4月8日(月)
鏡に写るその姿は、なんだか自分には見えなかった。
制服を少し大きめに採寸してもらったから袖は余っているし、ネクタイも似合ってないと感じる。それにネクタイは赤色で、一年生感を強調しているようで少し恥ずかしい。でも学年色が赤色だから、三年間我慢しないといけない。
「………………………」
そうか、今日から高校生になるのか。今更だけど、あまり実感が無かったからそう思ってしまった。緊張や不安が大きくて、ちゃんと現実を見れていなかったのだろう。
時間というものは無自覚に、けれども確実に俺のことを運んでいく。気がついたら遠くまで流されていた、なんてことがないようにして過ごさないと。
「………………よし」
俺はネクタイを締め直すと同時に気も引き締めた。そしてリュックを背負って自室のドアを開ける。
出る前に振り返って自室と目を合わせる。俺は、春の陽だまりで溢れたその部屋に、小さく「行ってきます」と言った。
廊下を出て母さんにも行ってきます、を伝えようしてリビングに向かう。でもドアを開けようとすると、手が止まった。
別に震えたり指先が冷たくなったりはしない。ただ、少し『合わせる』為に深呼吸をしたかったのだ。
二回、廊下の冷えた空気を吸う。それから、ドアを開けた。
ドアの正面、二メートルくらい先にテーブルがあって、そこに母さんが座ってニュースを見ていた。父さんはもう、俺が自室で支度をしている間に仕事へ出掛けたみたいだ。
「あら、蒼志」俺がドアを開けた音で気づいたのか、母さんが振り返って言う。「制服、良いわね。カッコいい」
「ありがとう」
「そうだ、一枚写真撮っていいかしら?」
スマホを持って近づいてくるが、俺はそれを「嬉しいけど、もう行かなきゃだから」と言って遠回しに拒否の意を示した。絶対入学式の後にも写真を撮るから、今撮っても仕方ないだろう。
「行ってきますって、言いに来ただけ。じゃあ」
そう残してリビングを後にする。が、母さんは着いてきた。
「せっかくの門出なんだし、見送るわ」にこり、と微笑んで言う。でもその表情と言葉は、俺にまとわりついてきた。
「…………そう」
廊下を歩きながら、まるで手綱に繋がれて歩かされているような気分になる。『合わせてる』から、当たり前なのかもしれないけど。
「というか、随分早く出発するのね。まだ七時二五分よ?」
「いや、入学式だし、早めに行った方が良いかなって」そう返しながら新品のローファーを履く。中学はスニーカーだったから、ここでも高校生になったのだと実感する。
「そうね。遅刻はダメだものね」少しだけ硬い声。
「うん」それに気にしないふり。
靴に慣れていなくて数回玄関で足踏みをする。そうした後ドアノブを握って、行ってきますと、「ああ、それに」
「耀くんいるものね」
「…………」
母さんがそう言葉を吐いた顔は、さっきと同じ微笑みだけど、その表情の真意を俺は知っている。
だから、気持ち悪くて気持ち悪くて、仕方ない。
母さんの吐く息が、瞬きが、目の色が、俺の心にまとわりつく。爪を立てながら。
「……………………」侵食させてしまわないよう、言、
「耀くん、最近は大丈夫なの?」
「…………お」れが知ったことではない、と言いそうになるが、唇を噛んで制御する。
「俺が、見てる限りでは、大丈夫、だと思う」勘弁してくれ、と思いながら言葉を絞り出す。
「そう」しかし、俺の想いは届かなかった。「今度は'' ちゃんと ''学校通えると良いわね」
ちゃんと。
なんで、俺にそれを言うんだろう。
何故か悲しい気持ちが溢れてくる。そして、俺に心にまとわりついた母さんの指が蝋のように溶けて、重くなる。少しずつ固まり始めて、心が動かなくなりそうになる。
「ほんと、蒼志は色んな子と仲良くして偉い――」
「ごめん、行かないと」
急いで玄関を開け、閉め、鍵も掛ける。そして、早足に廊下を駆け、エレベーターのボタンを押す。
早く、速く。
「……………………」
離れたい。
エレベーターが上がってきて、扉が開ききらない内に中に入ったら体をぶつけた。俺を震源として揺れが発生する。エレベーターの中は空調の独特の臭いがしたが、また数度深呼吸をして、『合わせる』のを解いた。家の廊下の空気より、全然マシだ。
というか、あまり上手く『合わせ』られなかった。でも、良いことなのか、悪いことなのか、判断がつかない。
一階に着いてエレベーターを出ても、背中に貼り付いたままのあの蝋の感触が消えなくて、俺は足早にマンションの敷地を去った。一秒でも早く離れたくて、ほとんど走る速度で、寺島の家へと向かう。
「……………………」
春風が頬を切りながら思う。
自分の言葉ですら話せない、自分の心すら手に出来ないなんて、なんて息がしづらいんだろう。
「………………苦しい……」
そうやって走っていると、二分ほどで寺島の家に着いた。インターホンの前で立ち止まり、上がった息を整える。もう、ここなら大丈夫なはずだ。
切り替える為に最後に一回だけ深呼吸をしてから、インターホンを押す。すると、一秒も経たないうちに『はい!今出るよ!』と元気な声がした。あまりにも快活過ぎて一瞬るうかちゃんかと思ったが、寺島の声だった。
何か良いことでもあったのだろうか。例えば、卵を割ったら双子だった、とか?
朝から元気だなぁ、と思いながら待っていると玄関の扉が開いた。
「おはよう、岡田くん!」
右手を上に、青空に伸ばしながら寺島が出てくる。その姿は、俺と同じ制服。でも、どうしてか寺島の方が身に溶け合っているように見えた。
「おはよう。制服、似合ってるよ」
「ほんと?えへへ。岡田くんも似合ってるよ」
「そうか……?」
「うん。岡田くん僕より身長あるし……」隣に来て、自分の頭頂から手で線を引く。俺の額にぶつかった。
「でももうすぐ抜かせそう。僕、成長期だから」
「張り合うつもりないって……」
「いつか岡田くんのこと見下ろしてみたいな~」と不敵に笑う姿を見て、俺もなんだか可笑しくなった。そのときに、自分がちゃんと息が出来ていることに気づいてもう一度笑う。今度は声を出して。
じゃあ行こうかと言おうとしたとき、また玄関の扉が開いた。
「あら岡田く~ん、おはよう」
「蒼志お兄ちゃん、おはよう!!」
「岡田さん、おはようございます」
倫子さん、るうかちゃん、颯人くんが出てくる。寺島家が揃った。でも、倫子さんはまだしも、るうかちゃんと颯人くんの二人はまだパジャマの姿だ。
「皆おはようございます。あれ、二人は学校じゃないの?」
「明日からだよ!!」
「俺も。入学式明日です」
「そうなのよ~」倫子さんが二人に抱きつく。うきゃー、とるうかちゃんが鳴いて、颯人くんは恥ずかしそうに顔を伏せた。
「ぼ、僕の入学式が今日で、颯人の入学式も明日で、るうかも始業式って、す、すごくない?めでたいこと続きだよね!」
昨日まであんなに不安だー、怖いー、とか叫んでいたのが嘘のように寺島は言う。うん、めでたいことだよな。
「じゃあ」倫子さんが二人から離れて言う。「めでたい記念、残しましょうか」
「え、な、何するの?」
寺島がそう聞くと、倫子さんは「ふ、ふ、ふ」と笑いながらポケットからスマホを取り出した。写真か、とすぐに察する。
どうして、親という生き物はことあるごとに写真を撮るのか。入学式の後も撮るのに……。
「えー、入学式の後も、と、撮るじゃん」寺島が俺と同じことを訴えた。
「そうよ。でも今この瞬間の写真は今しか撮れないわ」小学生並の屁理屈を口にする倫子さん。この人は本当に言葉を扱う仕事をしているのか?とたまに思ってしまう。
はーい並んで並んで、と俺と寺島の背中を押してくる。倫子さんにされるがまま、俺たちは玄関の前に並ばされた。そして写真を撮るかと思いきや、「ほら、颯人とるうかも」と促す。もはや何の為の写真かよく分からない。
「え?!るうも写って良いの?!」るうかちゃんは目を輝かせて俺たちの所に突撃してくる。
「いや意味分かんないし。なんで俺も写んないとなんないの」颯人くんはるうかちゃんと対照的に、口を尖らせながら不平を主張する。
「はーちゃん早く!!」
「そうよ。早くしないと耀たち遅刻しちゃうわ」
事の発端の張本人が何を言っているんだ、と思わず突っ込みたくなる。まあ、かなり余裕を持って家を出たから大丈夫だけども……。
「いや倫子さんが言い出したんだろ!ていうかパジャマだし恥ずかしい!」
「でも二人とも入学式来ないんだし、皆揃っての写真はほんとに今しか撮れないのよ~?」
「そ、それに、制服とパジャマの組み合わせは、お、面白いかも」
「兄ちゃんは乗らなくて良いよ!」
颯人くんがぎゃーと叫んで、るうかちゃんは「おーねーがーいー!」と颯人くんを引っ張っている。そして、倫子さんは既にスマホを構えて待っていて、俺と寺島はそれらを微笑みながら眺めている。暖かくて愛おしい、言葉と感情の受け渡し。
きっと、この景色と気持ちを思い出す為に、写真を撮るのだろうと思った。
「じゃあ、一枚だけな」ついに颯人くんがるうかちゃんの猛攻に折れて言った。右からるうかちゃん、颯人くん、寺島、俺という順番で並ぶ。
「はーい、じゃあ撮るわよ~」右手をひらひら振って合図をする。
「私が好きな食べ物は~?」
「「チーズ!」」
その瞬間、シャッター音が一回――かと思ったら何度も鳴った。
「いや!連写!」おーい!と俺たちは合わせて笑い声を上げる。なんだ、これ。
「ふふ、一枚じゃなくて一八枚とっちゃったわ」
「多すぎ。兄ちゃん達引き留めてごめん。もう行って大丈夫だよ」
「ま、まだ時間、大丈夫だから。むしろ一緒に、写ってくれて、あ、ありがとう」寺島が颯人くんの頭を撫でる。こういうところを見ると、寺島はお兄ちゃんなんだな、と実感する。
ただ、お兄ちゃんといっても、血の繋がりは無い。それは寺島と颯人くんだけではなく、寺島家全員が。皆それぞれの事情があって、倫子さんに引き取られて育っている。
でも血の繋がりは無くても心の繋がりがあるから、他人の俺が見ていても和やかな気持ちになるのだろう。大事なのは、血や法律上の繋がりよりも、心だ。
「じゃあ、そろそろ行きますね。見送り、ありがとうございました」
「は~い、楽しんでらっしゃ~い」
三人が笑顔で手を振ってくれる。皆に見送ってもらえて良かった、と素直に思った。もう、蝋のあの感覚は消え去り、ここにあるのは日だまりのような優しい気持ちだけだった。
俺と寺島は目を合わせ、そして同時に口を開く。
「「行ってきます」」
学校までは三〇分ほどかかる。寺島の家から最寄りの駅まで五分、そこから電車に一五分ほど揺られ、学校まで歩いて一〇分。遠いのか近いのかよく分からない。でも中学から同じ高校に進んだのが寺島と俺を抜いたら二人くらいだったはずだから、やっぱり皆電車通学は避けたいのかもしれない。
本番の通学初日で寺島は大丈夫かな、と思ったが、眉をキッと上げて微笑んでいた。大丈夫ということだったのだろう、特に不穏な様子もなく、電車を降りた後には「よゆー」と言ってピースもしていた。あまり俺が心配しても、今の寺島を信用していないことになる気がして、これからは過度に心配しないでおこうと思った。
そして、改札を抜け外に出る。目の前にはコンビニがあってその隣にはファミレスもある。後はコインランドリーや小さな飲食店が並んでいて、確か一駅前の方に少し歩くと商店街もあったはず。一見栄えた地域に見えるが、学校の裏には川――夕凪川が流れていて緑が豊かになっているから、都会なのか田舎なのか中途半端だ。ちなみに夕凪川は俺たちが住んでいる近くにも流れていて、田舎度合いで言えば俺たちの地域の方が高い。
今日から三年間、今はただの『知らない』町を歩くのかと思うと、不思議な気持ちになる。卒業する頃には思い入れや愛着が出来るのだろうか。そう思いながら歩き出した。
「岡田くん、あ、あっち見て、見て」
歩いていると、寺島が対向の歩道を見ながら言った。そこには、俺たちと同じ制服を着た生徒が何人も歩いていた。
「あ、当たり前だけど、皆同じ学校なの、すごいね」
「何年生だろう。ここからじゃ色分かんないな」
「そ、そうだね。もしかしたら同じクラス……」突然黙り、立ち止まる。
二歩先に行ってから寺島が立ち止まったことに気づいて振り返る。「どうした?」
すると、無表情に起伏の無い声で「クラス分け、あるじゃん」ポツリと呟いた。
「ああ、なんだっけ、一階に貼り出されてるんだっけ」
「よ、余裕だよっ。別に岡田くんと離れても僕大丈夫だよっ。友達出来るしっ」もはや自分に言い聞かせるように言いながら再び歩き出す。
「な、何も聞いてないし友達出来なくても大丈夫だって……」
「で、で、も友達居た方が楽しくない?え、僕岡田くんしか友達居ないから分かんないけど……」
そう言われて中学のときのことを思い出す。が、脳裏に甦るのは、名前だけの友情と、その水面下で起こっていた数々の目を背けたくなるようなことばかり。だから、友達が居た方が楽しいということがよく分からない。
仲間意識は共通の敵を生み出したときの牙となる。俺は、その牙が誰にどんな風に噛み付いたのか、この目で見てきた。この記憶があるから、新しく友達を作ろうとは思わない。期待もしていない。ただ、教室の隅でひっそりと息をしているだけで、それを誰かに認知もされなくていい。
でも、これは俺の考えで、寺島にとっては違うことは当たり前だ。特に寺島なんてあまり教室に通うことが出来ず、保健室で過ごすことが多かったから憧れもあるのだろう。
「まあ、居たら楽しいと思うよ。面倒なことにならなければだけど……」
「ちょっと~、始まる前からネガティブ止めな~?」寺島が俺の背中を小突いてくる。「人と関わるのは悪いことばっかじゃないよって人と全然関わってない僕が言っていい言葉じゃなかったですねごめん」
「何も言ってないって……」
そうやって歩いていると、徐々に住宅街に入り、さっきの駅前とは違い喧騒から離れて緑が増え、のどかな景色になる。風に乗って、近くに流れている夕凪川の新緑や清い水の香りが漂って来る。そして、ビニールハウスの角を曲がると、一際大きな建物が目に入った。
生徒達が皆校門に入って行っていて、先生達も並んで挨拶をしている。その近くには『第58回 明築高校入学式』と大きく書かれた立て看板も置いてあった。そして周りには大きな桜の木が立ち並んでいて、どれもまだ綺麗に咲いていた。きっと入学式の後はここで写真を撮る家庭が列を為すのだろう。
「つ、着いた、ね」寺島が少し強張った声で言う。
俺も少しドキドキしてきた。数日前に、入学前検診で訪れたとはいえ、こうして先生や上級生達も居るのを目の当たりにすると、緊張してきてしまう。
「まあ、大丈夫だよ」
寺島に言うふりをしながら自分にも言い聞かせ、歩を進める。すると、校門の五メートルくらい手前で一人の先生から「おはよう!」とよく通る声で挨拶された。きっとああいうのは体育の先生だと思う。
寺島はそれに驚いて「お、おっ、おはようございますっ」と咄嗟に返していたが、多分声が小さすぎて聞こえていない。俺も校門の通る時、先生達に「おはようございます」と挨拶しておいた。
そして、挨拶という試練を乗り越え、ようやく学校の敷地に足を踏み入れる。青々と繁った芝生が広がっていて、その表面は散った桜で所々桃色に彩られていた。
少し先の柱時計の下に『入学式会場 体育館はこちら』と矢印が書かれた看板が置いてある。しかし、あれは保護者向けの看板で、まず俺たちは体育館の前に行くべき所がある。
「ク、クラス分けは、一年の校舎前かな?」
「そうかも。皆あっち行ってるし、行ってみようか」そうして人の流れに沿って行く。
明築高校は大きく分けて長方形の三つの校舎で建てられている。一番校門に近い場所にある校舎が一年生のクラスがあって、真ん中が職員室と二年生の校舎。残りが三年生のものとなっている。といっても、まだ学校説明会や入学前検診の数回しか来たことがないから、俺も細かくは知らない。
ただ、この三つの校舎を繋ぐ廊下が二階にしかなく、エレベーターも無いから、移動にかなり不便なことだけは知っている。事実、学校説明会の校舎案内のときに、やたら階段の登り降りをさせられ、疲れた記憶が鮮明に残っている。
そんな一年の校舎前に行くと人だかりが出来ていた。それを見てすぐにクラス分けが貼り出されているのはここだ、と分かった。
「うわ~、き、緊張する、ね」
「……そうだな」さすがに俺もかなり緊張してきた。
せっかく同じ学校に進学出来たのだから、一緒のクラスになりたい。独りで過ごす覚悟は出来ていると思っていたが、いざこの時がやってきたら、独りの味が少ない学校生活を送ることが怖くなってくる。ずっと暗い所に居れば暗闇の恐怖を知ることも無かったのと同じように。
「は、離れちゃっても友達、だからね!ずっ友!」
「見る前から言うの止めろ止めろ」
「僕には岡田くんって友達が居るから、大丈夫!独りじゃない!岡田くんいるから!」
「お前それ昨日の引きずってるだろ」
寺島の不安とおふざけがブレンドされた発言を適当にあしらい、人だかりの中に突入していく。すみません、と言いながら徐々に前に進んでいき、ある程度の所で止まった。俺は名字的に上の方に名前があるだろうから最初の数行だけ確認する。が、自分の名前は無く、次のクラスを見る。しかしそこにも無い。
そのまま三組まで見てみたが俺の名前は無く、四組を確認しようとしたとき、「えーっ!!」と右方向から絶叫が聞こえて来た。
周りの人も俺もぎょっとして声の方を見る。すると、声の主は寺島だった。俺たちの目線にすぐに気づき、顔を真っ赤にさせて目を泳がせ、人混みの中から退場していく。どうしたんだ……。
俺も脱出し、柱の近くで踞っている寺島の元に駆け寄る。
「恥ずかしい……消えたい……」
「感情のハードルを下げるなよ……。で、どうしたの?」
「そう!」相変わらず情緒のシャトルランが早い寺島が突然立ち上がり言う。そして、「クラス!同じだったよ!」と言い放つ。
「えっ、ほんとに?」
「ほんとほんとほんと!四組!見て来て!」
寺島に背中を押され、急いで確認しに行く。また人ごみをかき分け、四組の紙の前までたどり着く。三番目に俺の名前があって、下に目線を動かしていくと寺島の名前もあった。本当に、あった。そのとき、思わず口元が緩んでいる自分も見つけた。
にやにやしてしまいそうになるのを抑えながら再び寺島の元に戻る。「マジで、同じクラスだったな」
「ね!奇跡みたい!嬉しい!」
「ふふ、でも奇跡大袈裟じゃない?」
「でもでも、同じ中学からまた同じクラスにするのって、中々無いと思うし、奇跡だよ!」こういうハードルの下げ方は良いのかもな、と感心する。
「じゃあ、四組行こうか。またよろしくな」
「こちらこそ!よろしくお願いします!」
校門に咲いていた桜と同じくらいに満開の笑顔で寺島は言う。そんな寺島と一緒に、これから一年間過ごす教室へ向かった。
教室に行って予鈴まで寺島と話して過ごした。俺たちのように同じ中学からの生徒が居たのか、もう数グループ出来ていて談笑している人たちも居た。仲良くなるの早いなと思っていると、どうやら入学前にSNSで既に知り合っている人も居ると寺島が言う。興味本位でうちの学校名で検索すると、『四月から入学します!同じ学校の人友達になりましょう!』といった投稿が数件あったらしい。自分たちも同じ時代に生きているはずなのに、絶対に越えられない壁のような物を感じる。
そんなことを感じていたら予鈴が鳴り、担任が来てクラスメイト全員が揃っていることを確認して体育館に向かう。入場するとき、保護者の列に母さんと倫子さんが居ないか少し見回してみたが、見つからなかった。
そこから校長の話を聞いたり、入試主席であろう生徒が入学の挨拶を務め、国歌を歌わされたりする。教室に居る時よりも緊張は解れ、座っているだけだったから居眠りしそうになるが、なんとか堪えた。でも隣の男子生徒なんて頭をガクガク揺らして寝たり目覚めたりを繰り返していた。
そんな感じで入学式は特別何も無く終わった。教室に戻ってきて大量の教科書とプリントを配られ、担任から短い挨拶と明日からの予定を話され、そして解散となる。
時間は十時を過ぎたところ。スマホを確認すると母さんから『校門前に居るわ。一緒に写真撮りたいから来て』と連絡が来ている。
「俺写真撮りに行くけど、寺島のとこも撮るなら一緒に行く?」まだ教科書の整理をしている寺島に聞く。
「あ、僕、これから行くとこあるから」
「そうなの?どこ行くの?」
「あの、体育の先生のとこと、保健室の先生のとこ。前に挨拶、したんだけど一応もっかい」
腕のことや症状のことか、と察する。中学のとき体育は長袖で参加したり、水泳は見学していたからそのことと、保健室の先生には発作が出たときの対応などをもう一度説明しに行くのだろう。
「話終わったら僕らも校門行く。一緒に帰りたいから、待っててくれると嬉しい」
「おっけ、分かった」
そうして一緒に教室の外に出る。寺島はまず体育準備室に行くらしく、階段を登って行った。寺島と別れ、俺は一人で母さんの元に向かう。
校門付近の芝生には既にたくさんの生徒とその保護者達が居た。やはり皆『第58回 明築高校入学式』と書かれた看板を入れて撮りたいのか、そこには長蛇の列が出来ている。が、何人かはその列に並ぶのに嫌気がさしたのか、適当な場所で写真を撮っている人たちもいた。でも母さんは看板の方で撮りたがるだろうなぁ……。
そう思っていると列の中に母さんを見つけた。既に並んでいたようだ。後ろに並んでいる人たちに申し訳なく、すみませんと心の中で謝りながら、母さんと合流する為に割り込みをする。加えて、少しだけ『合わせる』意識を持って。
「母さんお待たせ」
「あら、来たのね。まだかなり並びそうだわ。荷物重かったら持つわよ?」
「ううん、大丈夫だよ」
本当は重かったが、母さんに持たせるのも悪いと思って我慢した。これ何キロあるんだろう……と思いながら待ったり一歩進んだりを繰り返す。
「蒼志は部活、何か考えてるの?」しばらくそうしていると母さんが聞いてきた。
「あー……」返す言葉が濁る。
中学のときは陸上部をしていた。が、特に好きではなかった。ただ、母さんに言われて内申点の為にやっていただけで、情熱も功績も特に無いまま引退をした。
だから高校は特に部活は考えていない。文芸部でもあれば考えるが、母さんには小説を書いていることは教えていないから、あったとしても入部するのは怪しまれそうだ。
「あんまり、考えてなくて……。帰宅部でも、良いかなって……」
『合わせる』のは難しそうだったから仕方なく本当のことを話した。恐る恐る顔色を伺うと、母さんは目を丸くする。
「そうなの?でも、もったいないんじゃない?」
「え……、な、なんで……?」
「だって、せっかく三年間陸上部で頑張ったのに」
「…………」
頑張ったからもったいない。そこに自分の意志は無く、流されてしたこと、だとしてもだろうか。
続けて母さんは言う。
「ああでも、確か英会話の部活もあったから、そういうのでも良いかもしれないわね」
「……そう、なの………?」
「そうよ。大学入試のときにも役に立つし。ああ、生徒会なんかも良いかもしれないわね。蒼志はしっかりしてるから向いてそうだし」
母さんは俺の目の前に選択肢を並べるが、そこに選びたい物は無い。俺が手にしたい選択肢は既に持っているからだ。でも、母さんの言葉を聞いていると、だんだん自分が持っている選択が、色褪せて見えてくる。
確かに、大学入試のとき役に立つかもしれない。でも、大学って、何だろう。俺もまだ、大学でやりたいことなんて見つかってないのに、母さんには分かるのだろうか。俺じゃないのに、なんで。
「……………………」背負った荷物がさっきよりも増して重く感じる。背筋を伸ばして立っているのが辛くなってくる。
もう、母さんの言う通りにした方が良いのかもしれない。別に、部活に入っても良いじゃないか。母さんの言う通りにメリットはある。生徒会だって。
「……うん、」俺自身まで色が抜けていく感覚がしてきて、そうする、と言いかけたとき。
「岡田くん!」寺島の声がした。
顔を上げ、声のした方を見ると、寺島が手を振ってこちらに近づいて来ていた。先生達への挨拶が早く終わったのだろうか。それを見てひどく安心する自分に気づき、また『合わせ』過ぎて自分を見失うところだった、と胸を撫で下ろした。
自分のことになると加減が分からなくなってこうなることがよくある。朝のように、寺島のことなら自分を見失う前に意志を表明することが出来るのに。
「あら耀くん、久しぶりね。制服似合ってるわぁ」
「あ、お、岡田くんの、おっ、お母さん、お久しぶり、です。あ、あっ、ありがとう、ございます」いつもより吃りが増しながら寺島は言う。
そんな二人を見ながら俺は一つ祈る。どうか母さんが余計なことを言いませんように、と。
本当に嫌で悲しいことなのだが、母さんは、寺島のことを少し、下に見ている節があるからだ。今朝の発言もそうだし、他にも、……。
詳しく深いことは話していないが、いわゆる不登校とされる時期があったことと、症状のことは軽く話してしまっている。だから――というのもおかしいが――『可哀想』や『弱者』といった意味を含んでいそうな発言をされることが多い。
俺はそんな風に思ってはいないし思いたくもないが、母さんの発言を通して、俺にもその意識の種を植え付けられていそうで、気持ちが悪いし怖い。
「あっ、ああの、良かったら、ふ、二人の写真、撮ります、よ」
「本当に?ありがとうね。じゃあお礼に、二人の写真も私が撮ろうかしら」
「いや、もう寺島の家で俺たちの写真撮ったからそれは大丈夫」その提案が母さんの本性を隠そうとしているみたいで、気持ち悪く感じて優しさを突っぱねてしまう。
「そうなの?耀くんごめんね、この子恥ずかしがりというか反抗期というか……」
違う。
「あ、しゃ、写真は僕も、良いー……かなー……。後ろ、たくさん、人、待ってますし……」寺島も遠慮がちに俺に同意した。
この空間に居心地の悪さを感じ、早く順番が回ってこないかとそわそわしてしまう。が、まだ先に数組人が並んでいた。もう何も話さなくて良いよ……と願うが、それは破られる。
「そういえば、二人は同じクラスになれたの?」
「あっ!そ、そうなんです!い、一緒に、なれました!」
「そうなのね~。良かったわね、二人とも」
「はい!」
「うん」
こういう素っ気ない態度を取ってしまうところが、反抗期と形容されてしまう原因なのかもしれない。
でも、元を辿れば俺と母さんのどちらに責任があるんだろう。
「同じクラスなら先生も同じだし勉強もお互い教え合えるわね。耀くん、蒼志のことまたよろしくね。この子、私に似て賢くないから」
これもいつもの言葉。母さんは知り合いに話をするとき、俺のことをこう言う癖がある。事実だし特に何も思わなくなったが、寺島はそうじゃなかった。
「そ、そんなこと、ないです……!」
その声は、叫びたいのを抑え込むように小さく震えていたが、強い語感をしていた。
そんな風に、言わなくても良いのに。
「寺島…………」
「………………」
微妙で気まずい沈黙が流れる。別に寺島は悪くないし、むしろ嬉しかった。でも、この空気をどうしたら……。
そう思考を巡らせていると、「次どうぞ」と前にいる人に声をかけられた。いつの間にか列が空いていて、俺たちの番になっていたみたいだ。
「じゃあ耀くん、写真お願いしていい?」
「あっ、は、はい!もちろん!」母さんが寺島にスマホを手渡してから、俺と看板の前に並ぶ。
俺の後ろに母さんが立って、肩に手を置いてくる。
「じ、じゃあ、撮ります!」寺島が手を上げて合図をしてくる。
こうされていると、俺は母さんの所有物という感覚になる。
「はいチーズ!」瞬間、シャッターが切られた。
寺島が駆け寄ってきて写真を見せてくる。
「これで、だ、大丈夫、ですか?」
「うん大丈夫。バッチリよ、ありがとう」
写真がちゃんと撮れていることが確認出来たから、次の人にどうぞと言ってその場から少し離れる。
「そういえば、耀くんのお母さんは?」
「り、…………お母さんは今、な、なんか……あのー…………迷子です」
「え、倫子さんとはぐれたの?」
「いや、はぐれてないけど」
「え?」
「まあよく分からないけど、私たちは帰りましょうか」
「あー……」寺島と一緒に帰ろうと言っていたから、俺もそのつもりだったけど……。
どうしよう、と寺島を見る。少し眉を下げて頷き、微笑まれた。『僕のことは良いから』と言っているようで、少し胸がぎゅっとなる。
その表情を見て強く思った。
「ごめん母さん」流されて、決められたくない。「俺、寺島と一緒に帰る約束してて」
「……あらそうなの?」
「うん」
そんな俺を見て寺島は「え、お、お母さんと帰っても、いいよ?」と小さく言うが、俺は続ける。
「昼ごはんまでには、帰るから」
自分のことは、自分の意志で、決めたい。こんな些細で小さなことだが、こういう所から変えていかないと、大きなことも変えられるはずがないから。
「そう、分かったわ」母さんは心無しか少し素っ気なく言う。「なるべく早く帰ってくるのよ」
「うん分かった。気を付けてね」そうして母さんと別れを告げる。
校門から出ていく姿を見て、ようやく肩の力が抜ける。『合わせる』んじゃなくて、自分の言葉で話すのはどうも慣れない。
「え、あ、あの、良かったの?」寺島が遠慮がちに聞いてくる。
「うん。一緒に帰るって、言ったし」
「で、でも、お母さん優先しても、良かったんだよ?」
「いや、でも……」そもそも、母さんに決められたのが嫌だった以前に俺は「寺島と一緒に帰りたかったし」
そう俺が言うと寺島は「え~~!!」とにこにこしながら俺の肩をバシバシ叩いてきた。結構痛い。
「岡田くん可愛いこと言うじゃん~!」
「そうだろそうだろ」恥ずかしくなってきて逆に肯定をする。
「ていうか、倫子さんとほんとにはぐれたの?探しに行く?」
「あ、いや、あれ嘘」
「え、そうなの?」
「うん。保健の先生とまだ話してる」あっち、迎えに行こ、と寺島が指さして歩き出す。
長引くような話なのだろうか。それとも、寺島本人には聞かせたくないようなこととか……?
「そうなんだ。何の話してるんだろう」
「なんか、映画とかアニメの話してたから、僕だけ抜け出して来ちゃった」
めちゃくちゃどうでも良かった。
確かに、倫子さんはノリが軽いことがあるから容易に想像はつく。でも、だからって先生相手にするとは……。
「なんか、倫子さんらしいな……」
「だよね~。でも、岡田くんのお母さんに、なんで保健の先生と話してるの?って聞かれそうだったから、さっき、嘘付いちゃった」申し訳なさそうに少し自嘲も混ぜた口調で言う。
確かに母さんは聞きそうだし説明し辛いことだから、嘘を付いても良いと思う。でも、この声色になるのはたぶん、『元を辿れば自分が悪い』という寺島の癖なのだろう。
「そういえばさっき」いつもの寺島節が始まる気配がして話題を変える。「そんなことない、って言ってくれてありがとう」
「え、いやそんな……、いえ、どういたしまして……」
「また『そんなこと』って言いそうになったろ」
「バレましたか……」
「バレましたよ」
そう話しながら校舎の中に入る。中は日が当たらないから、外の暖かな空気とは違って少しひんやりとしている。
そして、入ってすぐの角を曲がると保健室に着いた。
「ここだよー。一年校舎の一番角だから、覚えやすいね」
「だな。でも体育館とか運動場からは遠いな」
「分かる」
すのこに上がって靴を脱ぎ寺島がドアを開けようとしたが、その手が止まる。そして、俺に振り返って柔らかく笑う。
「岡田くんが僕を応援してくれるように、僕も岡田くんのこと、応援してるから」にっ、と歯を見せてもう一度笑い、ドアを開ける。
その言葉で俺の心の中が、さっきまで居た外の春陽がさしたように、じんわりと心が暖かくなる。
「……ありがとう」
とても良い始まりになったみたいでよかった。
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