どんな高校生活を送っていたんだろう。
何か参考になるかもしれないし、少しは希望とか楽しさを見出だせるかもしれない。
「……り、倫子さん」
「ん~?」
返事をされてから、仕事の邪魔をしていることに気づいて先の言葉をつぐむ。でも、「どうしたの?」と倫子さんの優しい声に甘えて、聞いてしまった。
「り、倫子さんって、ど、どんな、高校生、だった?」
「ん~、そうねぇ、どの部門の話が聞きたい?」
「ど、どの部門とは……?」
するとしばらく「ん~」と悩む声が聞こえてくる。
何か嫌な質問だったのかと思って、僕は慌てて体を起こして「こ、答えたくなかったら、全然、大丈夫っ」と謝る。
でも、倫子さんは「違うのよ」と言って、話し出した。
「私の話って、耀にとって楽しい話じゃないかもしれないから、悩んだだけよ。それでも大丈夫なら話せるわ」
「あー……」
楽しい話じゃない。つまり、倫子さんは学校を楽しんでいなかった、ということ?
そこで気がついたけど、倫子さんの学生時代の姿が一切、少しも、想像がつかない。友達に囲まれている姿も、独りの姿も、もはや教室で思春期を過ごしたという事実すら信じがたい。
もう参考になるとか置いといて、興味本位で聞きたい。
「きょ、興味本位、です」
「ふふふ、そう」
倫子さんはころころ微笑む。そしてゆっくりと僕に絵本を読み聞かせるように、話し始めた。
「まずね、学校はあまり好きじゃなかったわ」
「そ、うなの?」
「そうなの。んー、でも嫌いじゃなくってね」少し遠くを見るような眼差しをする。倫子さんの目には今、『あの頃』が写っているんだろうか。
「カーストみたいなのは好きじゃなかったし……。なんだろう、どこに居ても、『ここじゃない』『どこにも行けない』って感覚があってね。何してても上部だけの感覚っていうか……、んー、だいぶ抽象的ね」
「………………」僕も似たような感覚をずっと持っているから、驚いた。
ただ、暗い荒野で仲間を見つけたときのような安心よりも、諦観に近い感覚を覚える。
倫子さんでもそう感じていたのなら、僕がそれらを感じなくなる日なんて、来ないのだろう、と。
「…………」でも、「……そ、それは、どうやって、解決したの…………?」
倫子さんはどうやってその感覚を昇華したんだろう。それこそ、小説を書いて自己表現をしたから、かな。
「閉塞感のこと?」
「そう…………」
「閉塞感はね、大人になってある程度の自由を得たら、いつの間にか薄れてた気がするわ」
「そうなの?」
遠くに朝陽の色が見えたような気持ちになって、つい期待を含んだ声になる。大人になればもしかしたら、僕も少しは……。
「ただ、ね、」目の前に高く分厚い壁がかかる「別の色々なことが影になって、着いてきてるのよ」
「………………別の、ことって……」
瞬間的に絶望を感じながらも、なんとか言葉を絞り出す。じゃあ、どうしたら、
「ほんと色々よ~。例えば~……」倫子さんと目が合う。
「ね?あんまり楽しい話じゃないでしょう~?」
ぱっ、と明るい声で言われた。きっと僕がひどい顔をしていたからだと思う。また、気を遣わせてしまった。
「ていうか、学校の話から離れてたわね~。なんだっけ、私が生徒会の副会長やってた時の話だったっけ?」
「…………じゃあ、どうしたら、いいの」
「…………………………」
「………………………………」
沈黙が流れる。
そこで、倫子さんを困らせることを聞いてしまったのに気づいた。いくら目の前が見えないとしても、他力本願だけで他人に縋るのは良くない。
「……ごめんなさい、変なこと、聞いちゃって」
僕の良くないところが出てしまった様で居心地が悪く、ここに居てはいけないような気分が、背中から急速に這い上がってくる。
「も、もう寝るね、ごめんなさい」
逃げる様に――いや、逃げたくて椅子から立ち上がろうとしたそのとき、倫子さんが言った。
「感じるままでも、生きていくしかないの」
その言葉は、僕の中に刺さるように入ってきた。そして、じわじわと痛みが体の芯まで伝わっていく。
そんなの、分かってる。でも、
「でも私は、その色々をどうにかするのを、諦めたわ」
どういうこと、だろう。
今もまだ暗くて辛いことが着いてきているのに、それをどうにかするのを、諦めた?そんなことをしたら、ずっと辛いままなのに?
「…………諦めた……?」
「そうね。どうにかすることが、無理だったの。考え方を変えて、自分を変えるのが、無理だったの」
その言葉を聞いて、僕の中が不安や恐怖で満たされる前に、倫子さんは続けて言った。
「でも、それは逃げることでも負けることではないのよ。同じ場所で戦い続ける、覚悟ね」
「覚悟………………」
僕には、それすら無い。だからといって、自分を変えるまでの力も無い。一番、惨めで無力で情けない、自分。
「それ、も、無い僕は、なに…………、どう、したら…………変われる…………?」また倫子さんに縋る言葉を吐いているのは分かっていた。けど、止められなかった。「どうしたら、辛く、な、くなるかな………………?」
こんなことを倫子さんに吐いたことが、あまりにも情けなく涙が出そうになって下を向く。
すると、倫子さんはティッシュを一枚僕の前に置いて、こう言った。
「新しい自分になっても、辛さは違った形で付きまとうわ。これは、辛いことだけど、事実なの」
さっき刺さった言葉が、さらに深く進んでそこから血が出る。倫子さんの言うことは確かに事実だけど、それを認めたくない自分が居るからだ。
「でもね」もう一枚ティッシュを僕の前に置いて言う「それでもどうにか変わろうと、頑張ろうとしてるあなたは、綺麗で格好いいのよ」
「が、っ、頑張って、格好よく、なんて……!」
「耀は結果が出ないからって、自分の過程を無視してない?」僕の言葉を遮って言う。
「この数年のこと、思い出してほしいの」
「……………………」
そう聞いてここ数年にあったことが頭に流れる。やらかしたことしか見当たらない。たくさん切ったしひどい言葉で刺したし、13歳の時なんて…………。
でも、今は、その頻度が、酷さが、少なくなってマシになったかも、しれない。
でも、「でも……、時間の割に、全然……進めて、ない………………」
数年もあれば人は大きく変わる。でも、僕が変わったことは、すごく小さいことだから……。
「そうかしら?というか、遅いことも止まることも、悪いことではないと思うわよ」
「…………なんで……?」
「その間も耀はもがいて頑張っているからよ」
驚いて顔を上げる。倫子さんと目が合う。僕を、真っ直ぐ見ていた。
倫子さんはそのまま口を開く。
「私みたいに諦めることも、耀みたいにもがくことも立ち止まることも、悪いことじゃない。その間も頑張って、考えてるんだから」
「……………………」
僕がいつもぐるぐると考え続けてしまうことを、そう形容してくれたことが信じられなくて、でも嬉しくて、誰かにずっとそう言ってほしくて、自分でも思いたかった。そんな様々な感情が一度に僕の中を駆け巡る。
昔も今も、ずっと辛い。でも今は、昔のような辛さは薄れた気がする。でもまたいつか来るかもしれない辛さへの不安が、また別の辛さになっている。でもそれを振り払おうとしても出来なくて、またそれが辛い。
でも僕はもう、そういう人なのかもしれない。認めたくないけど、そうなのかもしれない。
今はそれを『仕方ない』で済ませて受け入れることは出来ないけど、いつか、僕は僕を受け入れられる日が、来るのかな。
考え続ければ、そういう日がいつか、来るのかな。
『でも』だらけの生き方でも、いいのかな。
「………………」
今、この瞬間だけでもそう思えたことが嬉しくて涙が零れる。それを拭う為に、倫子さんが渡してくれたティッシュを使った。
受け取れた。
「うん。考えることを放棄しなければ大丈夫だから、一番耀が自分を好きでいられる考えを、探し続けて」
「………………うん」
もう一度倫子さんがくれた言葉たちを反芻する。何度も思い出せば、いつか本当に自分でも、そう思える日が来るかもしれないと思って。
「…………ありがとう、倫子さん。僕にこういう話するの、緊張したでしょ……?」
「まあ、ね~。でも、たまには嫌われる覚悟をしてでも、言葉を伝えないといけない、と思ってね」
「それ聞いてもっとありがとうって思ったよ。……ありがとう」
「んふふ、どうも」倫子さんが嬉しそうにはにかむ。
「というか、もう五時になるわね」そう言われて時計を見る。針は四時五十分くらいを指していた。
「ほんとだ。もう朝じゃん」
「どう?眠れそう?私はさすがにそろそろ寝るけど」
「んー、どうだろう。……でも、大丈夫な気がする」
もう、さっきとは心の中が全然違う。不安も怖さもあるけど、倫子さんがくれた言葉も、あるから。
「うーん、とりあえず横になるよ」
「そう。じゃあ、おやすみなさいね」
「うん、おやすみなさい」
そう言って席を立ち、倫子さんは隣の寝室へ、僕は階段を登る。
自室に入ると、また癖で机の上のペン立てに入れてあるハサミやカッターに目をやってしまった。
でも、もう衝動は沸き上がって来なかった。
僕はベッドに入る前に、少し窓を開けて午前四時の朝露の匂いを吸い込む。
まだ暗い。早朝の青色の世界からはまだ遠い、ほとんど闇の世界。それでも、僕は少しだけそこに陽の色を感じたような気がした。
さっきまでは、永遠に明けない暗夜の中に居るような気分だったのに。
「……………………」
午前四時は、不思議な時間だ。朝でも無いし、夜でも無い。少し待てば太陽が昇るけど、もう二度と光を浴びれないのでは、と感じるときもある。
正直苦手な時間だ。
でも、どちらも見れる。朝も。夜も。今みたいに。
「……僕は、そういう場所に居るのかもなぁ」
最後に、胸一杯に澄んだ空気を吸い込んで窓を閉める。そしてベッドに入って、明日以降のことをぼんやりと考える。
新しい自分に、なれるかな。
なりたいな。
頑張ろう。
僕は目を瞑った。
今度は『僕』も、何も言わなかった。
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