ゆうなぎ町の午前四時

九重 樹

4月

4月7日(日)

『鍵空いてるから上がっていいわよー』

 インターホンから声がする。

 お礼を言ってから扉を開けた。靴は二つ。年下組は遊びに行ってるんだろうな、今日日曜だし。

「こんにちは。お邪魔します」

「はぁい」リビングの椅子に座って、パソコンで作業している倫子さんが手を挙げる。「こんにちは~」

「今日も作業?」

「あ、はい。また場所借ります」

「良いのよそれくらい。若いもんが頑張ってると、私も頑張らなきゃって気が引き締まるからね」両手をぐっと上に伸ばして伸びをする。

「……進捗、ヤバいんですか」

 俺がそう言うと、倫子さんは二秒くらい固まった。それから、目を閉じてゆっくりとコーヒーを一口飲む。

「まあ、二徹するくらいには、ね。ふふ」

「ヤバいんですね」

 あはは、と力なく溶けかかったような笑いをする顔には、よく見たら隈があって、髪の毛もちょっと乱れている。

 たぶん絶対十中八九、倫子さんは夏休みの宿題をギリギリまで溜め込むタイプだったと思う。

「というわけで、何もお構い出来ないし、むしろ後で甘いもののお使い頼むと思うけど、ゆっくりしていってね」そう言ってまたキーボードに文字を打っていく。

 ありがとうございます、と一言残してから階段を上がった。

 二階に上がって手前の部屋の前に立つ。ノックしてから、寝てたらどうしようと考える。でも、すぐに「はぁい」と声がした。

「おはよう」扉を開ける「寺島」

「ん~、おはよー岡田くん」寺島がベッドに寝転びながら言う。

 持ってきた荷物をローテーブルの隣に置く。と、寺島もベッドから起き上がって俺の向かいに座った。

「暇だし進んでるなら清書手伝うよ」

「ありがとう。でも、前のからあんま進んでないんだ」

「ううん、大丈夫。めっちゃ丁寧に清書するから」にこ、と笑って言う。

「進んだ分、今から寺島のスマホに送るわ」

 すると寺島は「うん!」と、お子様ランチを待つ子供のような目で笑った。

 寺島のこういうところは、好きなんだけど、なんだか恥ずかしい。でも、素直に嬉しく思う。ありがたい。

「わあ~、思ってたよりある。嬉し~」そう呟いて、送ったもの――小説を読み出す。

 俺は小説――といっても、全く子供じみた真似事だけど――を書いている。いつも俺がスマホのメモ帳に書いて、そしてそれを寺島が清書という形で、ノートにまとめてくれる。

 ただ、それだけ。

 どこかの賞に応募する訳でもなく、ネットに投稿する訳でもなく、ただ、それだけ。読むのは寺島だけ。倫子さんは、俺が小説を書いていることは知っているけど、恥ずかしくて読ませられない。

 だから、世界で一人しか読者が居ない。

 自分でも、意味のない不毛なことをしているな、と自嘲に近い感情を抱くことがある。

 それでも、言葉や思考を物語に乗せることを止めれないのは、たぶん。

「あ、ここの言葉、すっごくいいな!」寺島が曇りの無い声色で言う。

「…ありがと。俺もそこ好き」

「だよね!…あ、見て、ふふっ、すっごい誤変換してる」

「マジで?気づかんかったわ」

 午後二時十七分。窓は開いていないけど、春風が肌を撫でた。


 作業を始めて一時間と少し。寺島はとっくに清書を終えて、俺の小説を読み返している。清書のノートは寺島の家に預けていて、何度も読み返してるらしいのに飽きないんだな、と感心と恥ずかしさと嬉しさが混じった感情になる。

 ふと、寺島がノートを閉じて「あ~」と呟いた。

「明日、入学式だねぇ」

「ああ~、そうだな」

 相槌を打って思考する。さっきから悩んでいる。ここどういう表現にしようかな。なんか色で表現したいんだけど、ん~でも――――。

 するとそのとき、「ほんと怖いー!」と、寺島が頭を抱えながら叫んだ。そして床に倒れる。ゴンッ、とそこそこ痛そうに頭をぶつける音がした。

「えー、そんな嫌?」

「嫌か嫌じゃないかで聞かれたら嫌かな!ああ!つまり嫌ってことか!うん!嫌だな~~!!」

 普段中々聞かないくらいの大声を出す姿に、思わず笑ってしまう。

 たぶん、寺島にとっては一大事なんだろうけど、俺はなんだか、少し安心してしまったからだ。前は、嫌とか怖いすらも言えなかったけど、今はこうやって絶叫出来てる。俺には良いことのように見えた。

「ちなみに何が嫌なの?」聞いて解決に近づけそうなことなら、手伝いたいと思って尋ねる。

「え、えー……。全部?」

「じゃあ全部教えて」

「え。え、うーん、まずあれだよね、不安だな。通えるかなとか、勉強ついていけるかなとか、電車やっぱ怖いなとか友達出来るかなとかいじめられないかなとか」

「相変わらず多いなぁ。んー、まず一個ずつな」

 鞄の中からルーズリーフを出して、寺島が言った不安を書き出していく。

「な、なになになに」起き上がって来て言う。

「えー、まず、通えるかの不安か。電車怖いとも重なるな。んー」

「そんな真面目に考えなくていいよ!なんか申し訳ない!作業しなよ!」

「いや、全然真面目じゃない。ちょっと詰まってた所だし、楽しんでるから」

「岡田くんのそういうところ良いと思う!!」

「ふふ、ありがと。……んー、ぶっちゃけ…………」

 寺島が眉を平行にして固唾を呑み、緊張の顔で俺を見てくる。でも、俺にはこの後にする顔がだいたい想像つくから、半分笑いながら口を開く。

「どうすることも出来ないと思う」

「ですよねー!!」予想した通り、うぎゃーっと顔のパーツをしわしわにして叫ぶ。「知ってた!知ってる!!」

「だって、電車通学に向けてちゃんと練習もしたんだし、出来ることはしたしなって」

「した、けど~!」拳を作って握りしめ、肩を震わせる。

「あとはその自分の頑張りを信じれるかどうかかなって」

「そ、その通りですね…」ふっと脱力したように机に突っ伏す。忙しいな。

「で、勉強もどうすることも出来ない。まあ、手伝える範囲は手伝うし俺も手伝ってほしいし」

「あ、ありがとう……。……人付き合いうんぬんもどうすることも出来ないよね」

「あ、うん、そう、だな」言おうとしてたことを、急いで言わなくて良いことの押し入れに閉じ込める。

「え、なにその間」

「いや、なんでも。唾気管に入っただけ」

 咄嗟すぎて一秒でバレる嘘も飛び出す。一応言葉を扱う趣味を持っているのに、我ながら下手くそすぎる。

「絶対嘘!卑怯!僕には全部言えとか言うくせに!」

「い、いやでも、言う選択したのは寺島だし…」

「…………………………」

「嘘マジでごめん嘘だから。そんな死んだ目で俺を見るな」

「…………じゃあ言って」

 そう言われて、一度押し入れに閉じ込めたその言葉を取り出す。それを眺めて……、いや、やっぱり恥ずかしい。自意識と自惚れまみれでベタベタだ。でももう一度寺島の顔を見たらさっきと同じ顔で俺のことを見てるから、言うしかない。

 俺は一度息を吸ってから、言った。

「……あー、いじめは正直なんとも言えない……。でも、何かあったら絶対行動はするから、そこは、一人じゃないって信じてほしい」

「んふ、うん」

「お前笑うなマジで」

「ふ、はい」両手で口を塞ぐ。逆に面白がられている気がする。ちょっと腹立つな。

「…でぇ……!と、友達うんぬんはぁ…!!」寺島の顔を見る。両手で隠してても分かるくらいに、にんまり微笑んでる。笑うな。「…お、」

「俺がいる、じゃん」

 たぶん、それこそこれが小説とか漫画なら、凪いだ時が流れたんだろうけど、俺たちの場合、

「あははは!岡田くんかわい~~!!」寺島の爆笑する声だった。

「うるさい。マジでしばく」

「え~!嬉しいしかわい~!!いぇいいぇい!」腕を伸ばして来て、俺の両手を握って万歳をさせてくる。腹立つ。

「こんなところで最近で一番の元気見せるな!」

「あはは、ごめんごめん。や、でもほんとそうだなって思ったよ!友達いるね、岡田くんいるもんね、いぇい」腹立つ。

「いぇい禁止な」

 やっと両手を離してくれた。もう両手を奪わせないぞ、と俺は腕を組む。

「んふふ、確かにそうだな~!先の不安のせいで目の前に居る人を忘れちゃいけないね!」わざとらしく、うんうんと頷いて言う。マジでこいつ調子乗ってるな。

「はい、よろしくお願いします」

「や、でもほんとに嬉しいよ。そのさ、あの、岡田くんの中の僕の中で…、あれ?よく分かんなくなっちゃった」

「うん…。まあ、寺島いつも、俺に負担がとかいうけど、言っちゃえば俺も寺島に負担かけてるし、救われたとこあるし、持ちつ持たれつかなって」

「え、嬉しい。救われたとか嬉しすぎる。待ってほんとに嬉しい。何だろう。何かしたっけ。何に救われたの?」

「言わない」

 こんなところで感じるのもどうかと思うけど、お前はほんとに元気になったな。

 そして、寺島にとって俺がこういった冗談を言える存在なことも、嬉しく思う。三年前のちょうどこのくらいの時期、寺島と初めて会ったときのことを思い出して、そう思った。

 三年の間に、色々あった。色々という言葉では括れないくらいの、良い悪いでは評価出来ない様な出来事がたくさんあった。

『それらを経験しているから今の自分たちがいる』と、過去を正当なものとして受け入れるにはまだ時間が必要かもしれないけど、それでも一つ言えるのは、

「まあ、これからもよろしく」


「入りますわよ~」ノックの音がしてから扉が開く。と、そこには倫子さんが居た。その顔は、すごく疲れているように見える。

「ど、どうしたの倫子さん」寺島がその様子にぎょっとして言う。

「あのね~、ドーナツ買ってきてほしいのよ~」

「え?」

「コンビニはダメよ。あの美味しいところ、ね。はいこれお金」そう言って財布ごと寺島に渡す。

「疲れてるとね、甘いものがね、食べたくなるからね~。そういうわけで、お願いね~」

 ふらふらしながら去って行く倫子さん。

 たぶん相当ヤバいんだろうな、と他人事だけど両手を合わせてしまった。頑張ってください……。

「あ~、強制お使いだね~……。まあいっか。岡田くんはどうする?」

「ん、着いていくよ。ちょっと集中切れてきたし」

「そっか。何個とか言われてないから僕らのも勝手に買っちゃお。それぐらい良いよね」

「まあ、たぶん」時間は午後四時三分。おやつには少し遅めだけど、まあ、いいか。

「よーし、じゃあ早く行っちゃお。の前に着替えるね。さすがにまだ明るいのにジャージはやだ」

「うん、いいよ。待つ」

 さすがに買ってもらうのは悪いなと思って財布の中身を確認しようとしたら、そもそも財布を持ってきていなかった。寺島の家だしと思って置いてきたのを忘れてた。こんなことなら、小銭くらいポケットにいれて来れば良かったのに、と後悔する。

「ごめん寺島、俺財布忘れたわ」振り返って、後ろのクローゼットに立ってる寺島に言った。

「え?ああ」上のジャージを脱ぎながら言う「良いよ。たぶん倫子さん、岡田くんのも買って良いよってので、財布ごと渡してくれたと思うし」脱いで肌着だけになる。

「そっか」ジャージの下に隠されていた、それを、見る。

 両腕――右は左にくらべてマシだけど――に刻まれた、無数の切り傷の跡。

 深く切ったのであろう箇所は少し隆起していて、凸凹している。切り傷の他にも、大小の火傷跡があるけど、どれも新しい物じゃない。

 うん、良かった。

「下何も着てないの?寒くない?」観察しているとあまり悟られないよう、言う。

「あー、寒いかも。なんか、四月になったしいけるかなって、余裕ぶっちゃった」下着よ~、と呟いて半袖の肌着を着て、黒の長袖スウェットを着る。

 これで見えなくなった。

「ようしこれでオッケー。お待たせ。行こっか」

「うん」

 このことに関して、俺はまだ自分の中の、答えとか思考を、未だに持ち合わせていない。だから、触れない。触れないことが寺島にとって良いことなのかは分からないけど、俺の前で堂々と裸になって普通に会話してたから、たぶん大丈夫なんだと思う、今日も。

 良かった。

 まだ寺島の中で俺は、許されてる存在なんだ。所詮これも俺の勝手な想像だけど、それでも、少し安心する。


 外に出ると、まだ少しだけ冬の尾を引いた風が首もとを切った。でも日差しは穏やかで暖かく、春は二面性のある季節だなと思った。

 倫子さんから頼まれたお使いの目的地までは、歩いて10分ほど。住宅街を歩いているせいか、公園に小さな子供たちが居たり、買い物帰りの人たちとよくすれ違う。ごくごく普通の日曜日の夕方。

「桜さぁ」歩きながら寺島が言う。「学校のもまだ咲いてるかな」

「咲いてるんじゃないかな。最近雨も降ってないし」そこの公園に咲いている桜も、七分咲きでもまだ元気そうだ。

「そっか。良かった」

「なんで?」

「入学式っていえば桜じゃん?写真とか撮られるだろうし、そのときに枯れてるのはなんかね、寂しいよね」

 確かに、と思った。始まりの象徴でもある桜が咲いていない入学式は、なんだか寂しい。

「あと曇ってても気分下がるよな」

「分かる~!そういえば、明日の天気ってどうなんだろう」

 そうやって他愛ない会話をしながら明日以降のことにぼんやり思いを馳せる。何が変わって、何が変わらないのかとか、それは良い変化かなのか悪い変化なのかとか。

 さっきは寺島の不安を、弄ったのか励ましたのか微妙なラインの会話をしていたけど、正直俺にも不安はあった。人の不安には『大丈夫だよ』と言えても、自分には中々言うことが出来ない。

「あ、良いこと思い付いた」寺島が突然言った。

「ん、何?」

「目標、決めたら良いかなって。そしたらなんかー、良い感じにー、過ごせるかなって」

 良い前の向き方を見つけたな、と思わず関心する。

「良いと思う。何にするの?」

「何にしよう」

「決まってないのか」

 ……目標。決めることで道しるべが見え、どこに行くのか明確になって、今の自分の居場所を見失わないように出来るもの。俺にとっての目標は、何だろう、何にしたらいいんだろう。

「あ、でも僕、ずっとなりたいなって思うものはあるよ」

「そうなの?何?」

「ふわっとしてて、概念みたいな話なんだけどね……」へへ、と恥ずかしそうに頬をかく。

「新しい自分になりたいなぁ、と思って」

「………………」

 それは、とても大切で大好きな宝ものを見せるときのように、優しく柔らかい声だった。俺は、その宝ものを見せてくれたことが嬉しくて、胸が詰まる。

「めっちゃくちゃ、良いと思う」言葉じゃ足りないと思って、寺島の背中をぽんと叩いて言った。

「えへへ、あ、ありがとう。で、でも、具体的なことは決まってないから、ほんとにふわっとしてて」

「全然良いと思う。むしろ寺島が思うもの全部で良いと思う。欲張っていいよ」

「わあ、すごい背中押してくれるじゃん、ありがとう」

 そりゃそうだ。寺島はずっと頑張ってきたし、今も頑張っていて、俺はそれをずっと見てきたのだから。

「岡田くんは何か目標ある?」

「あー……」

 そう言われて考える。今まで目標なく生きてきたように感じる。それどころか、自分の魂を感じることも少なかった。今は、前に比べれば少しは魂の輪郭のようなものが分かる気もするけど、まだ、自分が何なのか見つからない。たぶん、それは――

「まだ、見つからない、かも」自分の中から目を逸らした。

「……そっか」

 すると、今度は寺島が俺の背中をぽんと叩く「でも、ならさ」

「見つけることが目標でも、良いんじゃない?」

 寺島は優しく笑って言った。

「…………そうかな」

「そうだよ。大丈夫。一緒に頑張ろう」

 寺島は俺の一歩先に立って、俺の服の袖を掴む。一歩先に居るのに、隣に居てくれてるような感覚になって安心する。

 いつだって救われるのは、先に居るように感じる人の『頑張れ』よりも、隣に居てくれると感じる人の『頑張ろう』だ。

 こういうところが救われてるって、なんで気づかないのかな。

「うん」これは胸を張って言えた。「頑張ろう」

 俺たちは一歩一歩と進んでいく。

 頑張れ。俺も頑張るよ。

 春晴るる青空に桜が泳いだ。

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